宋書卷三十 志第二十 五行一

総論

  • 昔、八卦が現れて天と人の理が明らかになり、洪範九疇が序立てられて帝王への応報が明らかになった。それにより、徳に従えば天の加護を得、道に逆らえば神を怒らせる罪に陥ることを知りえたが、具体的な徴証・効験までは十分に考究されなかった。幽明の別は時に鼎・雉・宮廷の穀物などの□(底本欠字)の異変で示されたが、なお究め尽くされていない点が多い。
  • 後王を戒め悟らせるに至っては、なお欠けるところが多かった。そこで孔子は春秋を著し、祥瑞・災異を具に記して行いの験とした。洪範九疇はその義を前代に陳べ、春秋はその効を後代に列ねたのである。
  • 伏生が初めて『尚書大傳』で五行の体系を紀し、劉向がこれを広く演述して『洪範』休咎(吉凶)の文を備え、班固がそれらを斟酌して経伝を詳しく記した。一代の史書に五行志を欠くことはできないとされた。
  • 天道は無声無臭であるが、その応報は影や響きのように必ず現れ、天人の験は誣うべからざるものである。司馬彪は光武帝以来の事を集成して漢代の事を究めたが、王沈の『魏書』は志の篇を欠き、災異はただ帝紀に編入するのみであった。
  • 黄初以降二百余年、災異を検討すると、常に規矩を重ねたように前代の説と符合し、また高堂隆・郭璞らも経に拠って言を立て、ことごとく応験が顕れたにもかかわらず、これを序述せずに済ませば史体が損なわれる。そこで司馬彪以後は皆撰次して論序を加えることとした。これは班固が春秋に倣い、遠きを挙げて近きを明らかにした例にならうものである。
  • また、言葉が従順でない場合には介虫(甲殻をもつ虫)の孽(わざわい)が生じるとされるが、劉歆はこれを毛虫の視の不明とし、蠃虫(貝殻をもつ虫)の孼についても劉歆は羽虫とした。月令によれば夏の虫は羽、秋の虫は毛であり、劉歆の説に従うのが妥当として、旧史もこれに従った。五行の理は精微であって浅学の及ぶところではないため、すでに前人の議論があるものはその言に従って解釈し、まだ旧説のないものは事理を推し量って後の賢者を待つこととする。

