簡文帝の代(咸安年間)
- 咸安元年(371年)12月辛卯、熒惑が逆行して太微に入り、2年3月になっても退かない。占では国不安・憂いありとされ、この時帝は桓温の逼迫を受け常に憂惨し、7月に崩じた。
- 咸安2年(372年)正月己酉、歳星が須女で填星を犯す。占では内乱の兆し。5月歳星の形色が太白のようになり、進退が度を失えば姦邪が起こり変色乱行は主に福なしとされ、仲夏に細小明であるべき歳星が失常したのは臣が強すぎる兆しともされた。6月太白が七星で昼に見え、乙酉太白が輿鬼を犯す。占では国に憂いあり。7月帝の病篤く、桓温に「少子で輔けるべき者あらば輔け、そうでなければ君自ら取れ」と詔したが、侍中王坦之が手詔を毀り王導輔政の故事に倣う形に改めさせた。温はこれを聞いて激怒し坦之らを誅そうとした。これも内乱の応であり、この月帝は崩じた。
- 咸安2年5月丁未、太白が天関を犯す。占では兵が起こるとされ、6月庾希が京城に入り、11月盧悚が宮中に侵入、いずれも誅滅された。
孝武帝の代(寧康年間)
- 寧康元年(373年)正月戊申、月が心大星を掩す。占では災いは王者になければ豫州にあり、あるいは主命を憎むとされる。3月丙午月が南斗第五星を掩す。占では大臣に憂いあり死亡、あるいは将軍死とされ、7月桓温が薨じた。
- 寧康2年(374年)正月丁巳、星孛が女虚から氐・亢・角・軫・翼・張を経る。9月丁丑星孛が天市に現れる。11月癸酉太白が営室で熒惑を掩す。占では金火の合は災いで皆兵喪の兆しとされ、太元元年5月氐賊苻堅が涼州を伐ち、7月氐が涼州を破り張天錫を虜にし、11月桓沖が三州の軍を発して淮泗に進め、桓豁も境上に軍を備えさせた。
- 寧康2年閏月己未、月が牽牛南星を掩す。占では左将軍が死ぬとされ、3年5月北中郎将王坦之が薨じた。
- 寧康3年(375年)6月辛卯、太白が東井を犯す。占では秦地に兵ありとされる。9月戊申熒惑が左執法を掩す。占では執法者が死ぬとされ、太元元年苻堅が涼州を破り、10月尚書令王彪之が卒した。
孝武帝の代(太元年間・元年~十年)
- 太元元年(376年)4月丙戌、熒惑が南斗第三星を犯し丙申また第四星を奄す。占では兵大起・中国飢饉、あるいは赦ありとされる。8月癸酉太白が氐(兗州の分野)で昼に見え、9月熒惑が哭泣星を犯し羽林に入る。占では天子に哭泣事あり中軍の兵が起こるとされる。11月己未月が左角を奄す。占では天子に兵あり、あるいは国に憂いあり。3年6月熒惑が羽林を守る。占では禁兵大起。9月壬午太白が角(兗州の分野)で昼に見える。元年5月大赦。3年8月氐賊韋鍾が漢中に入り東下、苻融が樊鄧に寇し慕容暐が襄陽を囲み、氐の兗州刺史彭超が彭城を囲む。4年2月襄陽城が陥落し朱序を獲られ、彭超は彭城を捨て吉挹を獲るも広陵の三河の衆5万を集める。そこで征虜将軍謝石を除中に、右衛毛安之・遊撃河間王曇之らを堂邑に進め、丹陽の民丁を発して尹張渉に京都を守らせた。6月兗州刺史謝玄が賊を討ち大破、残党は逃走。この時中外は連年の兵と荒倹が続き、この年また揚州の民1万を発して夏口を戍らせた。
- 太元4年(379年)11月丁巳、太白が哭星を犯す。占では天子に哭泣事ありとされ、5年7月丙子辰星が軒轅を犯す。占では女主がこれに当たるとされ、9月癸未皇后王氏が崩じた。
- 太元6年(381年)10月乙卯、奔星が東南に翼軫を経て雷のような音を発する。星説では光が連なるものを流、跡を絶って去るものを奔と呼ぶ。占では楚地に兵あり、あるいは軍破れ民流亡するとされ、12月氐の荊州刺史梁成・襄陽太守閻震が衆を率いて竟陵を伐つも桓石虔が大破し閻震を生禽・斬首7千・生獲1万、雷のような音は将帥の怒りの象とされた。7年9月朱綽が襄陽を撃ち600余家を抜いて還った。
- 太元7年11月太白が斗で昼に見える。占では呉に兵喪ありとされる。8年4月甲子太白また参で昼に見える。占では魏に兵喪あり。この月桓沖が沔漢を征し楊亮が蜀を伐ち城を抜き地を略した。8月苻堅が自ら将となり百万と号し、9月寿陽を攻め陥し、10月劉牢之が堅の将梁成を破り斬り殺獲万余人、謝玄らも堅を淝水で破り弟の融を斬り、堅の大軍は奔潰した。9年6月皇太后褚氏が崩じ、8月謝玄が彭城に出屯し中州を経略した。10年8月苻堅がその将姚萇に殺された。
