宋書卷十七 志第七 禮四

太廟祭祀の儀礼をめぐる議論(文帝期)

  • 元嘉3年(426年)5月庚午、徐羨之ら誅殺の雪冤を太廟に幣で告げる。同年12月甲寅、謝晦西征に際し太廟太社に告げ、平定後にも再度告げる。
  • 元嘉6年(429年)7月、太学博士徐道娯が太廟の送神の儀礼(皇帝退出後に太祝が送神するのは非礼ではないか)を上議。博士江邃・賀道期・荀万秋・陳珉らが論争し、多数意見(邃ら)の「従来通り送神すべし」が採られ詔可。
  • 元嘉6年9月、徐道娯が10月3日殷祠・12日烝祀という祠部の予定に対し、禘祫と烝嘗は月を異にすべきと『礼記』『周礼』『公羊伝』『穀梁伝』等を引き上議したが、詔は「議は寝め報いず(保留)」とされた。
  • 元嘉7年(430年)4月乙丑、掖庭に死者があった場合の祭祀停止の可否について、太学博士江邃・袁朗・徐道娯・陳珉らの議論の後、殿中曹郎中領祠部謝元の「礼に従い有司が行事すべし」との議が詔可。
  • 元嘉10年(433年)12月癸酉、太祝令徐閏が宗廟社稷の祭祀に用いる牲(牛羊豕鶏)はすべて雄を用いるべきところ鶏のみ雌が市販されている問題を提起。太学博士徐道娯・太常丞司馬操の議論を経て、今後は雄鶏を用いることに決す。

太廟祭祀の儀礼をめぐる議論(孝武帝期)

  • 孝建3年(456年)5月丁巳、皇子出後(他家相続)の際の告廟の可否につき、太学博士傅休・太常丞庾亮之・祠部朱膺之・兼右丞殿中郎徐爰らが議論。徐爰の「大事は必ず告げるべき」との議が採られ、皇子の出継に際し七廟すべてに告げることに決す。
  • 大明元年(457年)6月己卯朔、南豊王への継嗣に際し告廟・臨軒の可否につき、太学博士王燮之・祠部郎朱膺之・殿中郎徐爰が議論、徐爰の議(継体の場合は告廟・臨軒不要)が採られる。
  • 大明3年(459年)6月乙丑、皇太子の親祭の可否(親戎中・皇女夭折時)につき、太学博士司馬興之・博士郁が議論、郁の議(廃祭とすべき)が採られる。
  • 大明3年11月乙丑朔、雨天・挙哀時の遷日の可否につき、博士江長・太常丞陸澄・殿中郎殷淡らが晋の先例(世祖太始7年、司空顧和の南郊遷日)を引き議論、「散斉中の遇雨・軽い挙哀は遷日可、致斉に入った後・仲月に迫った場合は有司が代行」との議が詔可。
  • 大明5年(461年)10月甲寅、皇太子妃の喪に際する烝祠の可否につき、太常丞庾蔚之・博士司馬興之・領軍長史周景遠・右丞徐爰らが議論し、廃烝とすることで一致、詔可。
  • 大明7年(463年)2月丙辰、講武・校猟の獲物を先に太廟・章太后廟に薦める儀礼について、太学博士虞龢・兼太常丞庾蔚之が『周礼』『漢書』祭祀志を引き議論、太廟は太尉、社は司空が行事することで詔可。
  • 明帝泰豫元年(472年)7月庚申、諒闇(喪中)に嘗祠を親奉すべきかにつき、有司が漢文帝以来の三年喪の権典・晋武帝の先例を引き、「親奉すべきでない」との議を上げ詔可。
  • 後廃帝元徽2年(474年)10月丙寅、文皇帝太后廟に親祠する際、傍尊にあたる孝武皇帝・昭穆太后への執爵の可否につき、太学博士周山文・博士顔燮ら4人・兼太常丞韓賁・前左丞孫緬が議論(晋の先例を援用)、孫緬の議(孝武皇帝には親執、昭皇太后は有司行事)が詔可。