木不曲直

  • 定義: 五行伝にいう、狩猟に節度なく、飲食を貪り、出入りに節度なく、民の農時を奪い、姦謀があれば、木はその性を失い曲直(しなやかに伸び曲がる性質)を保てず、災いとなる。班固はいう、工匠が輪矢を作る際に多く木を損なうことも、木の変怪もまた、皆「木不曲直」の現れである、と。
  • 魏文帝黄初六年(225年)正月、雨により木に氷が張った(雨木冰)。劉歆説によれば木不曲直の兆し。劉向は、氷は陰の盛んなること、木は少陽・貴臣の象であり、貴臣に害があろうとするとき陰気が木を脅かし、木がまず寒えて雨に遭い氷結すると説く。同年六月、利成郡の兵卒蔡方らが太守徐質を殺して郡に拠り反乱し、多くを脅し従え亡命者を集めた。太守は古の諸侯・貴臣にあたり、この事件がその応であった。一説に木の氷結は甲兵の象ともいう。この歳、蔡方討伐に加え八月には文帝みずから舟師を率い呉を征し、戎卒十余万、旌旗連なること数百里に及び、長江に臨んで軍を観閲した。
  • 晋元帝太興三年(320年)二月辛未、雨木冰。その二年後、周顗・戴淵・刁協・劉隗が皆殺害され、春秋と同じ事例でその応となった。一説にはその後、王敦が京師を攻めたこともその象という。
  • 晋穆帝永和八年(352年)正月乙巳、雨木冰。この年、殷浩が北伐、翌年軍は敗れ、十年後に廃黜された。また荀羨・殷浩の北伐、桓温の関中入りの象ともいう。
  • 晋孝武帝太元十四年(389年)十二月乙巳、雨木冰。翌年二月王恭が北蕃となり、八月庾楷が西蕃となり、九月王国宝が中書令となり間もなく領軍将軍を兼ね、十七年に殷仲堪が荊州となった。邪正は規を異にしたが、ついに共に摧滅したのがその応である。一説に、苻堅は敗れたものの関河はいまだ統一されず、丁零・鮮卑が司州・兗州を侵略し、竇衝が梁州・雍州に迫り兵役が止まなかったこともその象という。
  • 呉孫亮建興二年(253年)、諸葛恪が淮南に出征する前、着座の庁事の棟木が中折れした。恪は妄りに徴役を興し、民の農時を奪い、邪謀をなして国財を損なったため、木がその性を失い毀折した。師を還すや誅滅された。『周易』にも棟橈(棟のたわみ)は凶とされる。
  • 晋武帝太康五年(284年)五月、宣帝廟の地が陥没し梁が折れた。八年正月太廟殿もまた陥没し、廟を改築して基礎を泉に及ぶまで築いた。その年九月に新廟の造営を始め、遠方から名材を運び銅柱を交え、陳勰を匠作として六万人を動員した。十年四月に完成、十一月庚寅に梁がまた折れた。地の陥没は分離の象、梁の折れは木不曲直である。孫盛は、当時後宮の殿に妖火があり、廟梁も故なく自ら折れたと言い、先に帝はしばしば不予(病臥)で人々はますますこれを不吉とした。翌年帝は崩じ、王室は頻りに乱れて天下を失うに至った。
  • 晋惠帝太安二年(303年)、成都王穎が陸機に衆を率いさせ京師の長沙王乂の軍を撃たせたが、出陣に際し牙竿(軍旗の竿)が折れ、間もなく戦いに敗れて機は誅され、穎もまもなく敗走して自尽を賜った。初め河間王顒は謀って長沙王を誅し太子を廃して穎を立てようとしたが、長沙王はこれを知り、その党の卞粋らを誅した。そのため穎は攻めてきたのであり、機はまた穎が遠近の人心を得ていることから漢の代わりとなろうとし、ついに穎に身を委ねてその従将となった。これらは皆姦謀の罰であり木不曲直の現れである。
  • 王敦が武昌にあったとき、鈴下(護衛の官)の儀仗に蓮花状の華が咲き五、六日で萎れ落ちた。これも木がその性を失った変異である。干宝は、鈴閤は尊貴な者の儀、鈴下は威儀を司る官であり、枯れ木に狂花が咲いたのは、威儀の富・栄華の盛んなることが狂花のように久しく保てないことを言うとした。その後王敦は逆命によって没し、さらに戮を加えられ、これがその応となった。一説にはこの花は花孽であり、『周易』の「枯楊生華」に当たるという。
  • 桓玄が事を始めたとき、龍旗の竿が折れた。玄は狩猟に出入りして節度なく、昏夜まで飲食を恣にし、土木を興して農を妨げ、姦謀多かったため木がその性を失ったのである。旗は三辰(日月星)を象るもので、章(明らかさ)を著すもの。旗竿の折れは高明(徳の輝き)が去ることを意味し、玄は在位八十日で敗れた。
  • 宋明帝泰始二年(466年)五月丙午、南琅邪郡臨沂県の黄城山の道士盛道度の堂屋の柱が自然に夜光を発し室内を照らした。これも木がその性を失った現れである。あるいは木が腐って自ら光るのだという説もある。
  • 廃帝昇明元年(477年)、呉興郡余杭県の舎亭の禾蕈樹が李の実を生じた。禾蕈樹とは民間で胡頽子(グミ)と呼ぶ木である。

