宋書卷三十一 志第二十一 五行二

総説

  • 『五行伝』にいう。好んで戦を攻め、百姓を軽んじ、城郭を飾り、辺境を侵せば、金はその性に従わなくなる(金がその性を失い災いとなることをいう)。また、言葉が(道理に)従わないことを「乂まらず」といい、その咎は僭、その罰は恒暘(長雨知らずの日照り)、その極は憂であるという。この時には詩妖が現れ、介虫の孽(劉歆伝は毛虫とする)が現れ、大禍(犬禍)が現れ、口舌の痾が現れ、白眚白祥が現れる。これらはみな木が金を沴す(そこなう)ことに通じる。

金不從革

  • 魏の世、張掖に石瑞が現れた。これは晋の符命であったが魏にとっては妖であった。好んで攻戦し、百姓を軽んじ、城郭を飾り、辺境を侵すことは魏の三祖(曹操・曹丕・曹叡)すべてに見られた。劉歆説に「金石は同類、石図に非常の文が現れるのは金が革に従わぬ異である」といい、晋の大業の隆盛は多く曹氏の衰えによるもので、石瑞の文は「曹を討つ」に応じたものであった。
  • 魏明帝青龍中(233〜236年)、盛んに宮室を修め、西の長安から金狄(銅人像)を取り寄せたところ、承露槃が折れる音が数十里に聞こえ、金狄はそのまま霸城にとどめ置かれた。これは金がその性を失い異となったものである。
  • 呉の世、歴陽県に印の形をした巌穴があり、この石印が発するときは天下太平になると言われていた。孫皓の天璽元年(276年)にこの印が現れ、陽羨山にも長さ十丈余りの石穴があった。皓は初め武昌宮を修め遷都の意があった(当時武昌は離宮であり、班固の「離宮は城郭と同占」との説はまさに「城郭を飾る」にあたる)。宝鼎三年(268年)皓は東関に出て丁奉を合肥に遣わし、建衡三年(271年)にも華里に大挙出撃した(「辺境を侵す」にあたる)。ゆえに金はその性を失い、ついに面縛して呉は滅んだ。
  • 晋恵帝永興元年(304年)、成都王穎が長沙王を伐ったとき、毎夜、戈戟の鋒に県燭のような火光が見えた。これは民命を軽んじ好んで攻戦したため金がその性を失い変となったものである。天戒に「兵は火のようなもの、戢めねば自ら焚く」とある通り、成都王穎は悟らずついに敗亡した。
  • 晋懐帝永嘉元年(307年)、項県にある魏の豫州刺史賈逵の石碑から金が生じ、採取できるほどであった。これは金が革に従わぬ変である。五月、汲桑が乱を起こし群盗が蜂起した。
  • 晋の清河王覃が世子であったとき、佩びていた金鈴に粟粒のような突起が生じた。母の康王后はこれを不祥として毀棄させた。のち覃は恵帝の太子となったが位を全うできず、司馬越に殺された。
  • 晋元帝永昌元年(322年)、甘卓が王敦を襲おうとして中止し、帰宅後さまざまな怪異があり、鏡に映しても自分の頭が見えなかった。これは金がその性を失い妖となったものである。まもなく王敦に襲われ一族滅ぼされた。
  • 石虎の時、鄴城の鳳陽門上にあった金の鳳凰二頭が飛んで漳河に入った。
  • 晋海西太和中(366〜371年)、会稽山陰県で倉を建てようと地を掘ったところ、銭で満ちた大船二隻が出土した。銭はみな輪郭のある大形のもので、日暮れに発見され、役人が厳重に守らせたが翌朝には銭は消えており、船だけが残り、銭のあった痕跡だけが見えた。
  • 晋安帝義熙初(405年頃)、東陽太守殷仲文が鏡に自分の頭が映らなくなり、まもなく誅殺された。占いの結果は甘卓のときと同じであった。
  • 宋後廃帝元徽四年(476年)、義熙・晋陵の二郡でともに霹靂車(隕石)が地に墜ち、青石のようで草木を焦がして枯らした。