- 太元10年(385年)12月己丑、太白が歳星を犯す。占では兵飢とされ、この時河朔はいまだ兵が外に連なり冬は大飢饉であった。
孝武帝の代(太元年間・十一年~十八年)
- 太元11年(386年)2月戊申、太白が東井で昼に見える。占では秦に兵あり臣強しとされる。6月甲午歳星が胃で昼に見える。占では魯に兵あり臣強し。12年慕容垂が東阿に寇し翟遼が河上に寇し、姚萇は安定で仮号し苻登は隴上で自立、呂光は涼土を窃拠した。
- 太元11年3月、客星が南斗にあり6月に消える。占では兵あり、あるいは赦ありとされ、以後司・雍・兗・冀に兵役が絶えなかった。12年正月大赦、8月また赦。
- 太元12年(387年)2月戊寅、熒惑が月に入る。占では乱臣が死に相もし戮せられる者あり、あるいは女親が敗をなし天下乱れるとされる。この時琅邪王が輔政し、王妃の従兄国宝は姻戚として寵を受け、また陳郡の袁悦は私を昧まして苟進し主と相との間を扇動して朋党を交え、13年帝は悦を殺したが主相に隙が生じ乱の階梯が興った。
- 太元12年10月庚午、太白が斗で昼に見える。13年閏月戊辰天狗が東北に落ち音を発する。12月戊子辰星が危で月に入る。占では賊臣が主を殺そうとし3年を出ずして必ず内悪ありとされる。この月熒惑が角亢で猛盛の色を見せる。占では熒惑がその常を失えば吏はその法を棄て諸侯はその政を乱すとされ、以後慕容垂・翟遼・姚萇・苻登・慕容永が並んで兵を阻み彊を争った。14年正月彭城の妖賊が皇丘で号を称し劉牢之がこれを破滅、3月張道が合鄊を破り大山を囲み向欽之が撃走、この年翟遼また滎陽を攻め陳項を侵略し、当時政事は多く弊れ治道は陵遅した。
- 太元14年(389年)12月熒惑が羽林に入り、乙未月が歳星を犯す。占はいずれも上に同じ。15年翟遼が司・兗を掠め衆軍がしばしば討つも克たず、鮮卑もまた并・冀に跨って略した。7月旱、8月諸郡大水、兗州はまた蝗害。
- 太元15年(390年)7月壬申、星孛が北河戒に現れ太微・三台・文昌を経て北斗に入り長さ10余丈。8月戊戌紫微に入って消える。占では北河戒は一名胡門といい胡門に兵喪あり、太微を掃い紫微に入れば王者これに当たり、三台は三公・文昌は将相を表し将相三公に災いあり、北斗に入れば強国が兵を発し諸侯が権を争い大夫が憂う。11月太白が羽林に入る。占では天子が軍のため自守し反臣ありとされ、21年9月孝武帝が崩じ隆安元年王恭・殷仲堪・桓玄らが並んで兵を発し王国宝の誅を上表、朝廷は従ってこれを殺し従弟の緒も斬ったが司馬道子は勢を失い禍乱が成った。
- 太元16年11月癸巳、月が心前星を掩す。占では太子に憂いありとされ、当時太子は常に篤い病があった。
- 太元17年(392年)9月丁丑、歳星・熒惑・填星が同じく亢氐にある。占では三星の合は驚位絶行と謂い、内外に兵喪と飢餓あり王公が改立されるとされる。
- 太元18年(393年)正月乙酉、熒惑が月に入る。占では憂いは宮中にあり賊ではなく盗である、あるいは乱臣あり戮せられる者ありとされ、21年9月帝が内殿で暴崩し、庶民は夫人張氏が潜かに大逆を行ったと言い触らしたが朝政は闇緩でこれを顕戮せず黙責するのみであった。また王国宝の邪狡もついにその罪に伏した。
孝武帝の代(太元年間・十九年~二十一年)
- 太元18年2月、客星が尾にあり9月に消える。占では燕に兵喪ありとされる。19年4月己巳月が尾で歳星を掩す。占では飢饉・燕国滅亡とされ、20年慕容垂が息の宝を遣わし什翼圭を伐たせるも圭に破られ死者数万人、21年垂が死に国は衰亡した。
- 太元19年(394年)10月癸丑、太白が斗で歳星を犯す。占では飢饉・内兵あり、斗は呉越の分野とされ、隆安元年に至り王恭らが挙兵し王国宝の罪を顕す。朝廷はこれを赦し、以後連年水旱で民が飢えた。