貌不恭

  • 定義: 五行伝にいう、容貌の不恭(つつしみを欠くこと)を「不肅」という。その咎は狂、その罰は恒雨、その極みは悪(醜悪な死)。この時には服妖・亀孽・鶏禍・下体が上に生じる痾(かたわ)・青眚青祥が現れ、金が木を沴す(そこなう)。
  • 魏文帝は諒闇(喪中)の初めからしばしば遊猟に出て、体貌は重々しさを欠き、風尚は通脱(放縦)であった。そのため戴凌は直諫して罪に問われ、鮑勛は帝の意に逆らって極刑に処され、天下はこれに感化されて節を守ることを賤しむようになった。これが貌の不恭である。そのため享国は長くなく、後嗣も短命であった。春秋では魯君が喪に居て哀しまず、憂いの中にありながら嘉容を示し、穆叔がこれを不度と評し、後に出奔したのと同じ事例である。
  • 魏の尚書鄧颺は歩き方がだらしなく、筋骨が締まらず、坐起に傾き倚りかかり、手足がないかのようであった。これも貌の不恭である。管輅はこれを「鬼躁」(死者のような落ち着きのなさ)と呼び、凶終の徴とした。後に誅死した。
  • 晋恵帝元康中(291-299年)、貴遊の子弟らは互いに散髪・裸身の宴を催し、婢妾を対面で弄ぶことを行い、これに逆らう者は交わりを傷つけ、これを非とする者は世に疎まれることを恐れて、恥じつつも同調しない者はいなかった。これは胡狄が中国を侵す萌しであり、単に伊川の民が被髪して祭った故事だけの話ではない。
  • 晋恵帝元康中(291-299年)、賈謐は帝の親戚として権勢を恃み、しばしば二宮に出入りして儲君(皇太子)と遊戯し、卑下する心がなく、かつて奕棋(囲碁)を共にして道を争ったことがあった。成都王穎は色を厲しくして「皇太子は国の儲貳、賈謐なんぞ無礼を働けるか」と叱ったが、謐は悛めず、ついに禍に及んだ。
  • 斉王冏は趙王倫を誅した後、輔政に留まり、坐したまま百官を拝し、符勅を台府に発し、淫らな酒宴に耽って驕り高ぶり、朝覲を一度も行わなかった。これは狂恣で不肅な容である。天下はその功を高く評価する一方でその滅亡を憂えたが、冏はついに改めず夷滅に至った。
  • 太元中(376-396年)、人々は帩頭(髪を結わえる布)を着けなくなった。頭は元首、帩は髪が垂れないよう助け元首の儀飾とするものである。今これを廃したのは、人君が独り立って輔けを欠き、危亡に至る象である。その後桓玄が簒位した。
  • 旧来の屐(下駄)は歯がすべて楄(横木)の上を貫いており「露卯」と呼ばれたが、太元中(376-396年)これが不徹(貫かない)になり「陰卯」と呼ばれた。その後、陰謀が多く起こり大乱に至った。
  • 晋安帝義熙七年(411年)、朝廷が劉毅の世子を拝授した際、毅は王命の重さから饗宴を設け吏佐を親しく招くべきところ、当日国僚が重んじずに黙って厩の中で拝礼を行い、王の使者は復命しようとした。毅はこれをようやく知り大いに恨み、郎中令の劉敬叔を免官した。識者はこれをあやしみ、嘉礼を軽んじる不肅の妖とした。
  • 陳郡の謝霊運は逸才があり、出入りのたびに扶ける者が常に数人いた。民間の謡に「四人挈衣裙、三人捉坐席」と歌われた。これも不肅の咎であり、後に罪を得て誅された。
  • 宋明帝泰始中(465-471年)、幸臣の阮佃夫は権勢が朝廷を傾け、邸宅は豪麗、車服は鮮明であったが、乗車の際つねに片側に偏り、正しく綏(つな)を執る作法に背いた。当時の人は多くこれを慕い倣った。これも貌の不恭の失である。当時、偏った左寄りの風が行われ、方正の道は廃れた。
  • 後廃帝はつねに単騎で市里を遊び回り、出入りに営寺(軍営・寺院)にも及び、輦(御輿)に乗ることがなかった。ついに殞滅(弑逆による死)に至った。