言之不從

  • 魏斉王嘉平初(249年)、東郡で「白馬河に妖馬が出て夜官牧のそばを過ぎて鳴き、多くの馬が呼応した。翌日その足跡は斛ほどの大きさで数里続いて河に戻った」との訛言が広まった。楚王彪はもと白馬に封ぜられていたため、兗州刺史令狐愚は彪に智勇ありとしてこの言を聞き、王凌と共に彪の擁立を謀った。使者が彪に「王よ自愛されよ」と伝えると、彪は「厚意は分かった」とだけ答えた。事が漏れ、令狐愚は誅され彪も死を賜った。これは言葉が従わないことの罰である。詩に「民の訛言、寧ぞこれを懲らすなからんや」とある。
  • 劉禅の即位について、譙周は晋の穆侯・漢の霊帝の命名の故事を引いて譏った。先主劉備の諱「備」は「具わる」の意、後主劉禅の諱「禅」は「授ける」の意であり、「劉すでに具わり、まさに人に授く」というに等しく、穆侯・霊帝の祥よりも甚だしい。果たして蜀は滅んだ。これも言の従わざるなり。
  • 劉備が卒し、劉禅が即位して未葬・未踰月のうちに建興と改元した。これも言の従わざるなり。習鑿歯は「礼では国君は即位して年を踰えてから改元するもので、臣子の心として一年に二君あるに忍びないためである。今は亟(すみやか)にして礼を知らぬというべきで、君子はこれによって蜀が東遷(晋への服属を免れる)できないことを知った」と論じた。のちに呉の孫亮、晋の恵帝、宋の元凶(劉劭)も同様であった。孫亮は位を全うせず、恵帝の号令は自分のものでなく、元凶もまもなく誅された。これも言の従わざるなり。
  • 魏太和中(227〜233年)、姜維は蜀に帰属し母を魏に残した。魏人はその母に手紙を書かせ維に帰るよう呼びかけ、当帰(薬草)を添えて諭した。維は「良田百頃あっても一畝を計らず、ただ遠志(薬草)を見て当帰なし」と返書し、そのまま留まった。維は結局それでも免れなかった。
  • 魏明帝景初元年(237年)、有司が明帝を烈祖とし太祖・高祖と並んで不毀の廟とすることを奏し、これに従った。按ずるに宗廟の制、祖宗の号はみな身没し名成りて後に定めるべきもので、功や徳がどれほど大きくとも生前に予定する典はなかった。これは言の従わざる甚だしきものであり、二年後に明帝は崩じ、政は緩んだ。
  • 呉の孫休の代、烏程の民に大病を患いのち治った者があり、「響言」(声を遠くに伝える能力)ができるようになった。近くで話しても遠くで聞こえ、遠くから聞くとまるで対面しているように聞こえ、声の届く範囲はその向く先により最大十数里であった。近隣に借金を返さぬ者があり、これを利用し「鬼神」を装って返済を迫らせたところ、借主は畏れて返した。本人もなぜそうなるのか分からなかった。これも言の従わざるの咎である。
  • 魏の代に建てられた安世殿に、晋武帝がのちに居した(「安世」は武帝の字)。晋武帝は群臣を招いてしばしば平生の些事を語り、国家経営の遠大な計画には及ばなかった。これも言の従わざるなり。何曾は子の遵に「国家に貽厥(後世への配慮)の謀がなく、我が身限りのことばかり。後嗣は危ういのではないか」と語った(子孫の憂いである)。永熙以後王室は次第に乱れ、永嘉中に天下は大いに壊れ、何綏(何曾の孫)が無実の罪で誅されるなど、何曾の言のとおりとなった。
  • 趙王倫が恵帝を金墉城に廃し、金墉を永安宮と改号した。帝はまもなく復位し、倫は誅された。
  • 晋恵帝永興元年(304年)、太子覃を廃して清河王に戻す詔が下り、成都王穎を皇太弟に立てた上、なお侍中・大都督・領丞相を加え九錫を備え二十郡を封じ魏王の故事に倣った。按ずるに周礼では国を伝えるのは血胤によるもので勲功によらず、周公旦のような聖であっても成王の嗣は易えなかった。それは僭越を遠ざけ宗廟を永く一つに保つためである。実にそぐわぬ非常の待遇を与えたのは言の従わざる甚だしきもので、進退が乖爽(食い違う)したため、帝は流浪し穎もまた位を全うできなかった。後になっても悟らず、さらに懐帝を皇太弟に立てたが懐帝も流されて弑され位を保てなかった。語に「古を変じ常を易えれば乱れずんば亡ぶ」とあるのはこのことか。
  • 晋恵帝太安中(302〜303年)、周玘が陽羨に邸宅を築き完成した直後、壁の中から人の嘆咤のような声がした。玘の死後、一族は誅滅された。これも言の従わざるの類である。
  • 晋元帝太興四年(321年)、呉郡の民が「紵(からむし)や樗(おうち)の木の中に大虫がいて人を噛めば即死する」と訛言し、晋陵の民も「市に髪をふり乱した老女が現れ酒を求め、『天帝が私に水門から出よと命じたのに誤って虫門から出た。天帝に戻れば必ず殺される』と語った」と言った。百姓は互いに恐れ動揺し、死者はすでに十数人という噂も広まった。西は京都に及び、樗や紵のある家はこれを伐り、まもなく自然に止んだ。
  • 晋元帝永昌元年(322年)、寧州刺史王遜が子の澄を人質に入京させ、渝濮の雑夷数百人が京邑に入った。民は「寧州人が人家の小児を大食し、蒸し煮にして釜甑に満たしている」と訛言し、失踪した子には皆その名があると言い、婦人は道で胸を打って哭いた。百姓は各々小児を戸外に出さぬようにし、さらに「食人の犯人を捕らえ大杖で処刑する」と言われ、日に四五百人が航頭に集まり見物した。士大夫でさえ「まことにそうらしい」と言い合った。郡県の文書がすでに上がったとも言われ王澄は大いに恐れて検証させたが実態はなく、民家にも失踪児はなかった。これでようやく訛言と知れた。この二事について干宝は「未だ論じ得ず」と述べている。
  • 永昌二年(323年)、大将軍王敦が姑孰に拠ったとき、百姓は「蟲病が人の大孔(肛門)から入り腹に達すれば死ぬ、治すには白犬の胆を薬とすべし」と訛言し、淮泗から京都まで数日で驚擾が広がり、人々は皆すでに罹患したと言い、外にいたときに焼鉄で灼くべきだったとも言われ、十のうち七、八がこれで灼かれた。白犬は暴騰し、値は十倍にもなった。焼鉄をよくすると自称する者が百姓を灼いて日に五、六万銭を得たが、疲弊してのち四五日でようやく治まった。説くところでは、裸虫(人類)が主であるのに虫が人を食うというのは本来同類が互いに残賊しあうことを言い、下から上へ逆らうことを明かすもので、腹に入るとは害が内から起こることを言い、犬に守禦の性があり白は金色で胆は武を用いる主、帝王の運は五霸が戊戌に会し兵を用いるのは金であり、晋は火行、焼鉄で治すのは類を去って火と金が徳を合わせ蟲害を共に治めることを言う。按ずるに中興のとき、大将軍王敦はもと腹心として伊尹・呂尚の任を受けたが、元帝末年ついに京邑を攻め、明帝の諒闇にもまた異謀を抱いた。これは下が上に逆らい腹心が内から爛れたということである。錢鳳・沈充らの逆兵が四方から合流し王師に挫かれ、一月を過ぎても進めなかった。北中郎将劉遐と淮陵内史蘇峻が淮泗の兵を率いて朝廷を救ったため、謡言は淮泗に始まったのである。朝廷はついに弱をもって強を制し、罪人は首を斬られた。白犬の胆で救えるという言はその効であった。
  • 晋海西時(366〜371年)、庾晞は四、五年の間しきりに挽歌を好み、自ら大鈴を揺らして唱え左右に唱和させ、宴会でも倡妓に新安人の歌儛(離別の辞、悲切な調べ)を演じさせた。時人はこれを怪しみ、のち果たして敗れた。
  • 晋海西公太和以来(366〜371年)、大家の婦女は緩鬢傾髻を盛装とし、髪が多く必要で常には結わず、あらかじめ木の台に仮髻を作って「仮頭」と呼び、これを借りて「借頭」と称して天下に広まった。以後、人士は事故で頭首を失ったり、草木で作った仮頭を用いる者が多く現れ、これはその先兆であった。
  • 晋孝武帝太元中(376〜396年)、内殿を建てて「清暑」と名づけたが、まもなく崩じた。時人は「清暑とは逆さに読めば楚の声」と言い、果たして哀楚の声が起こった。ある人は「そればかりではあるまい」と言い、讖に「晋に代わるは楚、それはここにあろうか」とあり、桓玄が簒逆し自ら「楚」を号したことに応じた。
  • 太元中、子供が二つの鉄を土中で打ち合わせる遊びを「鬭族」と称した。のちに王国宝・王孝伯という同族が互いに攻撃しあった。
  • 桓玄が南州に出鎮した際、斎を建て「蟠龍」と名づけた。のちに劉毅がこの斎に住んだが、「蟠龍」は毅の小字であった。
  • 桓玄が初め改元して「大亨」としたとき、遠近で「二月了」(大亨の字を分解すると二月に終わる意)と言われた。義軍は仲春(二月)に発した。玄が簒立してさらに「建始」と改元したが趙王倫の元号と同じであり、また「永始」と改めたが、これは王莽が受封した年号でもあった。はじめ司馬道子を安成に遷し、晋主(安帝)を退位させ永安宮に出し、晋主を平固王に、琅邪王徳文を石陽公に封じ、ともに尋陽城に住まわせた。識者はみな「言の従わざるの妖」と言った。
  • 厥咎僭。晋が興った当初、何曾は太官の御膳を薄しとして自ら私食を用意し、子の劭はさらにそれを超え、王愷はさらに劭を超えた。王愷・羊琇の輩は声色を極め珍麗を窮めた。元康中(291〜299年)には奢侈が風俗となり互いに競い合い、石崇の奢侈は王愷・何曾を兼ねて主君に匹敵するほどとなった。崇が誅死すると天下もまもなく淪喪した。これは僭踰の咎である。