章皇太后廟をめぐる議論

  • 孝建元年(454年)10月戊辰、章皇太后廟の廃毀(六代で毀廟とすべきか)につき、二品官600余名が議論。太傅江夏王義恭ら636名は「不毀(永く祭る)」を主張、散騎侍郎王法施ら27名は「七廟の例に準じ六代で毀すべし」を主張、義恭らの議が詔可。
  • 大明2年(458年)2月庚寅、殷祭(禘祫)の際に章太后廟も対象とすべきかにつき、博士孫武・王燮之・太常丞孫緬・祠部朱膺之が魏の高堂隆・晋の徐邈の先例を引き詳論、王燮之・孫緬の議(殷薦を及ぼすべき)が詔可。

昭太后廟をめぐる議論(明帝期)

  • 泰始2年(466年)正月、孝武昭太后崩御。5月甲寅、廟制につき博士王略・太常丞虞愿が晋の先例(元帝の愍帝への礼、安帝の永安后への礼)を引き、神主は章后廟に入れ有司が行事すべきと議論。長兼儀曹郎虞龢は「昭皇太后は所生でないため親奉の理なし、婦人は夫の氏に従うべき」として、宣太后より上位に置くべきと議論、詔可。
  • 泰始2年6月丁丑、孝武皇帝室・昭皇太后室への礼(拝・祝文の書式)につき太学博士劉緄・太常丞虞愿が議論、虞愿の議(拝はするが孝武・昭后の二室は薦告しない)が詔可。
  • 後廃帝元徽2年(474年)10月壬寅、昭太后廟の毀置につき太常丞韓賁・都令史殷匪子が議論(伯の生母で無服であるとの理由から毀すべきとの議)、左僕射劉秉ら7名は匪子に同意、左丞王諶が再論議し、匪子の議(幣で二廟に告げ、毀主を北牆に薶める)が詔可。

追尊生父をめぐる先例

  • 魏明帝太和3年(229年)、諸侯から入って大統を継いだ場合、私親を正統として尊ぶことを厳禁する詔(漢宣帝の悼考追尊・哀帝の恭皇廟建立と丁傅の禍を反面教師とする)。晋愍帝建興4年(316年)、司徒梁芬が追尊の礼を議したが帝は従わず、呉王を太保に追贈するにとどまる。元帝大興2年(319年)、琅邪恭王を「皇考」と称すべきかにつき賀循が「子は爵を父に加えられない」と議し、帝もこれに従う。
  • 魏明帝の愛女淑(3月で夭折)を「平原懿公主」と追封し南陵に葬り京師に廟を立てたのは非礼とされる。

諸侯・皇族の廟をめぐる議論

  • 孝建元年(454年)7月辛酉、東平沖王(無後で殤服)の霊主の扱いにつき太学博士徐宏が議論、長沙景王廟に祔すべきとの議が詔可。
  • 大明4年(460年)丁巳、安陸国の廟未建の間、宣王生母の祭祀の可否につき太学博士傅郁・右丞徐爰が議論、徐爰の議(祖母有為後の例に準じ列祀すべき)が詔可。
  • 大明6年(462年)10月丙寅、故晋陵孝王子雲(無嗣)の廟儀・忌日への還臨につき太常丞庾蔚之・左丞徐爰が議論、還臨・上卿主祭とする議が詔可。
  • 大明7年正月庚子、故宣貴妃の立廟の可否につき太学博士虞龢が『礼記』を引き議論、左丞徐爰も同意、立廟が詔可。同年3月戊戌、新安王の心喪中の親祭の可否につき虞龢・徐爰が議論、禫除後に親奉すべきとの議が詔可。
  • 大明7年11月癸未、晋陵国刺孝王廟の祭祀頻度(年5祭)と有服者の扱いにつき博士顔僧道・太常丞庾蔚之・左丞徐爰が議論、徐爰の議が詔可。
  • 大明8年(464年)正月壬辰、故斉敬王子羽の立廟につき游撃将軍徐爰が議論、直ちに立廟し三卿が主祭すべきとの議が詔可。