恒雨

  • 魏明帝太和元年(227年)秋、しばしば大雨が降り激しい雷電が非常に多く、鳥雀を殺すほどであった。楊阜の上疏によれば、これは恒雨の罰である。当時帝は喪に居ながら哀しまず、出入りして弋猟にふけり、奢侈が盛んで民の農時を奪ったため、水がその性を失い恒雨の災いとなった。
  • 太和四年(230年)八月、大雨霖(長雨)三十余日、伊水・洛水・河水・漢水がみな溢れ、その年は凶作となった。
  • 孫亮太平二年(257年)二月甲寅、大雨震電、乙卯に雪が降り大寒となった。劉歆説によれば、雨が降るべき時に大雨とならないのは恒雨の罰、震電の翌日に雪で大寒となったのも恒寒の罰である。劉向は、既に震雷があった以上さらに雪が降るべきではなく、これらは皆時を失った異変であるとし、天の戒めは、君主が時を失えば賊臣が起こることを示す、震雷の後に雪が降るのは陰が隙を見て起こり陽に勝つことで、逆殺の禍が及ぶ兆しであるとした。孫亮は悟らず、間もなく廃された。これは春秋の魯隠公の事例と同じである。
  • 晋武帝泰始六年(270年)六月、大雨霖、甲辰に河水・洛水・沁水が同時に溢れ、四千九百余家が流され、二百余人が死亡、秋の稼(作物)千三百六十余頃が水没した。晋武帝太康五年(284年)七月、任城・梁国に暴雨があり豆麦を害した。太康五年九月、南安に霖雨・暴雪があり樹木を折り秋稼を害し、魏郡・淮南・平原でも雨水で秋稼を傷めた。この秋、魏郡・西平郡の九県で霖雨・暴水・霜により秋稼を傷めた。
  • 晋惠帝永寧元年(301年)十月、義陽・南陽・東海で霖雨があり秋麦を害した。
  • 晋成帝咸康元年(335年)八月乙丑、荊州の長沙・攸・醴陵、武陵の龍陽の三県で雨水により屋室が浮き流され、人が死傷し秋稼を損なった。
  • 宋文帝元嘉二十一年(444年)六月、京邑で雨が連続すること百余日に及び大水となった。
  • 孝武帝大明元年(457年)正月、京邑で雨水があった。
  • 大明五年(461年)七月、京邑で雨水があった。
  • 大明八年(464年)八月、京邑で雨水があった。
  • 明帝泰始二年(466年)六月、京邑で雨水があった。
  • 順帝昇明三年(479年)四月乙亥、呉郡桐廬県で暴風雷電があり、砂を巻き上げて木を折り、水は平地二丈に達して住民を押し流した。