恒暘

  • 魏明帝太和二年(228年)五月、大旱。太和元年以来、宮府を崇広した応である。この春、晋の宣帝(司馬懿)は南で孟達を捕らえ二郡を置き、張郃は西で諸葛亮を破り馬謖を斃した。亢陽自大の応でもある。京房易伝に「徳を欲して用いざる、これを張と謂う、その災いは荒(凶作)、その旱は陰雲不雨、変じて赤煙四際、衆出て時を過ぐる、これを広と謂う、その旱は生ぜず、上下皆蔽わる、これを隔と謂う、その旱天赤く三月に雹あり飛禽を殺す、上妃を求む、これを僭と謂う、その旱三月大温にして雲なし、君高台府す、これを陰を犯し陽を㑴すと謂う、その旱万物根死し数々火災あり、庶位節を踰ゆ、これを僭と謂う、その旱沢物枯れ火の傷むところとなる」とある。
  • 太和五年(231年)三月、去冬十月からこの月まで雨降らず、辛巳に大雩(雨乞い)。この春、諸葛亮は天水に侵攻し晋宣王(司馬懿)がこれを防いだ。亢陽動衆、また二方が分据し衆出時を過ぎた時である。春秋説に「二穀を傷めるを不雨という」とある。
  • 魏斉王正始元年(240年)二月、去冬十二月からこの月まで雨降らず。去歳正月明帝崩じ、二月曹爽は嗣主に晋宣王を太傅に転じさせ、表向きは尊崇、実は事を先に自分から行おうとした。このとき宣王の功は魏朝を蓋い、「徳を欲して用いず」の応である。
  • 魏高貴郷公甘露三年(258年)正月、去秋からこの月まで旱。晋文王(司馬昭)が諸葛誕を囲み、衆出時を過ぎた応である。もと寿春は春夏よく雨潦(大雨)で城を浸したが、この旱は年を踰え城が陥落したのちに大雨となり、人々は天が滅ぼしたと考えた。
  • 呉孫亮五鳳二年(255年)、大旱・民饑。この歳閏月、魏将文欽が淮南の衆数万口を率いて降り、孫峻はまた魏将曹珍を高亭で破った。三月朱異は安豊を襲ったが克てず、七月広陵・東海の二郡を攻め、十二月馮朝を監軍使者として徐州諸軍を督させたが軍士は怨叛した。これは亢陽自大・労民失衆の罰であり、役が一年に及んだため旱も年を通じた。
  • 呉孫皓宝鼎元年(266年)春夏、旱。このとき皓は武昌に遷都し民を労し衆を動かした応である。
  • 晋武帝泰始七年(271年)五月閏月、旱・大雩。この春孫皓は華里に出撃し、大司馬望は衆を率いて淮北に次した。四月北地の胡が金城・西平を寇し、涼州刺史牽弘は出戦して敗没した。
  • 泰始八年(272年)五月、旱。このとき帝は荀勖の邪説を納れて賈充を留め西鎮させず、任愷はしだいに疏んじられた。上下皆蔽われる応であり、李熹・魯芝・李胤らも散職に置かれ、徳を欲して用いざるの意であった。
  • 泰始九年(273年)正月から六月まで旱、宗廟社稷山川に祈り癸未に雨。去年九月呉の西陵督歩闡が城を挙げて降り、羊祜が楊肇ら八万の衆を統べて闡を迎え救おうとしたが、十二月陸抗が肇の軍を大破し闡を滅ぼした。
  • 泰始十年(274年)四月、旱。去年秋冬、卿校諸葛沖らの娘を選び、この春五十余人が入殿しさらに選抜、小将吏の娘数十人も取られ母子が宮中で号哭しその声は外にまで聞こえ、行人は悲しんだ。積陰が陽を生む応であろう。
  • 晋武帝咸寧二年(276年)五月、旱・大雩、社稷山川に及び六月に至り雨降る。
  • 晋武帝太康二年(281年)、去冬から旱、この春呉を平らげた。亢陽動衆自大の応である。
  • 太康三年(282年)四月、旱。乙酉、司空斉王攸・尚書・廷尉・河南尹に詔して繫囚を録訊させ、罪を蠲宥した。
  • 太康五年(284年)六月、旱。この年正月天陰り解けてまた合し、劉毅が上疏し「必ず阿党の臣で君を欺く者があり誅すべきなのに赦されている」と述べたが帝は答えなかった。このとき荀勖・馮紞が威福を専らにし朝を乱すこと甚だしかった。
  • 太康六年(285年)三月、青・涼・幽・冀の郡国で旱。
  • 太康六年六月、斉・陰・武陵で旱、麦を傷めた。
  • 太康七年(286年)夏、郡国十三で旱。
  • 太康八年(287年)四月、冀州旱。
  • 太康九年(288年)夏、郡国三十三で旱。
  • 太康九年六月、扶風・始平・京兆・安定で旱、麦を傷めた。
  • 太康十年(289年)二月、旱。
  • 晋武帝太熙元年(290年)二月、旱。太康以後、正人が朝に満ちても親任されず、賈充・荀勖・楊駿・馮紞らが要職を占め続けたため、年ごとに旱があった。徳を欲して用いず、上下皆蔽われ庶位が節を踰えた罰である。
  • 晋恵帝元康元年(291年)七月、雍州大旱、霜が降り疾疫が広がり、関中は飢え米一斛が万銭となった。
  • 元康七年(297年)七月、秦・雍二州大旱。この年氐羌が反乱し雍州刺史解系は敗績、正月には周処・盧播らも敗れ関西は震乱し、交兵年を通じ飢疫が至り、戎・晋ともに困窮、朝廷は互いに売り買いすることを許した。
  • 元康七年九月、郡国五で旱。
  • 晋恵帝永寧元年(301年)、夏から秋まで青・徐・幽・并の四州で旱。この年春、三王(斉王冏ら)が趙王倫を討ち、六旬の間に大小数十戦、死者十余万人。十二月郡国十二もまた旱。
  • 晋懐帝永嘉三年(309年)五月、大旱。襄平県の梁水・淡淵が涸れ、河洛・江漢も徒渉できるほどとなった。この年三月司馬越が京都に帰り、兵を宮に入れて中書令繆播ら九人を捕らえ殺した。これは僭踰の罰であり、また四方の諸侯に無君の心を懐く者が多く、劉淵・石勒・王弥・李雄の徒が民命を賊害し流血は泥となった応でもある。
  • 永嘉五年(311年)、去冬から旱がこの春まで続いた。去歳十二月司馬越は京都を棄て大衆を率いて南出し、王公朝士や行台までも従わせ、禁衛を斥け国人に代えたため宮省は蕭然として君臣の節がなくなった。
  • 『晋陽秋』に「愍帝は西京にあり旱傷が続いたが年月の注記がない」とある。
  • 晋愍帝建武元年(317年)六月、揚州旱。去年十二月淳于伯が冤死し、その年すぐに旱となり、太興元年六月にもまた旱となった。干宝は「伯を殺した後三年旱が続いたのはこれである」と言う。按ずるに前漢では孝婦を殺せば旱となり、後漢でも囚を得れば旱となったが、見理(冤罪を晴らす)すれば雨が降った例があり、これも類である。班固は「刑罰みだりに加えられ群陰つかず陽気勝つゆえその罰は恒暘」と言う。
  • 建武元年四月、麹允らが悉衆で寇を防ぎ、五月祖逖が譙を攻め、冬に周訪が杜曽を討った。衆出の応である。
  • 晋元帝太興四年(321年)五月、旱。このとき王敦の彊僭の兆しが漸く著れ、去歳蔡豹・祖逖らの征役もあった。
  • 晋元帝永昌元年(322年)、大旱。この年三月王敦の石頭の変があり、二宮を陵辱し大臣を誅死させた。僭踰無上のため旱が特に甚だしかった。