- 太元20年(395年)6月熒惑が天囷に入る。占では天下飢饉とされる。7月丁亥太白が太微に入る。占では太白の太微入は国に憂いあり、昼見は兵喪とされる。9月粉絮のような蓬星が東南に女虚から哭星まで行く。占では蓬星が現れれば3年を出ずして必ず乱臣が市で戮死するとされる。12月己巳月が楗閉と東西咸を犯す。占では楗閉は心腸喉舌を司り東西咸は陰謀を主るとされる。この時王国宝が朝政を交構し、21年9月帝が崩じ隆安元年王恭らが挙兵し朝廷は王国宝・王緒を戮した。また連年水旱に三方の動乱が重なり民は飢えた。
- 太元21年(396年)3月太白が連日羽林で昼に見える。占では強臣あり兵喪あり中軍の兵が起こるとされる。4月壬午太白が天囷に入る。占では飢饉とされる。6月歳星が哭星を犯す。占では哭泣事ありとされ、この年9月孝武帝が崩じ、隆安元年王恭が挙兵して朝廷を脅かし中外戒厳、王国宝を戮して謝した。
安帝の代(隆安年間)
- 隆安元年(397年)正月癸亥、熒惑が哭星を犯す。占では哭事ありとされる。2月歳星・熒惑が皆羽林に入る。占では軍兵が起こる。4月丁丑太白が東井で昼に見える。占では秦に兵喪ありとされ、この月王恭が挙兵し内外戒厳、ほどなく王国宝らを殺した。6月羌賊が洛陽を攻め郗恢が兵を遣わし救い、姚萇が死に子の略(姚興の誤りか)が代わって立ち、什翼圭は中山で自号した。
- 隆安元年6月庚午、月が太微端門外で太白を掩す。占では国が兵を受けるとされる。乙酉月が東壁で歳星を掩す。占では飢饉・衛地に兵ありとされる。8月熒惑が井鉞を守る。占では大臣に誅ありとされる。2年6月戊辰摂提が移戻して常を失い、歳星が胃(兗州の分野)で昼に見える。この年6月郗恢が鄧啓方らに1万人を率いさせ滑台の虜を伐たせたが滑台は衛の地であり啓方らは敗れて還った。9月王恭・庾楷・殷仲堪・桓玄らが並んで挙兵し王愉・司馬尚之兄弟の誅を上表、内外戒厳し民衆を大発、仲堪の軍は尋陽に至り江州刺史王愉を捕らえ、庾楷の将叚方は楊湖で尚之を攻めるも敗れて死んだ。王恭の司馬劉牢之が恭に反し恭は敗れ、桓玄も白石に至って退き、仲堪は江陵に還った。3年冬荊州刺史殷仲堪は桓玄に殺された。
- 隆安3年(399年)閏月太白が羽林で昼に見え、丁丑月が東上相を犯し、辛未辰星が軒轅を犯す。星占はいずれも上に同じ。この年正月楊佺期が郗恢を破りその任を奪い、殷仲堪がまたこれを殺した。6月鮮卑が青州を攻め陥し、10月羌賊が洛陽を攻め陥した。桓玄は荊雍を破り殷仲堪・楊佺期を殺し、孫恩は衆を集め会稽を攻め陥し内史王凝之を殺し、劉牢之が東討してこれを走らせた。4年7月太皇太后李氏が崩じた。
- 隆安4年(400年)正月乙亥、月が牽牛で填星を犯す。占では呉越に兵喪あり女主に憂いありとされる。2月己丑星孛が奎に現れ長さ3丈、閣道・紫宮西蕃を経て斗魁に入り三台・太微・帝座・端門に至る。占では彗星が天子の廷閣を払うのは主を易える象、三台を経て北斗に入るのも同占とされる。6月己未月がまた牽牛で填星を犯し辛酉また哭星を犯す。10月斗で歳星を奄す(河の占では飢饉)。12月戊寅星孛が貫索・天市・天津に現れる。占では貴臣が獄死し内外に兵喪あり、天津は賊が王道を断ち天下不通の兆しとされる。12月太白が斗で昼に見え、5年正月乙卯占では災いは呉越にあるとされる。3月甲寅赤色の流星が多数西行し牽牛・虚危・天津・閣道・太微・紫宮を経る。占では星は庶民の類、多数西流の象は天子の庭を径行し主は弱く臣は強く諸侯の兵を制せられないとされる。7月癸亥大角星が散揺し五色を呈す。占では王者流散とされる。丁卯月が天関を犯す。占では王者に憂いありとされる。9月庚子熒惑が少微を犯しまた守る。占では処士が誅せられるとされる。10月戊子月が東蕃次相を犯す。4年5月孫恩が再び会稽を破り内史謝琰を殺し、高雅之らを遣わして討たせた。7月太皇太后李氏が崩じ、10月妖賊が高雅之を余姚で大破し死者は十に七、八。5年2月孫恩が句章を攻め高祖がこれを拒ぎ、5月呉郡内史袁山松が出戦し殺され死者数千人、6月孫恩が京口に至り高祖がこれを撃破、恩の軍は蒲州にとどまり内外戒厳、営陣屯守し淮を断ち、恩は別将を遣わして広陵を攻めるも3千余人が殺され、恩は郁州に遁れ、この月高祖がまたこれを追破した。