服妖

  • 魏武帝(曹操)は天下の凶荒・資財の欠乏を理由に、古の皮弁に倣い縑帛を裁って白い帢(頭巾)を作り、旧来の服に代えた。傅玄は「白は軍容であって国容ではない」と評し、干宝は「縞素は凶喪の色であり、帢は毀辱の言である」とし、これは革代(王朝交代)の後の攻殺の妖であるとした。初めの白帢は前を横縫いにし「顔」と名付け、これが世に流行し、晋の永嘉年間(307-313年)には次第に縫い目がなくなり「無顔帢」と呼ばれた。婦人は髪を束ねる紒(もとどり)を緩めることが甚だしくなり、堅く立てられずに髪が額を覆い目だけが出るようになった。「無顔」とは恥じることを言い、「額を覆う」とは恥じらいの容である。緩みが甚だしいことは天下が礼義を忘れ情性を放縦にし、その極みに大恥に至ることを言う。永嘉の後、二帝(懐帝・愍帝)は北方より還らず、天下はこれを恥じた。
  • 魏明帝は繡帽(刺繍の帽子)を着け、縹(うすあお)の紈で半袖の服を作って着用し、直臣楊阜に見えたことがあった。阜は「これは礼のいずれの法服にあたるか」と諫めたが、帝は黙然としていた。これも服妖に近い。縹は礼にかなわぬ色、褻服(普段着)は令にそぐわぬものであり、人主が自ら非法の装いを親しく着用したのは、いわゆる「自ら孽を作れば禳うべからず」である。帝は長寿を享けず、身が没すると禄も失われ、王室は後嗣が絶え、ついに天下を失った。
  • 魏明帝景初元年(237年)、銅を鋳造して巨人二体を作り「翁仲」と号し、司馬門の外に置いた。古来、長人が現れると国が亡ぶとされ(長狄が臨洮に現れたのは秦滅亡の禍であった)、始皇はこれを悟らず、かえって嘉祥として銅人を鋳造しその象に倣った。魏はまさに亡国の器に法り、その義において取るべきところはなかった。これも服妖である。
  • 魏の尚書何晏は婦人の服を好んで着た。傅玄はこれを服妖とし、衣裳の制は上下を定め内外を区別するためのものであるとした。『詩経』大雅に玄衮・赤舄・鉤膺・鏤錫はその文(文彩)を歌い、小雅に「有厳有翼」は共武の服でその武を詠じたとある。内外が区別されず王制の秩序が失われれば服妖が起こる。妹嬉が男子の冠を被って夏の桀が天下を失い、何晏が婦人の服を着てその家を失ったのは、その咎は同じである。
  • 呉の婦人で身なりを整える者は、急いで髪を束ね角を耳を過ぎるほど尖らせた。これはその風俗が自ら束縛を急ぎ、廉隅(けじめ)が中を失ったことを言う。呉の風俗は互いに急を競い、言論は刻薄をもって彈射し合い相尚び、三年の喪に服する者もしばしば喪に致毀(過度の哀毀)した。諸葛恪はこれを患いて「正交論」を著したが、経訓によって乱れを整えるものではないにせよ、時を救う作とはいえるものであった。
  • 孫休の後、衣服の制は上が長く下が短くなり、領(衿)を重ねること五、六に対し裳(下衣)はわずか一、二であった。干宝はこれを「上が饒奢で下が倹しい、上に余りあり下に足りざるの妖」とした。孫皓の代に至って果たして上は奢暴に恣となり、下では百姓が彫困し、ついに国を亡ぼした。これがその応である。
  • 晋の興った後、衣服は上が倹しく下が豊かになり、着衣する者は皆厭䙅(腰の帯を厚くする形)を用いた。これは裙が君を衰弱させ臣が放縦になる、下が上を掩う象である。元康末(299年頃)に至って、婦人は両襠(胸あて)を脛の上にまで出すようになった。これは内が外に出た象である。車を用いる者はいたずらに軽細を貴び、しばしば形を変え、皆白篾(白い竹皮)を純(縁)とした。これは古の喪車の遺象であり、車に乗る者は君子の器であるのに、君子の心が定まらず実を崇ばないことを示す。干宝は「晋の禍に及び天子は権柄を失い、権は寵臣に制せられた。これは下が上を掩う応である」とした。永嘉末(313年頃)、六宮の才人が戎狄に流されたのは内が外に出た応であり、天下が乱れ宰輔・方伯の多くがその任に堪えず、しばしば改易されたのは実を崇ばない応である。