  • 永昌元年閏十一月、京都大旱、川谷みな涸れた。
  • 晋明帝太寧三年(325年)、春から六月まで雨降らず。去年秋、王敦を滅ぼした。亢陽動衆自大の応である。
  • 晋成帝咸和元年(326年)秋、旱。このとき庾太后が臨朝称制し、群臣は「皇太后陛下」と上奏した。婦人が王事を専らにした、言の従わざると僭踰の罰であり、漢の鄧太后の事と同じである。
  • 咸和二年夏、旱。
  • 咸和五年(330年)五月、旱。去年蘇峻の党を滅ぼし、この春さらに郭黙を討って滅ぼした。亢陽動衆の応である。
  • 咸和六年(331年)四月、旱。去年八月石勒が郭敬を遣わし襄陽を寇し南中郎将周撫は武昌に奔り、十月李雄は李寿に建平を寇させ太守楊謙は宜都に奔った。この正月劉徴が婁県を掠め衆を起こして警備した。
  • 咸和八年七月、旱。
  • 咸和九年、四月から八月まで雨降らず。
  • 晋成帝咸康元年(335年)六月、旱。このとき成帝は幼弱で内外の政は将相に委ねられ、僭踰の罰として連年旱が続いた。四年に至り王導が太傅を固辞し子明の位に復させたところ、その後旱がなくなった。天下がおしなべて旱で会稽・余姚は特に甚だしく、米一斗五百銭、民は互いに売り合った。
  • 咸康二年三月、旱。
  • 咸康三年六月、旱。
  • 晋康帝建元元年(343年)五月、旱。このとき宰相が専政し方伯が重兵を擅にし、咸康初と同事であった。
  • 晋穆帝永和元年(345年)五月、旱。有司は董仲舒の術に依り市を徙し水門を開き謁者を遣わして太社を祭ることを奏した。このとき帝は繦褓中にあり褚太后が臨朝、明・穆太后の故事のようであった。
  • 永和五年(349年)七月から十月まで雨降らず。この年二月征北将軍褚裒が軍を遣わし沛を伐ちその民を納れて帰った。六月西中郎将陳達を遣わし寿陽に進め、自ら舟師二万で下邳に至ったが前駆を喪い退いた。達もまた退いた。
  • 永和六年(350年)閏月、旱。この春桓温は大衆を率い夏口に出、上疏し舟軍で北伐しようとして朝廷を驚かせた。蕭敬は涪を盗み西蛮校尉采寿は敗績した。
  • 晋穆帝升平三年(359年)十二月、大旱。この冬十月北中郎将郗曇は万余人を率い高平に出て河兗を経略し、さらに将軍諸葛悠に舟軍で河に入らせたが敗績、西中郎将謝万も下蔡に次したが衆潰えて帰った。
  • 升平四年十二月、大旱。
  • 晋哀帝隆和元年(362年)夏、旱。このとき桓温が強恣に権制し朝廷を僭踰した罰であり、また去年慕容恪が冀州刺史呂護を囲み桓温は宛陵に出て次し范汪・袁真もともに北伐し、衆出時を過ぎた。
  • 晋海西太和四年(369年)十二月、涼州で春旱が夏に及んだ。
  • 晋簡文帝咸安二年(372年)十月、大旱・民飢。このとき嗣主(孝武帝)は幼く桓温が僭を陵いだ。
  • 晋孝武帝寧康元年(373年)二月、旱。このとき桓温が入覲し、高平陵の一件で満朝は拝を致した。踰僭の応である。
  • 寧康三年(375年)冬、旱。先に氐賊が梁・益州を破り刺史楊亮・周仲孫は奔退、翌年威遠将軍桓石虔が姚萇を撃ち墊江でこれを破り五城まで退かせ、益州刺史竺瑤は衆を率い巴東を戍した。
  • 晋孝武帝太元四年(379年)六月、大旱。去歳氐賊が南中郎将朱序を襄陽に囲み、揚威将軍戴遁を彭城に囲んだため、桓嗣は江州の衆を率い鄀に次して序を援け、北府から三州の民を発し何謙に配して遁を救った。この春、襄陽・順陽・魏興城はみな陥落し、賊は淮南を略し広陵に向かい、征虜将軍謝石は水軍を率い涂中に次し、兗州刺史謝玄が諸将を督してこれを破った。
  • 太元八年(383年)六月、旱。夏初、桓沖が襄陽を征し冠軍将軍桓石虔を樊城に進め、朝廷はさらに宣城内史胡彬を峡石に次させ桓沖の声勢とした。
  • 太元十年(385年)七月、旱・饑。初め八年に苻堅を破り、九年に諸将が略地し徐豫で事があり、楊亮・趙統が巴沔を攻討した。この年正月謝安がまた広陵に出鎮し、子の琰を彭城に進めた。
  • 太元十三年(388年)六月、旱。去歳北府が兵を胡陸に遣わし荊州は河南を経略、この年郭銓は野王に戍を置き、さらに軍を遣わして黄淮を破った。
  • 太元十五年(390年)七月、旱。この春丁零が兗豫を略し鮮卑は河上を寇し、朱序・桓不才らは北は太行、東は滑台まで至り、時を過ぎて攻討し、石門を戍した。
  • 太元十七年(392年)秋から冬まで旱。このとき茹千秋が驃騎諮議として主相の威福を窃弄し、また邱尼(尼僧)・乳母の親党や婢僕の子が近習に縁って民に臨み衆を領し、上奏は多く春を過ぎても囚人は罪を問われぬまま建康の獄吏の枉暴は特に甚だしかった。これは僭踰・不従・冤濫の罰である。
  • 晋安帝隆安四年(400年)五月、旱。去冬桓玄は殷仲堪を迫り殺したが朝廷はすぐに荊州の任を授け、司馬元顕はまた百僚に自らを敬うよう諷した。これはみな陵僭の罰である。
  • 隆安五年(401年)夏秋、大旱、十二月雨降らず。去年夏孫恩が会稽に入り内史謝琰を殺し、この年夏呉を略し内史袁山松を殺した。軍旅の東討で衆出時を過ぎた。
  • 晋安帝元興元年(402年)七月、大飢、九・十月雨降らず。この年正月司馬元顕は大衆をもって桓玄を討とうとしたが玄が先に至り元顕を殺し、五月孫恩の余党を東征、十月劉軌を北討した。
  • 元興二年(403年)六月、雨降らず、冬また旱。このとき桓玄は奢僭し、十二月ついに簒位した。
  • 元興三年(404年)八月、雨降らず。このとき王師は四方に伐ち西夏未だ平らがず。
  • 晋安帝義熙六年(410年)九月、雨降らず。このとき王師は北討し広固を平らげ三州を疆理した。
  • 義熙八年(412年)十月、雨降らず。この秋王師は西討し劉毅を討ち分かれて蜀を伐った。
  • 義熙十年(414年)九月、旱。十二月また旱、井や瀆の多くが涸れた。
  • 宋文帝元嘉二年(425年)夏、旱。
  • 元嘉四年(427年)秋、京都旱。
  • 元嘉八年(431年)五月、揚州諸郡旱。
  • 元嘉十九年・二十年(442〜443年)、南兗・豫州旱。
  • 元嘉二十七年(450年)八月から二十八年三月まで雨降らず。このとき索虜(北魏)が南寇した。
  • 孝武帝大明七年・八年(463〜464年)、東の諸郡大旱、民の飢死者は十のうち六、七に及んだ。先に江左以来制度に欠けるものが多く、孝武帝は明堂を立て五輅を造り、このとき大いに徒衆を発して南巡し校猟を行い、盛んに自ら矜大にしたため旱災を招いた。
  • 後廃帝元徽元年(473年)八月、京都旱。