9月桓玄の上表が逆旨で陵上、10月司馬元顕が水軍を大治し玄を伐とうとした。元興元年正月桓玄が東下、この月孫恩は臨海にあって人衆は餓死・散亡し恩も投水して死に、盧循は征虜将軍を自称しその余衆を率いて永嘉・晋安の地を略有した。2月帝は戎服して西軍を遣わし、丁卯桓玄が姑孰に至り歴陽を破り司馬尚之が殺され劉牢之が玄に降った。3月玄が京都を克し大司馬元顕を殺し太傅道子を追放。7月大飢饉で人が相食み、浙江東の餓死・流亡は十に六、七、呉郡・呉興の戸口は半減、西へ流奔する者も万を数えた。10月桓玄が将を遣わし劉軌を撃ち破って青州へ走らせた。4年玄はついに簒位し帝を尋陽に遷した。
安帝の代(元興年間)
- 元興元年(402年)2月戊子、太白が五諸侯を犯し因って昼に見える。4月辛丑月が辰星を掩す。7月戊寅熒惑が東井にあり熒惑が輿鬼積尸を犯す。占はいずれも上に同じ。8月庚子太白が上将東南で歳星を犯す。占では楚兵に飢饉あり、あるいは災いは上将にありとされる。丙寅太白が右執法を掩す。9月癸未太白が進賢を犯す。占では賢者が誅せられるとされる。10月粉絮のような白い客星が太微西に現れ12月に太微に入る。占では兵が天子の庭に入るとされる。2年2月歳星が西上将を犯す。6月甲辰斗第四星を奄す。占では大臣が誅され3年を出ずしてとされる。8月癸丑太白が房北第二星を犯す。9月己丑歳星が進賢を犯し熒惑が西上将を犯す。10月甲戌太白が泣星を犯す。11月丁丑熒惑が填星を犯し辛巳月が熒惑を犯す。12月乙巳月が軒轅第二星を奄す。占はいずれも上に同じ。元年冬索頭が羌軍を破った。2年12月桓玄が簒位し帝と后を尋陽に流し、永安何皇后を零陵君とした。3年2月高祖が桓氏を尽く誅した。
- 元興3年(404年)正月戊戌、熒惑が逆行し太微西上相を犯す。占では天子が野で戦い上相が死ぬとされる。2月甲辰月が左角で歳星を奄す。占では天下に兵が起こるとされる。丙辰熒惑が逆行し左執法西北にある。占では執法者に憂いありとされる。4月甲午月が軒轅第二星を奄し填星が羽林に入る。12月熒惑・太白が皆羽林を犯す。占は上に同じ。この年2月丙辰高祖が桓修らを殺し、3月己未桓玄を破って走らせ、軍を遣わして西討、辛巳左僕射王愉とその子荊州刺史綏を誅し、桓玄は帝を劫して江陵に至った。5月玄が崢嶸洲まで下るも義軍がこれを破滅、桓振はさらに江陵を攻め陥し天子を幽劫した。翌年正月衆軍がこれを攻め、振は走り乗輿はようやく旋った。7月永安何皇后が崩じ、3月桓振がまた江陵を襲い荊州刺史司馬休之が敗走、この月劉懐粛が振を撃ち滅ぼした。その年2月巴西人譙縦が益州刺史毛璩とその弟西夷校尉瑾を殺し、西土を跨有し蜀王を自称した。
安帝の代(義熙年間・元年~六年)
- 義熙元年(405年)3月壬辰、月が左執法を掩す。占は上に同じ。丁酉月が心前星を掩す。占では豫州に災いありとされる。太白が東井を犯す。占では秦に兵ありとされる。4月己卯月が東壁で填星を犯す。占ではその地が国を亡ぼす、あるいは貴人が死ぬとされる。7月庚辰太白が翼軫でしきりに昼に見える。占では臣が強く荊州に兵喪ありとされる。己未月が東壁で填星を奄す。占ではその国が討伐によって亡びる、あるいは民が流亡するとされる。8月丁巳月が斗第一星を犯す。占では天下に兵あり、あるいは大臣に憂いありとされる。江左以来南斗に災いあれば呉・越・会稽・丹陽・豫章・廬江が各々その星に応じるが、淮南の失土についてはほぼ占にないため史書もその説を欠き列べていない。9月戊子熒惑が少微を犯す。占では処士が誅せられるとされる。庚寅熒惑が右執法を犯し、癸卯熒惑が左執法を犯す。占はいずれも上に同じ。10月丁巳月が営室で填星を奄す。占は7月と同じ。11月丙戌太白が鈎鈐を奄す。占では喉舌の臣に憂いありとされる。12月己卯歳星が天江を犯す。占では兵乱があり河津が通じなくなるとされる。この年6月索頭が沛土に寇し偽豫州刺史索度真に相県を戍らせ、太尉長沙景王がこれを討ち破って走らせた。11月荊州刺史魏詠之が薨じた。2年2月司馬国璠らが弋陽を攻め陥し、4月羌が仇池を伐ち仇池公楊盛が撃ち走らせた。9月益州刺史司馬栄期がその参軍楊承祖に害され、当時文処茂が蜀討伐でしばしば功があったが栄期の死に会って退いた。3年12月司徒揚州刺史王謐が薨じ、4年正月太保武陵王遵が薨じ、3月左僕射孔安国が卒した。5年高祖が鮮卑を討ち旧兗州の地を平定した。