  • 晋武帝泰始後(265年以降)、中国では互いに胡牀・貊盤を用い、羌煮・貊炙を作ることが流行し、貴人・富室は必ずその器を備え、吉事や嘉会には皆これを先とした。太康中(280-289年)、天下ではまた氈(フェルト)で絈頭(頭巾)や絡帯・衿口を作るようになり、百姓は互いに戯れて「中国は必ず胡に破られるだろう」と言った。氈は胡の産で、天下はこれを頭・帯・衿口に三重に用いたことになり、敗れずにいられようか。干宝は「元康中(291-299年)、氐・羌が反し、永嘉に至って劉淵・石勒が中都を有し、その後四夷が交々中華の地に拠った。これがその応である」とした。
  • 晋武帝太康後(280年以降)、天下の家では婦人を東方の空き地・北庭に移し園囿とした。干宝は「王朝は南面するのが正陽であり、后は北宮に位置するのが太陰、世子は東宮に位置するのが少陽である。今、婦人を内の東に居らせるのは外と共に南面させることになり、亢陽で陰を欠き、婦人が位を失って少陽を犯す象である。賈后が愍懐太子を讒殺し、間もなく禍殃が及んだのはこれである」とした。
  • 昔、履(履物)を作るとき婦人は円頭、男子は方頭とし、円は従順の義で男女を区別するものであった。晋太康初(280年頃)、婦人は皆方頭の履を履くようになり、これは円頭をやめて男子と区別がなくなったことを示す。
  • 太康中(280-289年)、天下で「晋世寧」の舞が流行し、手で桮槃(杯や盤)を接ぎ反覆する歌を「晋世寧」といった。舞桮槃で「晋世寧」と歌ったのは、晋の士人が酒食の間に偷苟(かりそめの安逸)を貪り、その知が遠くに及ばないこと、晋世の安寧も桮槃を手に持つように危ういことを言う。
  • 晋恵帝元康中(291-299年)、婦人の飾りに「五兵佩」が現れ、金銀・瑇瑁で斧・鉞・戈・戟を模して笄(かんざし)の代わりとした(この後に□、底本欠字あり)。干宝は「男女の別は国の大節であり、服物・儀幣にはそれぞれ異なる等級がある。婦人が兵器を飾りとするのは大いなる妖であり、ついに賈后の事件があり、兵によって天下を亡ぼした」とした。
  • 元康中(291-299年)、婦人の結髪では繒(絹布)で環をきつく束ね「擷子紒」と呼んだ。これは中宮より始まり天下がこれに倣ったが、その後賈后は果たして太子を害した。
  • 元康中(291-299年)、天下は初めて㮧杖(先端を細くした杖)を用い脇を支えるようになり、その後次第に錞(石突)を施し、立つときはこれを地に植えた。木は東方の行、金の臣にあたる。杖は体を支える器であり、頭を細くするのは特に使いやすくするためである。脇を支えるのは傍らから救う象である。王室は多事となったが、元帝は藩臣として東方に徳を樹て天下を維持したのが柱掖の応であり、社稷に主のない時、海内が元帝に帰し、天命を承けて長江の外に都を建て独立したのがその応である。
  • 元康末から太安間(299-303年)、江淮の域で敗れた履(□、底本欠字。文脈から履物の類か)が自ずから道に集まり、多いときは四、五十足に及んだ。干宝はかつて人に散らして取り除かせたが、林草に投げても坑谷に投げても翌日見るとまた元通りに集まっていた。民は狸が銜えて集めたのだと言うが、これも未詳である。干宝の説では、「履は人の賤しい服で最も下に位置し労辱の下民を象る。敗れているのは疲弊の象、道は地理・四方の交通、王命の往来する所である。敗れた履が道に集まるのは、下民が疲弊し将に相集まって乱を起こし、四方を絶ち王命を壅ぐ象である」とした。在位者はこれを察せず、太安中(302-303年)壬午の兵を発すると、百姓は怨み、江夏の男子張昌がついに反乱の首謀となり、荊楚の民が雲のように従った。これにより兵革が年ごとに起こり、天下はついに大いに破壊された。これも服妖に近いものである。
