宋書卷十八 志第八 禮五

総説

  • 秦は礼学を滅ぼし、漢初は簡素を尊び秦の旧制を多く踏襲、後漢明帝に至り古制を修復(司馬彪『輿服志』に詳しい)。魏は指南車を新造した程度で大きな改変はなく、晋が服制を整備した。本志は徐広『車服注』等により歴代の典事を通観する。

車制の沿革

  • 上古、聖人が転がる蓬を見て輪を作り、北斗の形から帝車の形を得たとされる(『系本』の「奚仲が車を始めて作った」説を沈約は誤りと批判、奚仲は夏の車正に過ぎない)。有虞氏の路(鸞車)・殷の路(大路)・周の路(乗路)と代を経て、周の五路(玉・金・象・革・木の飾りを備える)に至る。秦は殷制の「金根車」を採用し、漢もこれを踏襲(乗輿の金根車は朱斑の輪・重轂・飛軨・金塗の繆龍・虎の伏軾・龍首銜軛・鸞雀立衡・翠羽蓋(黄屋)・太常十二旒・六頭の黒馬・十二鸞・左纛を備える)。
  • 応劭『漢官鹵簿図』によれば、乗輿大駕は鳳皇車に金根車を副える。五色の安車・立車(五乗、俗称「五帝車」)は江左では欠く。天子の御する車は六頭立て、副車は四頭立て(『尚書』『逸礼』王度記等を引用)。江左以来は六頭立ては用いず、四頭立てのみ。
  • 宋孝武帝大明3年(459年)、尚書左丞荀万秋が五路の礼図を新造。金路は赤旗に蓋なし、金根を模して朱漆に画を施し玉で末を飾り青旂十二旒、玄馬四頭で祀に用いる。象路・革路・木路は周官・輿服志にも形が伝わらず、玉路に準じて造る。大明中に初めて五路が揃って一斉に出御した(親耕耤田には三蓋車=芝車・耕根車を用い軾上に耒耜を置く。戎車は立乗、獵車は「蹋猪車」=魏文帝が「蹋虎車」と改称)。

指南車・記里車

  • 指南車は周公創始と伝えられ、秦漢では制作法が失われ、後漢の張衡が再興、その後も戦乱で失われては、魏の馬鈞、後趙の解飛、姚興の令狐生らが再造。安帝義熙13年(417年)、宋武帝の長安平定時に指南車を得る。范陽の祖沖之は精巧な指南車の構造を提案し、宋順帝升明末、斉王(蕭道成)が命じて造らせ、撫軍丹陽尹王僧虔・御史中丞劉休が試験した(百屈千回しても方向を誤らなかった)。北魏の拓跋燾も郭善明・馬岳らに造らせるが完成せず。
  • 記里車も来歴不詳、宋高祖の三秦平定時に得たもので、車上に鼓があり一里ごとに木人が一槌打つ。

輦車・小車類

  • 輦車は『周礼』の王后五路の卑い方で、後宮内で使う。漢の乗輿では人が挽くか果下馬に牽かせる。漢成帝が班婕妤と同輦しようとした故事、後漢陰就(外戚)の乗輦を井丹が譏った故事(「昔、桀は人車に乗った」)が伝わる。魏晋以来は御小出には馬車、または輿車(今の小輿)を用いる。
  • 犢車は軿車の類で、漢代は貧しい諸侯が乗ったが後に貴ばれ、江左では御出の際に儲備の物を積んだ。漢は軺車より輜軿を貴んだが魏晋は逆に軺車を貴んだ。追鋒車・雲母車(犢車に雲母を飾ったもの、臣下には賜与のみ許される)・四望車がある。