詩妖

  • 魏明帝太和中(227〜233年)、京師で「兜鈴曹子」という童謡が歌われ「その汝曹を奈何せん」と唱えた。これは詩妖であり、のちに曹爽が誅され曹氏はついに廃された。
  • 魏明帝景初中(237〜239年)、童謡に「阿公阿公、馬車を駕して、意わざりき阿公東のかた河を渡らんとは。阿公東に還りて当に奈何すべき」とあった。宣王(司馬懿)が遼東を平らげて帰り白屋に至って還って長安を鎮めるはずが、明帝の急病で追鋒車に乗り東に河を渡り、ついに魏室を翦った。童謡の言のとおりであった。
  • 魏斉王嘉平中(249〜254年)、謡に「白馬素羈、西南に馳す、その誰か乗る者ぞ、朱虎騎す」とあった。朱虎とは楚王彪の小字。王凌・令狐愚はこの謡を聞き彪の擁立を謀ったが事発覚し凌らは誅され彪は死を賜った。
  • 呉孫亮初、童謡に「吁、汝恪何如、蘆葦のごとき単衣、篾の鈎絡、何くに於いて相求めん、成子閣」とあった。成子閣は反語で石子堈のこと、鈎落は鈎帯のこと。諸葛恪が死んだとき果たして葦席で身を包み篾でその腰を束ね石子堈に投げ込まれ、のち恪の旧吏がこの堈で遺体を収めた。
  • 孫亮初、公安で白鼉が鳴き童謡に「白鼉鳴く、亀背平らかなり、南郡城中、長生すべし、死を守りて去らず、義成る無し」とあった。南郡城で長生できるとは急あればたやすく逃げられることを言う。翌年諸葛恪が敗れ弟の融が公安を鎮め、彼もまた襲われ融は金印を削って服し死んだ。鼉は鱗介甲兵の象、また白祥でもある。
  • 孫休永安二年(259年)、守質の子らが群れて遊んでいたところ、異形の小子が現れ「三公は鋤し司馬は如く」と言い、さらに「我は人にあらず、熒惑星なり」と言って昇天し、練を曳くように見えのちに消えた。干宝は「後四年で蜀が亡び、六年で魏が廃され、二十一年で呉が平定され、九服は晋に帰した。魏と呉蜀はともに戦国であり、三公鋤し司馬如くとはこのことを言う」と言う。
  • 孫皓初、童謡に「寧ろ建業の水を飲むとも武昌の魚を食らわず、寧ろ建業に還りて死すとも武昌に止まらず」とあった。皓はまもなく武昌に遷都し、民は水を遡って供給を強いられ皆怨嗟した。
  • 孫皓は使者を遣わし石印山下の妖祠を祭らせ、使者は丹で巌に「楚の九州の渚、呉の九州の都、揚州の士は天子となり四世で太平を治める」と書いた。皓はこれを聞き意気を張り「大皇帝から朕まで四世、太平の主は朕をおいて誰か」と言い、恣虐はますます甚だしくなり、まもなく降伏し滅んだ。詩妖に近い。
  • 孫皓天紀中(277〜280年)、童謡に「阿童また阿童、刀を銜えて江を游渡す、岸上の虎を畏れず、ただ水中の龍を畏る」とあった。晋武帝はこれを聞き王濬に龍驤将軍を加え、呉討伐の際、江西の衆は誰も敵わず王濬が先に秣陵を平定した。
  • 晋武帝太康後(280年以降)、江南の童謡に「局縮肉、数横目、中国当に敗るべし、呉当に復すべし」また「宮門の柱、しばらく朽ちるなかれ、呉当に復すべし三十年の後」また「鶏鳴きて翼を拊たず、呉復するも力を用いず」とあった。呉人はみな孫氏の子孫の代に起こると考え、密かに乱を起こす者が相継いだ。按ずるに「横目」は四字の(隠された)意であり、呉の滅亡から晋元帝の興隆までほぼ四十年、童謡の言のとおりであった。元帝は懦弱で決断少なく「局縮肉」で直接それを指した。干宝は「何を指すか分からぬ、忌んで言わぬのだ」と言う。
  • 太康末(289年頃)、京洛で初めて「折楊柳の歌」が作られ、その曲は初め兵革の苦辛の詞、終わりは禽獲斬截の事であった。このとき三楊(楊駿ら)が貴盛を極め、のち一族滅ぼされ、太后(楊太后)も廃黜され幽死した。
  • 晋恵帝永熙中(290年)、河内温県で狂人のような者が書を作り「光光文長、大戟牆となる、毒薬行われるといえども戟還りて自ら傷つく」また「両火地に没す、哀しいかな秋蘭、形を帰し街郵に、路人歎きをなす」と言った。楊駿が内府に居て戟をもって衛としたが死に、その死の際にも戟で害され、楊太后は廃され賈后がその膳を絶ち八日で崩じ街郵亭の北に葬られ、百姓はこれを哀れんだ。「両火」は武帝の諱「炎」、「蘭」は楊后の字。
  • 永熙中、童謡に「二月末三月初め、荊筆楊版、詔書を行う、宮中の大馬、幾ど驢と作る」とあった。楊駿が初め専権し楚王(司馬瑋)がまもなく事を用いたため「荊筆楊版」と言われ、二人が誅されねば君臣の礼は悖るため「幾ど驢と作る」と言われた。
  • 晋恵帝元康中(291〜299年)、京洛の童謡に「南風起こりて白沙を吹く、遥かに魯国を望めば何ぞ嵯峨たる、千歳の髑髏、歯牙を生ず」また「城東の馬子、嚨哅(のどぼとけ)することなかれ、三月に至るまでに汝の鬃を纒わん」とあった。「南風」は賈后の字、「白」は晋の行、「沙門」は太子の小名、「魯」は賈謐の国。賈后が謐と乱を成し太子を危うくし、趙王倫がその隙に乗じ豪賢を咀嚼して簒奪を成したことを言う。このとき愍懐太子は衆望を失い、ついに廃黜されその死を得られなかった。
  • 元康中、天下の商農が用いる大帳「日」に童謡があり「屠蘇、日を鄣り両耳を覆う、当に瞎児の天子となるを見るべし」とあった。趙王倫が簒位したとき、実際に片目が見えなかった。趙王倫が簒位すると洛中の童謡に「虎、北より来たり鼻頭汗す、龍、南より来たり城に登りて看る、水、西より来たり何ぞ灌灌たる」とあった。数月で斉王・成都王・河間王の義兵がともに会し倫を誅した。按ずるに成都王は西藩で鄴にいたため「虎、北より来たる」、斉王は東藩で許にいたため「龍、南より来たる」、河間王は水の区分で関中にいたため「水、西より来たる」と言い、斉王は輔政に留まり宮の西にいて無君の心があったため「登城して看る」と言った。
  • 晋恵帝太安中(302〜303年)、童謡に「五馬、江を游度し、一馬、龍と化す」とあった。のちに中原大乱し宗藩の多くが絶え、ただ琅邪・汝南・西陽・南頓・彭城の五王のみ江表に至り、元帝が晋を嗣いだ。
  • 司馬越が洛に還ったとき童謡に「洛中の大鼠、長さ尺二、もし早く去らずんば大狗至らん」とあった。苟晞が汲桑を破ろうとしたころ、また謡に「元超兄弟、大いに落度す、桑に上り椹を打ちて苟の作るところとなる」とあった。これにより越は苟晞を憎み兗州を奪い、隙難がついに構えられた。
  • 晋愍帝建興中(313〜316年)、江南の歌謡に「訇として白阬の破るるがごとし、合集して持して甒と作す、揚州破れて敗に換わり呉興覆瓿甊す」とあった。按ずるに「白」は晋の行、「阬」は器で口が瓮に属し瓦質は剛、また金の類でもある。「訇として白阬破る」とは二都(洛陽・長安)が傾覆し王室が大壊したことを言う。「合集して持して甒と作す」とは元皇帝が遺余を鳩集して社稷を主どったが中原を克復できず江南に偏王したためその喩えは小さいことを言う。石頭の事変で六軍は大潰し兵人は京邑・二宮まで抄掠し、その後三年、銭鳳がまた京邑を攻め水を阻んで守り月余相持ち、城邑を焚焼し井を堙め木を刋った。鳳らは敗退し沈充はその党を率い呉興に還ったが官軍が追撃し郡県を蹈藉し、充父子は首を授けられ党与で誅された者は百数にのぼった。いわゆる「揚州破れて敗に換わり呉興は瓿甊を覆す」であり、瓿甊は瓦器で甒より小さい。
  • 晋明帝太寧初(323年)、童謡に「惻力惻力、馬を山側に放つ、大馬死し小馬餓う、高山崩れ石自ら破る」とあった。明帝が崩じ幼い成帝が蘇峻に逼られ石頭に遷され御饍が足らなくなった。「高山崩る」は蘇峻がまもなく死ぬことを言い(峻の弟が蘇石)、峻の死後石は石頭に拠ったがまもなく諸公に破られた。
  • 晋成帝の末、民間の謡に「礚礚何ぞ隆隆たる、車を駕して梓宮に入る」とあり、少日で宮車晏駕した(成帝崩御)。
  • 晋成帝咸康二年(336年)十二月、河北の謡語に「麦、土に入りて石虎を殺す」とあり、のち謡言のとおりとなった。