  • 晋孝懐帝の永嘉(307-313年)以来、士大夫はこぞって生箋(生の麻布)の単衣を着るようになり、識者はこれを怪しみ、密かに指さして「これは古の繐衰(喪服の一種、諸侯・大夫が天子のために服するもの)の布である。今、理由もなくこぞってこれを着るのは、応があるのではないか」と言った。その後、愍懐太子が晏駕(崩御)し、その死に場所すら得られなかった。
  • 晋元帝太興(318-321年)以来、兵士は絳(あか)の嚢で紒(もとどり)を縛り、紒は首の上にある。『周易』では乾は首、坤は嚢にあたり、坤は臣道である。晋は金行で赤は火の色、金の賊である。朱の嚢で紒を縛るのは臣道が上を侵す象である。永昌元年(322年)に至り、大将軍王敦が挙兵して内を攻め、六軍は散潰した。
  • 旧来、羽扇の柄は木を刻んでその骨形を象り、羽は十本を用いて全数とした。晋の中興初(317年頃)、王敦が南征する際、初めて長柄に改め、下方に出して握れるようにし、羽の数を八に減らした。識者はこれを咎め、「羽扇は翼を意味する名であり、長柄を創るのはその柄を執って羽翼を制することであり、十を八に改めるのは未備をもって既備を奪おうとするものだ」と言った。この時、衣を作る者はまた上を短く帯を脇まで上げ、帽を着ける者は帯を項下に縛り、上に迫って上に余地がなくなった。袴は直幅で口を裁たず、下を大きくするという裁ちの大失であった。ほどなく兵乱があり、三年の間に再び京師が攻められた。晋の海西公が即位した初め、迎官が豹尾を設けるのを忘れたことがあり、識者はこれを不終の象とした。これも服妖に近い。
  • 晋の司馬道子は府の北園内に酒鑪(酒肆)を並べ、姫人に肴を売らせ裨販(小商い)のようにし、自らも酔って買い交わり、寝所に留まって幾日も連なることがあった。漢の霊帝もかつてこのようなことをした。干宝は「君が位を失い皂隷(下賤の身分)に降る象である」とした。道子は後に廃されて庶人とされ徙され、その身のままに終わった。
  • 桓玄が簒立したとき、殿上に絳綾の帳を施し、金を鏤めて顔(額の飾り)とし、四隅に金龍が五色の羽葆・流蘇を銜えた。群下は密かに互いに「輀車(葬送の車)によく似ている」と言い合った。これも服妖である。
  • 晋末、皆小さな冠を被り衣裳は博大(ゆったりと大きい)で、風流が互いに倣い輿台(下賤の者)にまで習俗となった。識者は「これは禅代(王朝交代)の象である」と言い、永初以後(420年以降)、冠はまた大きく戻った。
  • 宋文帝元嘉六年(429年)、民間の婦人の結髪で、髪を三分してその鬟を抽き真直ぐ上に向けるものが現れ「飛天紒」と呼ばれた。東府より始まり民庶に広まった。当時、司徒彭城王義康が東府に居り、その後ついに主上を陵ぐ罪により徙され廃された。
  • 孝武帝の世(454-464年)、豫州刺史劉徳願は御車に巧みで、世祖はかつて彼に画輪車を御させ太宰江夏王義恭の邸に幸した際、徳願は牛杖を挟んで世祖を促し「日が暮れました、帰るべきです」と言い、さらに車の増賃を求めた。世祖は大いに喜んだ。この事は漢の霊帝が西園に私銭を蓄えたことと同じである。
  • 孝武の世(454-464年)、幸臣戴法興の権勢は人主に亜(つ)ぎ、円頭履を作り世人はこぞってこれに倣った。当時、円頭を進める風俗が大いに行われ、方格(角ばった形)の風は尽きた。
  • 明帝の初め(465年頃)、司徒建安王休仁は赭圻に軍を統べ、烏紗帽を制して帽の裾を反り返して抽いた。民間はこれを「司徒状」と呼び、京邑はこぞって相尚んだ。休仁は後に果たして疑われ逼られて禍を招いた。