- 義熙2年(406年)2月己丑、月が心後星を犯す。占では豫州に災いありとされる。4月癸丑月が太微西将を犯し、己未月が房南第二星を犯し、己丑歳星が天江を犯す。占はいずれも上に同じ。5月癸未月が左角を犯す。占では左将軍が死に天下に兵ありとされる。壬寅熒惑が氐を犯す。占では氐は宿宮を表し人主に憂いありとされる。6月庚午熒惑が房北第二星を犯す。8月癸亥熒惑が斗第五星を犯し、丁巳建星を犯す。9月壬午熒惑が哭星を犯しまた泣星を犯す。占はいずれも上に同じ。12月丙午月が危で太白を奄す。占では斉が国を亡ぼす、あるいは彊国の君が死ぬとされる。丁未熒惑・太白が皆羽林に入る。この年2月甲戌司馬国璠らが弋陽を攻め陥した。3年正月鮮卑が北徐州から下邳まで寇し、8月劉敬宣を遣わして蜀を伐たせ、12月司徒王謐が薨じた。4年正月武陵王遵が薨じ、5年鮮卑がまた淮北に寇し4月高祖が大軍でこれを討ち、6月臨朐城で大戦し広固を進囲、10月什翼圭がその子偽清河公に殺された。6年2月広固を抜き慕容超を生禽し、その衆3千余人を阬斬した。
- 義熙3年(407年)正月丙子、太白が奎で昼に見える。2月庚寅月が心後星を掩す。占はいずれも上に同じ。癸亥熒惑・填星・太白・辰星が奎婁に聚まり填星に従う(詳細は後述の九年の条に見える)。5月己丑太白が参で昼に見える。占では益州に兵喪あり臣が強いとされる。8月辛卯熒惑が辰星・翼を犯す。占では天下に兵が起こるとされる。8月己卯太白が熒惑を奄しまた執法を犯す。占では熒惑を奄すれば大兵ありとされる。辛卯熒惑が左執法を犯す。9月壬子熒惑が進賢を犯す。この年正月丁巳鮮卑が北徐から下邳まで寇し、8月劉敬宣の蜀伐が克たずして還った。4年3月左僕射孔安国が卒し、7月司馬叔璠らが鄒山を攻め陥すも魯郡太守徐邕がこれを破って走らせ、姚略が仏仏征伐に衆を遣わすも大いに破られた。5年高祖が鮮卑を討ち、6年3月妖賊徐道覆が鎮南将軍江州刺史何無忌を豫章で殺した。4月妖賊盧循が湘中・巴陵に寇し、5月丙子循と道覆が撫軍将軍豫州刺史劉毅を桑落州で破り毅はわずかに身をもって免れた。丁丑循らが蔡洲に至り別将を遣わして京口を焼き、庚辰賊が杏浦を攻め焼くも杏浦の戍将が拒戦して不利、高祖が軍を淮を渡らせ撃ち大破した。司馬国璠が碭山に寇するも竺夔が討ち破った。7月妖賊が南走し尋陽に拠り、高祖が劉鍾らを遣わし追わせた。8月孫季高が海を渡って広州を伐ち、謙之は蜀の衆を枝江に集め、盧循の将苟林は華容を略し互いに百里を隔てた。臨川烈武王が謙之を討ちまた林を討ち、林は退いて鄱陽へ走るも太守虞丘延が別帥を上饒で破った。9月烈武王が劉遵に苟林を巴陵で撃たせ斬り、桓道児が蔡猛を率いて大薄に向かうも劉基を遣わし討たせ猛を斬った。10月高祖が舟師で南征、この時徐道覆が2万余人を率いて荊州を攻め、烈武王が江津で戦い大破し十に八、九を梟殄、道覆は戦船を棄てて逃走した。11月劉鍾が賊軍を南陵で破り、癸丑益州刺史鮑陋が白帝で卒し譙道福がその衆を攻め陥した。庚戌孫季高が広州を襲い克した。12月高祖が大雷で賊と交戦し大破、賊は左里へ走るもさらに撃ち十に八、九が死に、賊は広州へ還り劉藩らが追った。7年2月藩が始興城を抜き徐道覆を斬り、盧循は番禺に還り孫季高を囲むも克たず交州へ走り交州刺史杜慧度がこれを斬った。4月到彦之が譙道福を白帝で攻め抜いた。
安帝の代(義熙年間・七年~十年)
- 義熙4年(408年)正月庚子、熒惑が天江を犯す。占は上に同じ。5月丁未月が斗第二星を奄す。占は上に同じ。壬子填星が天廩を犯す。占では天下飢饉で倉粟が少ないとされる。6月己丑太白が太微西上将を犯し、己卯また左執法を犯す。10月戊子熒惑が羽林に入る。占はいずれも上に同じ。5年高祖が鮮卑を討ち、6年左僕射孟昶が薬をあおいで卒し、以後南北の軍旅は運転がやまなかった。