  • 庾亮が初め武昌に出鎮するとき石頭を出、百姓は岸上で「庾公武昌に上る、翩翩として飛鳥のごとし。庾公揚州に還る、白馬旒旐を牽く」また「庾公初めて上るとき、翩翩として飛烏のごとし。庾公揚州に還る、白馬流蘇を牽く」と歌った。のちしばしば徴されても入京せず薨じ、都に還って葬られた。
  • 庾義が呉郡にあったとき呉中の童謡に「寧ろ下湖の荇を食らうも上湖の蓴は食らわず」とあった。庾義は呉で命を喪い、王領軍を殺したがまもなく庾義・王洽が相継いで亡くなった。
  • 晋穆帝升平中(357〜361年)、童子らが道で「阿子」と歌い曲の終わりに「阿子、汝聞くや否や」と言った。まもなく穆帝が崩じ、太后は「阿子、汝聞くや否や」と哭いた。
  • 升平末、民間で「廉歌」が作られ扈謙という者がこれを聞いて「廉とは臨なり、歌に『白門廉、宮廷廉、内外悉く国家を臨む、その大諱ならんか』とあるのはそのことだ」と言い、まもなく穆帝は晏駕した。
  • 晋哀帝隆和初(362年)、童児が「升平斗に満たず、隆和など那ぞ久しかるを得ん、桓公石頭に入り、陛下徒跣にて走らん」と歌い、帝はこれを聞き悪み興寧と改元したが、民はまた「改めて興寧と雖も亦復た聊生無し」と歌った。哀帝はまもなく崩じ、穆帝の崩からもなお十年に満たなかった。
  • 晋海西公太和中(366〜371年)、民の歌に「青青たる御路の楊、白馬に紫游韁す、汝、皇太子にあらず、那ぞ甘露の漿を得んや」とあった。「白」は金行、「馬」は国族、「紫」は正を奪う色で紫を朱の間に明らかにすることを言う。海西公はまもなく廃され、三子は海西の実子ではなく皆馬の韁で縊り死んだ。翌日南方から甘露が献じられた。
  • 太和末、童謡に「犁牛、御路を耕し、白門に小麦を種う」とあった。海西が廃されると、呉の民がその門前を犁で耕し小麦を植え、謡言のとおりとなった。
  • 晋海西公が皇子を生んだとき、百姓は「鳳凰一雛を生む、天下喜ばざるなし。本言うところは馬駒なるも、今定めて龍子と成る」と歌った。歌はたいへん美しくその意味は微妙であった。海西公は男子をなせず、左右の者に龍(近侍)と交わらせその子を自分の子としていた。
  • 桓石民が荊州鎮上明にいたとき、民は「黄曇子」と歌い、曲の終わりに「黄曇英、揚州の大仏来たりて上明に上る」と歌った。まもなく石民は死に、王忱が荊州となった(「黄曇子」は王忱の字、忱の小字は「仏大」で「大仏来たりて上明に上る」とはこのことである)。
  • 大元末、京口の謡に「黄雌鶏、雄と作ることなかれ、父啼きて一旦去る、毛衣は拉颯として被り栖まん」とあった。まもなく王恭が挙兵し王国宝を誅したが、やがて劉牢之に敗れた。
  • 司馬道子が東府に土山を造り「霊秀山」と名づけた。まもなく孫恩が乱を起こし再び会稽を践んだ(「霊秀」は道子の封じられた地に因み、恩の字でもある)。
  • 庾楷が歴陽を鎮めたとき民は「重羅犁、重羅犁、使君南上して還る時なし」と歌った。のち楷は南に奔り桓玄に誅された。
  • 殷仲堪が荊州にいたとき童謡に「芒籠目、繩腹を縳る、殷当に敗るべし、桓当に復すべし」とあった。まもなく仲堪は敗れ桓玄が荊州を得た。
  • 王恭が京口を鎮め兵を挙げて王国宝を誅したとき、百姓は「昔年白飯を食らい今年麦䴸を食らう、天公誅讁す、汝に教えて嚨喉を捻らしむ、嚨喉喝また喝、京口敗れてまた敗る」と謡った。「昔年白飯を食らう」は志を得たことを言い、「今年麦䴸を食らう」の䴸は麤穢でその精が已に去り明らかに敗れんとすることを言う。「天公将に譴讁を加えんとしてこれを誅す」であり、「嚨喉を捻る」は気が通ぜず死の祥、「敗れてまた敗る」は丁寧の辞である。恭はまもなく死に、京都では大いに咳疾が流行し喉が皆喝れた。
  • 王恭が京口にあったとき民間に「黄頭の小人、賊をなさんと欲す、阿公城下に在り、指して縛り得たり」また「黄頭の小人、乱をなさんと欲す、頼るに金刀の蕃扞を作るを得たり」との言があった(「黄」の字の上は「恭」の字の頭、「小人」は「恭」の字の下である)。まもなく謡のとおりとなった。
  • 晋安帝隆安中(397〜401年)、民間に「懊悩歌」が作られ、その曲中に「草生じて擥結すべし、女児擥抱すべし」とあった。桓玄が簒立し天位に居たとき、義旗は三月二日に京都を平定し、玄の宮女や逆党の家の子女・伎妾はことごとく軍賞となり、東は甌越、北は淮泗まで人々はみな獲る所があった。「草結ぶべし」「女抱くべし」というのはこのことである。
  • 桓玄が簒位したのち童謡に「草生じて馬腹に及ぶ、烏、桓玄の目を啄む」とあった。玄が敗走して江陵に至り、五月中に誅されたのは期のとおりであった。桓玄のとき民謡に「征鐘地に落つ、桓迸走す」とあった。征鐘とは服の色が穢れたもの、桓を四体の下に称し、下から上に居るのは征鐘の厠に似る。歌謡は下体の詠、民の口であり、「落地」とは墜地の祥、「迸走」の言はその験が明らかであった。
  • 司馬元顕のとき民謡の詩に「まさに十一口あるべし、まさに兵の傷むところとなるべし、木亘、まさに北に度り走りて浩浩の郷に入るべし」また「金刀既に以て刻む娓娓、金城中にあり」とあった。この詩は襄陽の道人竺曇林の作で世に広く行われ、孟顗はこれを釈いて「十一口とは玄の字の象、木亘は桓なり、桓氏はみな関洛に走り入るべきゆえ浩浩の郷という、金刀は劉、義を倡えた諸公はみな劉姓多く、娓娓は美盛の貌」と言った。
  • 桓玄が志を得たとき童謡に「長干の巷、巷長干、今年郎君を殺し、明年諸桓を斬らん」とあった。玄が走って諸桓が悉く誅された(郎君とは司馬元顕)。
  • 晋安帝義熙初(405年)、童謡に「官家蘆を養い荻と成る、蘆生じて止まず自ら積を成す」とあった。そのころ官は盧循(盧龍)を養い金紫の寵を与え名州で奉じたが、養いが極まっても懐柔できず、ついに兵を挙げ内伐し讎敵と成った。「蘆生じて止まず自ら積を成す」に盧循の乱を人々は思い、識者は「積を成すの言を悪む」と言い、「芟夷蘊崇(草を刈り集める)しまた火を行う、これ草の窮まるなり。伐斫して積を成し薪ともなるのもまた蘆荻の終わりなり。その盛んなること極まればまた芟夷されて積となる」と言った。盧循はその兵勢を窮め舟艦を盛んにしたがついに滅亡し、僵屍は積のようであった。
  • 盧循が広州を拠有したとき民間の謡に「蘆生じて漫漫、天半に竟く」とあった。のち盧循は上流数州の地を擁有し、京輦に内逼した。「天半」の言に応じた。
  • 義熙三年中(407年)、小児が道で出会うと両手を挙げて「盧健健」と言い、次に「闘嘆」と言い、末に「翁年老」と言い、当時誰も意味を知らなかった。のち盧循が内逼し舟艦が川を蓋った、「健健」とはこのことであり、査浦に至り期日を屡々剋し朝廷と闘おうとした、「闘嘆」の応であった。昔、温嶠が郭景純に自分と庾亮の吉凶を占わせたとき景純は「元吉」と言い、嶠が亮に語ると景純は「筮ごとに敢えて尽くは言えぬが、我らは国家と安危を同じくする、元吉とは事が成ることだ」と言った。ここに至り協同して王敦を討滅した。「翁年老」とは群公が期頤(長寿)の慶があり妖逆の徒が自然に消え去ることを知ったということである。
  • その時さらに謡言があり「盧橙橙、水を逐いて流る、東風忽ち起こるがごとし、那ぞ石頭に入るを得ん」とあった。盧循は果たして敗れ石頭に入れなかった。
  • 苻堅中、童謡に「阿堅連牽三十年、後もし敗れんと欲する時、当に江湖の辺に在るべし」とあった。のち堅は淝水で敗れ、偽位にあること凡そ三十年であった。
  • 苻堅中、謡語に「河水清くまた清し、苻堅新城に死す」とあった。堅は姚萇に殺され新城で死んだ。
  • 苻堅中、歌に「魚羊田斗、まさに秦を滅ぼすべし」とあった。「魚羊」は鮮、「田斗」は卑、堅は自ら秦と号し、これを滅ぼす者は鮮卑であることを言う。群臣は堅を諫め鮮卑を尽く誅すよう勧めたが堅は従わず、淮南で敗れて還ったのち慕容沖に攻められて逃亡し姚萇のもとで身を殺され国は滅んだ。