龜孽

  • 晋恵帝永熙初(290年)、衛瓘の家人が飯を炊いていて地に落ちると、皆化して螺(にな)となり足を出して歩き出した。螺は亀の類で亀孽に近い。干宝は「螺は甲兵を被る象であり、『周易』では離にあたり、離は戈兵である」とした。翌年、瓘は誅された。

雞禍

  • 魏明帝景初二年(238年)、廷尉府の中で雌鶏が雄に変わり、鳴かず率いなかった。干宝は「この歳、晋宣帝(司馬懿)が遼東を平定し、百姓は初めて『与能』(賢能に与える)の議を持ち始めた。これがその象である。しかし晋の三后(皇后)は皆人臣として終わり、鳴かず率いなかったこともまた天意である」とした。
  • 晋恵帝元康六年(296年)、陳国で雄の翅のない鶏が生まれ、大きくなって坑に落ちて死んだ。王隠は「雄は継嗣の象、坑は地・母の象であり、賈后が愍懐太子を誣殺したのは、まさにその応であろう」とした。
  • 晋恵帝太安中(302-303年)、周玘の家に雌鶏が承霤(軒下の樋)に逃げ込み六、七日で下り、翼を奮って鳴き率いたが毛羽は変わらなかった。その後、陳敏の事件があり、敏は江表を控制したもののついに綱紀・文章は無く、これがその象であった。ついに玘に滅ぼされ、鶏禍は玘の家に現れたこともまた天意である。
  • 晋元帝太興中(318-321年)、王敦が武昌に鎮したとき雌鶏が雄に変わった。天の戒めは「雌が雄に変わるのは臣がその上を陵ぐ」ことを示し、その後王敦は再び京師を攻めた。
  • 晋孝武太元十三年(388年)四月、広陵高平の閻嵩の家で右翅のない雄鶏が生まれ、彭城の到象之の家では右足のない鶏が生まれた。京房易伝にいう、君が婦人の言を用いれば鶏に妖が生じる、と。
  • 晋安帝隆安元年(397年)八月、琅邪王道子の家で青い雌鶏が赤い雄に変わり、鳴かず率いなかった。その後桓玄の事件があり、具にその象のとおりであった。
  • 隆安四年(400年)、荊州で角のある鶏が生まれ、角はほどなく落ちた。この時、桓玄が初めて西方(荊州)を専らにし、狂慢で不肅であったため鶏禍があった。角は兵の象であり、間もなく落ちたのは、暫く起こって終わらない妖である。
  • 晋安帝元興二年(403年)、衡陽で雌鶏が雄に変わり、八十日で冠が萎えた。衡陽は桓玄の楚国の封略であり、後に簒位して八十日で敗れた。徐広はこれを玄の象とした。
  • 宋文帝元嘉十二年(435年)、華林園で雌鶏が次第に雄に変わり、後に孝武帝が即位すると皇太后が外に令を行った。これもまた漢の宣帝の時に雌鶏が雄に変わり、哀帝の時に元后が政に与ったのと同じである。
  • 明帝泰始中(465-471年)、呉興東遷の沈法符の家で四本の距(けづめ)を持つ鶏がいた。

青眚青祥

  • 晋武帝咸寧元年(275年)八月丁酉、大風が太社の樹を折り、青気が現れた。これは青祥である。占いに「東莞に帝者が現れるだろう」とあり、翌年元帝が生まれた。この時、帝の大父武王は東莞に封ぜられ、それによって琅邪に徙封された。孫盛はこれを中興(東晋建国)の表とし、晋室の乱では武帝の子孫に生き残った者がなかったことは、社樹の折れた応であり、また恒風の罰でもあるとした。
  • 晋恵帝元康中(291-299年)、洛陽の南山で虻(あぶ)が「韓屍屍」と鳴く声を発した。識者は「韓氏が将に死のうとしている、屍屍と言うのは尽く死ぬ意である」と言った。その後、韓謐が誅され韓氏一族は殲滅した。これも青祥である。

金沴木

  • 魏文帝黄初七年(226年)正月、許昌に行幸したところ、許昌城の南門が故なく自ら崩れた。帝は心中これを嫌い、そのまま入城せず洛陽に戻った。これは金が木を沴す、木が動いた象である。五月、宮車晏駕(崩御)した。京房易伝にいう、上下が咸く悖れば、その妖として城門が壊れる、と。
  • 晋元帝太興二年(319年)六月、呉郡の米廪(米倉)が故なく自ら壊れた。この歳、大飢饉となり死者数千に及んだ。
  • 晋明帝太寧元年(323年)、周延が王敦の下に帰参し、邸宅を建てたところ、造った五間六架の建物が一時に躍り出て地に墜ち、残りの桁だけが柱頭に亘っていた。これは金沴木である。翌年五月、銭鳳が謀反し、ついに延の一族も滅ぼされ、湖孰もほどなく墟となった。
  • 晋安帝元興元年(402年)正月丙子、司馬元顕が西の桓玄を討とうとし、揚州の南門に牙(軍旗)を建てたところ、東側のものが立てにくく、長く経ってようやく正立した。これも沴の妖に近い。間もなく桓玄に捕えられた。
  • 元興三年(404年)五月、楽賢堂が壊れた。天意は、安帝が愚昧で賢を楽しむ心に及ばなかったため、この堂が沴を見せたと言うようなものである。
  • 晋安帝義熙九年(413年)五月乙酉、国子の聖堂が壊れた。
  • 宋文帝元嘉十七年(440年)、劉斌が呉郡の太守であったとき、郡堂屋の西頭の鴟尾(屋根飾り)が故なく落地し、修理が終わらないうちに東頭の鴟尾もまた落ちた。間もなく斌は誅された。