- 義熙5年(409年)2月甲子、月が昴を犯す。占では胡が不安で天子が匈奴を破るとされる。4月甲戌熒惑が井東で辰星を犯す。占は3年に同じ。5月戊戌歳星が羽林に入る。占は上に同じ。9月壬寅月が昴を犯す。占は2月と同じ。10月熒惑が氐を犯す。占は2年と同じ。閏月丁酉月が昴を犯す。占は2月と同じ。辛亥熒惑が鈎鈐を犯す。占は元年と同じ。12月辛丑太白が奎で歳星を犯す。占では大兵が起こり魯に兵ありとされる。己酉月が心大星を掩す。占では王者がこれを憎むとされる。この年4月高祖が鮮卑を討ち什翼圭がその子に殺された。11月西虜が安定を攻め姚略が自ら大衆を率いて救った。6年2月鮮卑が滅び、いずれも胡不安の応であった。この時鮮卑は魯地に跨っており、これも魯に兵ありの応である。5月盧循が郊甸に逼り宮衛は甲をまとった。
- 義熙6年(410年)3月丁卯、月が房南第二星を奄す。占では災いが次相にありとされる。己巳また斗第五星を奄す。占では斗は兵を主り兵が起こる、あるいは将軍が死ぬとされる。太白が五諸侯を犯す。占では諸侯に誅ありとされる。5月甲子月が斗第五星を奄す。占は3月と同じ。己亥月が昴を奄す。占では国に憂いあり、あるいは白衣の会ありとされる。6月己丑月が房南第二星を犯し、甲午太白が昼に見える。占はいずれも上に同じ。7月己亥月が輿鬼を犯す。占では国に憂いあり、あるいは秦に兵ありとされる。8月壬午太白が軒轅大星を犯し、甲申月が心前星を犯す。災いは豫州にありとされる。丙戌月が斗第五星を犯す。占はいずれも上に同じ。5月丁亥月が牛宿南星を奄す。占では天下に大誅ありとされる。乙未太白が少微を犯し、丙午太白が少微にあって昼に見える。9月甲寅太白が左執法を犯し、丁丑填星が畢を犯す。占では辺兵ありとされる。この年3月始興太守徐道覆が反し、江州刺史何無忌がこれを討つも豫章で大敗し無忌は戦死した。4月盧循が湘中に寇し巴陵を陥し、5月循らが豫州刺史劉毅を大破しわずかに身をもって免れ、循の衆は京畿に逼った。この月左僕射孟昶は王威の振るわぬのを恐れ薬をあおいで自殺した。7年2月劉藩が徐道覆の首を梟し、杜慧度が盧循を斬り並んで首を京都に伝えた。8年6月臨川烈武王道規が薨じ、当時豫州の任にあった。8月皇后王氏が崩じ、9月兗州刺史劉藩・尚書僕射謝混が誅に伏し、高祖が西討して劉毅を斬った。12月益州刺史朱齢石を遣わし蜀を伐たせ、9年諸葛長民が誅に伏し、林邑王范胡達が1万余人を率いて九真に寇し九真太守杜慧期がこれを距ぎ破った。7月朱齢石が蜀を滅ぼした。
- 義熙7年(411年)4月辛丑、熒惑が輿鬼に入る。占では秦に兵あり、あるいは雍州に災いありとされる。6月太白が翼で昼に見える。占は元年と同じ。己亥填星が天関を犯す。占では臣が主を謀るとされる。庚子月が畢で歳星を犯す。占では辺兵あり且つ飢饉とされる。7月丁卯歳星が参にある。占では歳星と填星の合は内乱、あるいは益州が戦に勝てず地を失うとされる。5本の虹が東方に現れる。占では天子が黜けられ聖人が出るとされる。8月乙未月が参で歳星を犯す。占では益州に兵と飢饉ありとされる。太白が房南第二星を犯す。11月丙午太白が哭泣星を犯す。占はいずれも上に同じ。7月朱齢石が蜀を克すも蜀の民がほどなく再び反し、また討ち滅ぼした。8年劉藩・謝混を誅し劉毅を滅ぼし、皇后王氏が崩じた。9年諸葛長民を誅し、11年荊州刺史司馬休之・雍州刺史魯宗之を討ちこれを破った。
- 義熙8年(412年)正月庚戌、月が畢で歳星を犯す。占は上に同じ。7月癸亥月が房北第二星を奄す。占は上に同じ。甲申太白が東井で填星を犯す。占では秦に大兵ありとされる。己未月が井鉞を犯す。8月戊申月が泣星を犯す。10月辛亥月が天関を奄す。占では兵ありとされる。10月丁丑填星が東井を犯す。占では大人に憂いありとされる。12月癸卯填星が井鉞を犯す。この年8月皇后王氏が崩じ、9月劉藩・謝混を誅し劉毅を滅ぼした。9年3月諸葛長民を誅し、西虜が羌の安定を攻めこれを克した。12月朱齢石が蜀を伐ち、9年7月朱齢石が蜀を滅ぼした。