社稷の制度

  • 社(土地神・句龍を祀る)と稷(穀物神・柱=周棄を祀る)の由来を述べる。天子は太社(民のため)と王社(自ら耕す耤田のため)の二社を立てる。漢魏は官社のみで稷社を欠き、二社一稷であった。
  • 晋太康9年(288年)、二社を一つに併合する詔が出たところ、車騎司馬傅咸が上表で異議を唱え、『祭法』『穀梁伝』等を引き二社の意義の違い(太社は民のため、王社は耕作のため)を詳論、また景侯(王粛)の説の矛盾も指摘。時成粲も景侯の解釈を批判する議を上げ、劉寔も咸に同意。詔は「社は実は一神だが両位を襲うのは衆議一致せず」として旧制のまま存続とする。
  • 元帝建武元年(317年)、洛京の制に依り二社一稷を再建、太社・帝社それぞれに祝文あり。礼では宗廟を左、社稷を右に置く。江左でもこの制に従い、宋も改変せず。

先農(耤田)の礼

  • 魏の三祖(曹操・曹丕・曹叡)は皆親耕耤田し先農を祀ったが、儀は詳らかでない。晋武帝・哀帝は耤田を欲したが実現せず、儀注も欠く。
  • 宋文帝元嘉21年(444年)春、親耕に際し耤田中に先農壇を立てる(高4尺、方2丈、四出の陛、陛の広さ5尺)。車駕到着前に司空・大司農が太牢一頭で告祠し、祭器は社稷の祭器を用い、祭り終えて余胙を頒つ。

先蚕の礼

  • 漢の儀では皇后が東郊の苑中蚕室で親桑し、蚕神「苑窳婦人」「寓氏公主」を少牢で祀る。晋武帝太康9年(288年)、楊皇后が西郊で親桑し、先蚕壇(高1丈、方2丈)を築く。皇后到着前に太祝令が太牢一頭で告祠。

山川・五嶽四瀆の礼

  • 魏文帝黄初2年(221年)6月庚子、五嶽四瀆をはじめ諸祀を整備し珪璋を沈める礼を初めて行う。黄初6年(225年)7月、帝が舟軍で淮水に入り、使者を遣わし璧を淮に沈める。
  • 魏明帝太和4年(230年)8月、東巡し使者に特牛で中嶽を祠らせる。魏元帝咸熙元年(264年)、長安行幸に際し使者を遣わし璧幣で華山を礼す。
  • 晋穆帝升平年間、何琦が五嶽の祠の再興を論じる上表(永嘉の乱以降廃絶した山川祭祀の復興を主張)。
  • 宋孝武帝大明7年(463年)6月丙辰、霍山への奠祭につき殿中郎丘景先が使者の官・牲・器を議論、兼太常が持節、太牢に璋幣を加え奉使することが詔可。
  • 晋武帝咸寧2年(276年)春の旱に際し、4月丁巳、諸旱処への祈請の詔。5月庚午、社稷山川に雨乞い開始、6月戊子、澍雨を得る(雩禜の旧典)。太康3年・10年にも同様の雩禜が行われた。