毛蟲之孽

  • 晋武帝太康六年(285年)、南陽が両足虎を献上した。これは毛虫の孽である。識者はその文(占い)を「武の形に虧けあり、金虎儀を失う、聖主天に応ずるにこの異は何のためぞ、乱の兆しを言うなり」とした。京房易伝は「足少なきは下その任に勝えざるなり」と言い、干宝は「虎は陰精にして陽(金獣)に居る、南陽は火の名、金精が火に入りその形を失うのは王室が乱れる妖である。六は水の数を言い、水数がすでに極まれば火慝(かがやき)が作用し金がその敗れを受ける。元康九年(299年)に至り初めて太子を殺した、これより十四年、二七十四は火の始終相乗の数である。帝の受命から愍懐(太子)の廃まで凡そ三十五年」と言う。
  • 太康九年(288年)、荊州が両足の玃(大猿)を献上した。
  • 太康七年(286年)十一月丙辰、四角の獣が河間で見つかり河間王顒がこれを獲て献上した。角は兵の象である。董仲舒は四角を四方の象とした。のち河間王がしばしば四方の兵を連ねて乱の階を作ったのはその応であろう。
  • 晋懐帝永嘉五年(311年)、偃鼠が延陵に出た。これも毛虫の孽である。郭景純はこれを占い「この郡の東の県に妖人で称制しようとする者が出るがまもなく自ら死ぬだろう」と言った。のち呉興の徐馥が乱を起こし太守袁琇を殺したが馥もまもなく滅んだ、その応である。
  • 晋成帝咸和六年(331年)正月丁巳、州郡の秀孝を楽賢堂に会したとき麏(のろじか)が前に現れ捕らえられた。孫盛は「秀孝は天下の彦士、楽賢堂は賢を養う所以である。晋は喪乱以後風教が衰え秀才に策試の才なく孝廉に四行の実がない、麏が前に現れたのはあるいはこの故か」と言った。
  • 晋哀帝隆和元年(362年)十月甲申、塵(大鹿)が東海第に入った。百姓は「主が東海第に入る」と口々に言い、識者はこれを怪しみ、のち海西公が廃されて東海王とされたとき先にこの第に送られた。
  • 晋孝武太元十三年(388年)四月癸巳、礿祠が終わったところ、兎が廟堂上を行った。兎は野の物であり宗廟の堂に集うのは不祥の甚だしいものである。
  • 宋文帝元嘉二十四年(447年)二月、雍州が六足の麞(のろ)を献上し、刺史武陵王(駿)はこれを祥瑞とした。これも毛虫の孽である。
  • 宋順帝昇明元年(477年)、象三頭が蔡洲を渡り稲穀・園野を荒らした。