安帝の代(義熙年間・十一年~十四年)
- 義熙9年(413年)2月丙午、熒惑・填星が皆東井を犯す。占では秦に兵ありとされる。壬辰歳星・熒惑・填星・太白が東井に聚まり歳星に従い、熒惑が輿鬼に入り太白が南河を犯す。もとより義熙3年に四星が奎に聚まったが奎婁は徐州の分野であり、当時慕容超は斉で僭号し徐兗を侵略して連年淮泗まで寇抄し、姚興・譙縦は秦・蜀で僭偽を称し盧循も木末の地で南北を交々侵し、5年高祖が北で鮮卑を殄した。これが四星が奎に聚まった応であり、9年にまた東井に聚まったがこれは秦の分野で13年高祖が関中を定めたこともまたその応である。譙縦・盧循ら群凶の徒は皆すでに剪滅され、天人はこぞって旧徐(宋建国の地)に帰望し、元熙2年に禅を受け終するのもみなその徴である。星伝にいう、四星が合するのを太陽といい、その国に兵喪が並び起こり君子は憂い小人は流離する。五星が合するのを易行といい、有徳の者は慶を受けて王者に立ち四方を奄有するが、無徳の者は罰を受けその国家を離れ宗廟を滅ぼす、と。今遺文に存するところを案ずるに、五星が聚まった例は3つあり、周と漢はそれで王となり斉はそれで覇となった。周が殷を伐とうとした時五星は房に聚まり、斉桓公が覇たろうとした時五星は箕に聚まり、漢高祖が秦に入った時五星は東井に聚まったが、斉だけは永く侯伯に終わり更紀(易姓革命)のことがなかった。これは五星の聚まりに易行しない場合があることを示す。四星が聚まった例は9つあり、漢の光武帝・晋の元帝はいずれも中興したが魏と宋はいずれも更紀した。これは四星の聚まりに易行する場合があることを示す。昔、漢平帝元始4年四星が柳張に各5日聚まり(柳張は三河の分野)、後に王莽・赤眉の乱があり光武帝が洛陽で興復した。晋懐帝永嘉6年四星が牛女に聚まり、後に劉聡・石勒の乱があり元帝が揚土で興復した。漢献帝初平元年四星が心に聚まりまた箕尾にも聚まり(心は豫州の分野)、後に董卓・李傕の暴乱と黄巾・黒山の熾擾があり魏武帝が帝を迎え許に都し兗豫を定めた。これがその応である。あるいは心は天王を表し大兵が殿に升るのは天下大乱の兆しともいう。韓馥は尾箕を燕興の祥として幽州牧劉虞を奉じたが虞はこれを拒み間もなく滅亡したのでこの説は誤りであった。尾は燕でありまた呉でもあり、これは公孫度でなければ孫権に当たる。度は僻陋に偏拠しながらも郊祀の礼を備え、いずれも漢を改める兆しであった。建安22年四星がまた聚まり、25年に魏文帝が禅を受けた。これは四星が三たび聚まって易行した例である。蜀の臣もまた後の聚まりを劉備の応と引いた。案ずるに太元19年と義熙3年9月に四星が各一たび聚まり、宋が天下を有したのは魏と同じである。魚豢は五星が冀方に聚まって魏が天下を有したと言う。熒惑が輿鬼に入る占では兵喪、太白が南河を犯す占では兵起とされ、後にいずれも応があった。
- 5月壬辰、太白が右執法を犯し昼に見える。占は上に同じ。7月庚午月が鈎鈐を奄す。占では喉舌の臣に憂いありとされる。9月庚午歳星が軒轅大星を犯し、己丑月が左角を犯す。10年正月丁卯月が畢を犯す。占では将相に家坐の罪ある者があるとされる。2月己酉月が房北星を犯す。5月壬寅月が牽牛南星を犯し、乙丑歳星が軒轅大星を犯す。占はいずれも上に同じ。6月丙申月が氐を奄す。占では死に瀕した国に誅する者があるとされる。7月庚辰月が天関を犯す。占では兵が起こるとされる。熒惑が井鉞を犯し填星が輿鬼を犯してこれを守る。占では大人に憂いあり宗廟が改まるとされる。8月丁酉月が牽牛南星を奄す。占は上に同じ。9月填星が輿鬼を犯す。占では人主に憂いありとされる。丁巳太白が羽林に入る。12月己酉月が西咸を犯す。占では陰謀ありとされる。11年2月丁巳月が畢に入る。占では天下に兵が起こる、あるいは辺兵ありとされる。己卯填星が輿鬼に入り、閏月丙午填星がまた輿鬼に入る。占では旱・疫・乱臣の兆しとされる。5月甲申彗星が天市に出て帝座を掃い房心にある(房心は宋の分野)。占では彗星の柄を得た国は旧を廃し新を布く興隆の象とされ宋興隆の兆しとされる。