孔子廟の礼

  • 魏文帝黄初2年(221年)正月、孔子の功徳を称え闕里の廟の荒廃を憂う詔。議郎孔羨を宗聖侯に封じ邑百戸を与え孔子祀を奉じさせ、魯郡に旧廟を修めさせる。晋武帝太始3年(267年)11月、宗聖侯孔震を奉聖亭侯に改封、太学・魯国に四時三牲で孔子を祀らせる詔。明帝大寧3年(325年)、奉聖亭侯孔亭に四時の祠を給する詔。孔亭の五代孫が博打で祭直を怠り不祀となり、宋文帝元嘉8年(431年)有司が奏し爵を奪う。元嘉19年(442年)、孔隠之の甥孔熙先の謀反連座で爵を失う。元嘉28年(451年)、孔恵雲を奉聖侯とするも重病で失爵。孝武帝大明2年(458年)、孔邁を奉聖侯としたが、邁の卒後子の莽が罪により失爵。
  • 魏斉王正始年間、帝が『論語』『尚書』『礼』を講じ通ずるごとに太常が太牢で辟雍にて孔子を祀り顔淵を配した(正始2年・5年・7年)。晋武帝太始7年(271年)以降、皇太子が『孝経』『詩』『論語』を講じ通ずるごとに太牢で孔子を祠り顔淵を配する例が続く(咸寧3年、太康3年、太興3年、咸康元年、升平元年、寧康3年)。宋文帝元嘉22年(445年)4月、皇太子が『孝経』を講じ通じ国子学で釈奠。

弔祭・墓祭の慣例

  • 漢の東海王恭薨去に際し明帝が津門亭に出て発哀した故事、魏の会喪・使者弔祭の際には玄冠を去り布巾を加える例。
  • 魏武帝は若い頃、漢太尉橋玄に礼を尽くされた恩から、建安中に太牢で祠らせた。文帝黄初6年(225年)12月、梁郡を過ぎた際にも太牢で祠る。黄初2年正月、原陵で漢世祖(光武帝)を太牢で祠らせる。
  • 宋文帝元嘉25年(448年)4月丙辰、江寧行幸の際、司徒劉穆之の墓に使者を遣わし致祭。孝武帝大明3年(459年)2月戊申、耤田行幸の際、左光禄大夫袁湛の墓に致祭。大明5年(461年)庚午、司空殷景仁の墓に致祭。大明7年11月南巡の際、乙酉、晋の司馬桓温・征西将軍毛璩の墓に致祭。

諸葛亮廟

  • 蜀漢劉禅景耀6年(263年)、諸葛亮のために沔陽に廟を立てる詔。それまで各地で私廟が建立され百姓が私祭していたが、京師建立の議も却下し、歩兵校尉習隆・中書侍郎向允らの上言(周の召伯・越の范蠡の例を引き、沔陽に一廟を建て諸臣の私祀を禁ずるべしとの提案)が採られた。何承天は「周礼に功臣を大烝に配す例あり、私祀を禁じただけで配饗とはしなかったのは非礼」と批判。

淫祀をめぐる禁令の沿革

  • 漢の城陽国では劉章の功を祀る祠が青州諸郡に広まり、済南で特に盛んだったが魏武帝が済南相の時にすべて廃絶。文帝黄初5年(224年)11月、祀典にない祭祀(宮殿・戸牖にまで及ぶ淫祀)を禁ずる詔(違反者は左道の罪に問う)。明帝青龍元年(233年)、祀典にない郡国山川の祭祀を禁ずる詔。
  • 晋武帝太始元年(265年)12月、五嶽四瀆・名山川沢の定制を尊びつつ淫祀を廃する詔(魏朝の旧礼を踏襲)。太始2年正月、有司が春分の厲殃祭・禳祠を奏したが、祀典にないものとして廃止。
  • 宋武帝永初2年(421年)、淫祀を普く禁じ、蒋子文祠以下がすべて廃絶されたが、孝武帝孝建初にまた蔣山祠が再興され、諸山川の祭祀も次第に復した。明帝は鶏籠山に九州廟を立て群神を大いに集める。蒋侯は宋代に爵位を加えられ相国大都督中外諸軍事にまで至り殊礼を受け、鍾山王・蘇侯(驃騎大将軍)ほか四方の諸神にも爵秩が加えられた。