犬禍

  • 公孫淵の家の犬が幘(頭巾)をかぶり絳衣を着て屋根に上った。これは犬禍である。屋上は亢陽高危の地、天戒に「淵は亢陽無上、偷かに自ら尊高とする、狗にして冠する者なり」というようなものである。淵は自立して燕王となり、果たして魏に滅ぼされた。京房易伝に「君正しからず臣簒せんと欲す、その妖は狗、朝門に出づ」とある。
  • 魏の侍中応璩が直廬にいたとき忽ち一匹の白犬を見たが、他の人には見えなかった。年を踰えて卒した。犬禍に近い。
  • 諸葛恪が淮南征伐から帰り朝会に臨もうとしたとき、犬がその衣を銜えて引いた。恪は「犬は私を行かせたくないのか」と言い座に戻ったが、しばらくしてまた立つと犬はまた衣を銜えた。恪は犬を追い払わせ車に乗って入り、そこで害された。
  • 晋武帝太康九年(288年)、幽州で犬が鼻で地を行くこと三百余歩あった。
  • 晋恵帝元康中(291〜299年)、呉郡婁県の民家で地中に犬の声を聞き掘ると雌雄各一匹を得たが、穴に戻し磨石で覆ったところ一夜で失せた。元帝太興中(318〜321年)、呉郡の府舎でもまた同様の二物を得た。その後太守張茂は呉興の兵に殺された。按ずるに『夏鼎志』に「地を掘り狗を得れば名づけて賈という」、尸子に「地中に犬あり名づけて地狼という」とある、同実異名である。
  • 晋恵帝永興元年(304年)、丹陽内史朱逵の家の犬が三子を生んだがみな頭がなかった。のち逵は揚州刺史曹武に殺された。
  • 晋孝懐帝永嘉五年(311年)、呉郡嘉興の張林の家の狗が人語で「天下の人餓死す」と言った。
  • 晋安帝隆安初(397年)、呉郡治下の狗がいつも夜吠え高橋の上に集まった。人家の犬には限りがあるのに犬声は甚だ多く、夜出て覗いた者は「一匹の犬に仮に両三の頭があり皆前を向いて吠える」と言った。まもなく孫恩の乱が呉会で起こった。
  • 桓玄が楚王を拝そうとし拝席をすでに設け群官が陪位したとき、玄が未だ出ないうちに犬が来てその席で便をした。万衆が望み見て驚き怪しんだが、玄は性猜暴でついに何も言う者はなく、犬を追い席を改めただけであった。
  • 宋武帝永初二年(421年)、京邑で犬が人語を発した。
  • 文帝元嘉二十九年(452年)、呉興東遷の孟慧度の婢の蛮が犬と通じ夫婦のように仲良く一年を過ごした。
  • 孝武孝建初(454年)、顔竣が左衛となり省内で犬の子の声が地中でするのを聞き、掘ってみると烏犬の子を得た。長く養ったのちに自然死した。
  • 明帝初、晋安王子勛が尋陽で偽号を称したとき、柴桑で犬と女人が三日間離れず交わった。
  • 明帝泰始中(465〜471年)、秣陵の張僧護の家の犬が豕(豚)の子を生んだ。

白眚白祥

  • 晋武帝太康十年(289年)、洛陽宮西の宜秋里で石が地中から生じ、初め高さ三尺、香炉の形のようであったがのちに傴人(せむし)のように盤薄して掘り出せなくなった。按ずるに劉向はこれを説いて「白眚である」とし、翌年宮車晏駕(武帝崩御)、王宮は騒がしくなりついに乱亡した。京房易伝に「石、人のごとく立つ、庶人天下の雄となる」とあるのはこれに近い。
  • 晋成帝咸康初(335年)、地に毛が生じた。白眚に近い。孫盛は民の労苦の異とした。この後胡は滅び中原は向化し将相はみな心を尽くしたが、方鎮はしばしば革まり辺戍も遷り、みな□(底本欠字)帯部曲すること動もすれば万を数え、その間征伐・賦役に寧年なく天下は擾動し民は疲れ怨んだ。
  • 咸康三年(337年)六月、地に毛が生じた。
  • 晋孝武太元二年(377年)五月、京都で地に毛が生じ、四年に氐賊が襄陽を攻め彭城を囲み広陵に向かい征戍が続いて解けなかった。
  • 太元十四年(389年)四月、京都で地に毛が生じた。このとき苻堅が滅んだ後で経略が多かった。
  • 太元十七年(392年)四月、地に毛が生じた。
  • 晋安帝隆安四年(400年)四月乙未、地に毛が生じ、白か黒かであった。
  • 晋安帝元興三年(404年)五月、江陵で地に毛が生じた。この後江陵はしばしば襲われ交戦した。
  • 晋安帝義熙三年(407年)三月、地に白毛が生じた。
  • 義熙十年(414年)三月、白毛を生じ、翌年王師は西のかた司馬休之を討ち、さらに翌年北のかた関洛を平定した。
  • 魏明帝青龍三年(235年)正月乙亥、寿光に隕石が落ちた。按ずるに左氏伝では隕石は星である。劉歆説に「庶民は星なり、宋に隕ちるのは宋襄公が諸侯を得ようとして終えられなかった象である」と言う。秦始皇の時にも隕石があった。班固はこれを「石は陰類、また白祥、臣が君を危うくしようとする」とした。この後司馬氏が政を得た。
  • 晋武帝太康五年(284年)五月丁巳、温および河陽に隕石各二つ。
  • 太康六年(285年)正月、温に隕石三つ。
  • 晋成帝咸和八年(333年)五月、肥郷に星が隕ちること一つ。
  • 咸和九年(334年)正月、涼州に隕石。
  • 呉孫亮五鳳二年(255年)五月、陽羨県離里山の大石が自ら立った。京房易伝に「庶士が天子となる祥なり、石が山に立つのは同姓、平地に立つのは異姓」とある。干宝は孫皓が廃されたのちに位を得たことの応とし、あるいは孫休が立てられた祥ともいう。
  • 晋恵帝元康五年(295年)十二月、宜年里に石が生じた。
  • 晋恵帝永康元年(300年)、襄陽郡が鳴石を上言、撞くとその声は七、八里聞こえた。
  • 晋恵帝太安元年(302年)、丹陽姑孰県の夏架湖で大石が二百歩浮かんで岸に上がった。民は驚き「石来る」と告げ合った。干宝は「まもなく石冰が建業に入った」と言う。
  • 晋武帝太始八年(272年)五月、蜀地に白毛が雨のように降った。これも白祥である。このとき益州刺史皇甫晏は暑を冒して汶山の胡を伐とうとし、従事何旅が固く諫めたが従わず、牙門張弘らが衆の怨みに乗じて晏を謀反と誣告し殺した。京房易伝に「前に楽しみ後に憂う、その妖は天、羽を雨らす」、また「邪人進み賢人逃る、天、毛を雨らす」とあり、その易妖に「天、毛羽を雨らすは貴人の出走」とあり、三占みな応じた。
  • 晋恵帝永寧元年(301年)、斉王冏が義軍を挙げたとき、軍中に襄城繁昌県から出た八歳の小児がいて、髪も体もことごとく白く、よく占いをした。洪範に照らせば白祥である。
  • 晋車騎大将軍東嬴王騰が并州から鄴に遷鎮する途中、真定に至ったとき、久しく雪が積もる中で門前の方数尺だけ独り消え、騰はこれを怪しみ掘らせると玉馬(高さ一尺ほど、口歯欠け)を得た。騰は「馬は国姓」としてこれを瑞として上送したが、論者は「馬にして歯がなければ食を得られない、妖祥の兆で衰亡の徴」と言った。按ずるにこれも白祥である。この後騰は汲桑に殺され晋室はついに滅んだ。
  • 宋文帝元嘉中、徐湛之が丹陽尹となったとき、夜西門内に練のような気があり西南を指し長さ数十丈、また白光が屋を覆いしばらくして転じて速やかに消えた。これも白祥である。
  • 前廃帝景和元年(465年)、鄧琬が尋陽で紫花を植えたところみな白くなった。白眚である。

木沴金

  • 魏斉王正始末(248〜249年)、河南尹李勝が聴事において小さな材木が激しく落ち、檛(むち)を受けた符石虎の首が断たれた。これは木沴金である。李勝はのち旬日で敗れた。
  • 晋恵帝元康八年(298年)三月、郊禖壇の石が中で二つに破れた。これも木沴金である。郊禖壇は子を求める神位であり、故なく自ら壊れたのは太子が危うくなる妖である。翌年愍懐太子は廃されて死んだ。
  • 晋孝武帝太元十年(385年)四月、謝安が広陵に出鎮し始めて出発したとき、石頭の金鼓が故なく自ら破れた。これも木沴金の異である。天意は「安がいたずらに経略の声を揚げるだけで実がなく、鉦鼓が用いられぬ象である」と言うようなものであった。八月疾により還り、この月薨じた。