癸卯熒惑が従行して太微に入り、甲辰右執法を犯す。6月己未太白が東井を犯す。占では秦に兵ありとされる。戊寅輿鬼を犯す。占では国に憂いありとされる。7月辛丑月が畢を犯す。占は上に同じ。8月壬子月が氐を犯す。占は上に同じ。庚申太白が右掖門から従行して太微に入り、丁卯左執法を奄す。11月癸亥月が畢に入る。占は上に同じ。乙未月が輿鬼に入って暈をなす。占では主に憂いあり財宝が出る、あるいは暈は赦の兆しとされる。12年5月甲申月が左角で歳星を犯す。占では飢饉とされ、房心の間にとどまる(宋の分野)のは武王が紂を伐った時と同じで歳星を得た国が王となるとされ、この時晋はすでに高祖を宋公に封じていた。6月壬子太白が右掖門から従行して太微に入り、己巳月が畢を犯す。占は上に同じ。7月月が牛宿を犯す。占では天下に大誅ありとされる。10月丙戌月が畢に入る。占は上に同じ。13年5月丙子月が軒轅を犯し、丁亥牽牛を犯し、癸巳熒惑が右執法を犯す。8月己酉月が牽牛を犯し、丁卯月が太微を犯す。占では人君に憂いありとされる。9月壬辰熒惑が軒轅を犯す。10月戊申月が畢を犯す。占はいずれも上に同じ。月が箕を犯す。占では国に憂いありとされる。甲寅月が畢を犯す。占は上に同じ。乙卯填星が太微を犯し70余日とどまる。占では亡君の戒めとされる。壬戌月が太微を犯す。占は上に同じ。11月月が太微で填星を奄す。占では王者がこれを憎むとされる。14年3月癸丑太白が五諸侯を犯す。占は上に同じ。4月壬申月が張で填星を犯す。占では天下に大喪ありとされる。5月庚子月が太微を犯す。占は上に同じ。壬子星孛が北斗魁中に現れる。占では聖人が命を受けるとされる。7月甲辰熒惑が輿鬼を犯す。占では秦に兵ありとされる。丁巳月が東井を犯す。占では軍将が死ぬとされる。癸亥彗星が太微西の上相星から柄を起こし、下芒が漸く長じて十余丈に至り北斗紫微中台に進み帰る。占では彗星が太微に出るのは社稷が亡び天下の王が易わる兆し、北斗紫微に入るのは帝宮が空になる兆し、あるいは天下が聖主を得る兆しともされる。8月甲子太白が軒轅を犯し、癸酉填星が太微に入り右執法を犯してそのまま太微中に留まること200余日で去った。占では填星が太微を守るのは亡君の戒め、王が徙る兆しとされる。9月乙未太白が太微に入り左執法を犯し、丁巳月が太微に入る。占では大人に憂いありとされる。10月癸巳熒惑が太微に入り西蕃上将を犯し、そのまま従行して左掖門内に至り20日とどまってから逆行、元年2月5日に西蕃上将の西3尺ほどを出てまた還って太微に入った。この時填星も太微にあり熒惑が填星を巡って鈎を成し、その年4月27日丙戌に端門から出た。占では熒惑と填星が鈎を成せば天下の紀が更まるとされる。甲申月が太微に入る。占は上に同じ。11年正月高祖が司馬休之・魯宗之らを討ちこれらは潰えて長安へ奔った。5月林邑が交州に寇し交州刺史杜慧度が九真で拒戦するも大いに敗れた。13年7月高祖が羌を伐ち、10月前駆が陝洛を定めた。13年3月索頭の大軍が河沿いに寇し、高祖がこれを討ち走らせ、その別帥拓跋嵩と交戦してまた大破し嵩の衆はほぼ全滅、進んでさらに関を攻めた。8月姚泓を擒にし司・兗・秦・雍が悉く平定され索頭は凶懼した。14年高祖は彭城に還り宋公を受け、11月左僕射前将軍劉穆之が卒した。翌年西虜が長安に寇し雍州刺史朱齢石の諸軍が陥没、官軍は長安を捨てて東に還った。12月安帝が崩じ、母弟の琅邪王が践阼した。これを恭帝という。
恭帝の代(元熙年間)
- 元熙元年(419年)正月丙午、3月壬寅月が太微を犯す。占はいずれも上に同じ。乙卯辰星が軒轅を犯す。6月庚辰太白が太微を犯す。7月月が歳星を犯し、己卯月が太微を犯し太白が昼に見える。占はいずれも上に同じ。義熙元年からこの年に至るまで太白が天を経ることは9日にも及び、蝕が上から始まるのは代を革め王臣を更め民が君を失う象であった。この夜太白が哭星を犯した。12月丁巳月と太白が共に羽林に入った。2年(420年)2月庚午填星が太微を犯す。占はいずれも上に同じ。元年10月高祖が宋王を受け、2年6月晋帝が位を遜り高祖が宮に入った。