后妃・皇太子・諸侯の車

  • 『周礼』の王后の五路(重翟・厭翟・安車・翟車・輦車)。漢制では太皇太后・皇太后・皇后の法駕は重翟羽蓋の金根車、三頭立て。法駕外出には紫罽軿車を用いる。明帝永平7年(64年)、光烈陰皇后の葬送では鸞路青羽蓋を用いた。
  • 晋先蚕儀注:皇后は油画雲母安車(六頭立て)、副に両轅安車(五頭立て)。公主は油画安車(三頭立て)。三夫人は青交路安車(三頭立て)。九嬪・世婦は軿車(二頭立て)、宮人は輜車(一頭立て)。王妃・公侯特進夫人・封君は皂交路安車(三頭立て)。
  • 太子・皇子は安車(朱斑輪、虎較・鹿軾)、皇子が王となれば「王青蓋車」と称された。皇孫は緑車(三頭立て)。魏晋の制では太子・諸王はみな四頭立て。公・列侯は安車(朱斑輪、鹿較・熊軾、「軒」と称す)。
  • 漢制の乗輿大駕には公卿が奉引し太僕・大将軍が参乗、千乗万騎を備え、属車八十一乗(秦が九国を滅ぼし各国の九乗の貳車を合わせた数に由来)。法駕には属車三十六乗。後漢は郊天に法駕、宗廟には小駕(副車を減らす)を用いた。

冠・弁の沿革

  • 冕:後漢明帝が周官・礼記・尚書の諸儒説により衮冕の服を復活。魏明帝が公卿の衮衣黼黻の文を簡略化。天子が郊廟に着る「黒介幘平冕」(皂表朱緑裏、広7寸長1尺2寸、垂珠十二旒、日月星辰山龍華蟲藻火粉米黼黻の十二章を画く)。
  • 通天冠(高9寸、金博山顔)は朝服、朝服には黒介幘絳紗裙を伴う。拝陵には黒介幘箋単衣。素服は白夾単衣。漢の立秋の日の猟服は緗幘だったが、晋哀帝の初め博士曹弘之らの議により素幘に改め、宋文帝元嘉6年(429年)に奉朝請徐道娯が異議を上げるも詔で旧のまま存続。
  • 進賢冠(前高7寸、後高3寸、長8寸、梁数は貴賤による)は古の緇布冠、儒者の服。王公は八旒、卿は七旒。行郷射礼には公卿は委貎冠(皂絹、覆杯の形、長7寸高4寸)。執事者は皮弁(鹿皮製)。
  • 武冠(もと趙の惠文冠、大冠とも)は侍臣に貂蟬を加える(趙武霊王の胡服起源説、応劭の説)。侍中は左貂、常侍は右貂。
  • 法冠(もと楚の柱後冠、獬豸冠)は秦が楚滅亡後に法官へ賜与。謁者高山冠(もと斉服、側注冠)は秦が斉滅亡後に謁者に賜与、魏明帝が通天冠・遠遊冠に似せて改変。樊噲冠(広9寸、平冕に似る)は殿門衛士の服、漢の樊噲の鴻門の会での故事に由来。漢制の冠は十三種あったが魏晋以来は一部のみ使用される。

幘(頭巾)の沿革

  • 幘はもと賤者の冠でない者の服。漢元帝が額に壮髪があり幘を用い始め、王莽が禿頭のため「屋」を加える。冠の種類(進賢冠には介幘、惠文冠には平上幘)に応じて幘の形が定まる。文吏は平上幘、武官は武冠。童子幘は「屋」なし。赤幘は騎吏・武吏用、日蝕の際は文武官が皆脱冠し赤幘を著け威武を示す。宋の乗輿鼓吹は黒幘武冠を用いる。

五時朝服・戎服

  • 漢儀では祀事に五郊で天子・執事者は方色の服を着し、非執事の百官は常服(絳衣)。魏の秘書監秦静によれば漢は玄冠絳衣のみを用い、晋は「五時朝服」(四時朝服+朝服)を制定。
  • 戎服は「一戎衣」(尚書)に由来し、周礼の革路・韎韋弁服に基づく。晋郤至の「韎韋の跗注」の故事も引かれる。近代の親戎中外戒厳の服には定色なく、黒帽に紫縹(長4寸広1寸)を綴じ、腰は絡帯(鞶革の代わり)。中官は紫縹、外官は絳縹。宋文帝元嘉中の巡幸・蒐狩、宮廟の水火の際もこの服装。

后妃の服制

  • 漢制の太后廟祭服は紺上皂下、親蚕は青上縹下(いずれも深衣=単衣)。首飾は剪氂幗。皇后謁廟服も同様で首飾は仮髻・歩揺八雀九華に翡翠を加える。晋先蚕儀注では皇后は十二鈿歩揺・大手髻・純青の衣、帯綬佩。今の皇后謁廟服は「褘衣」と呼ばれる。公主・三夫人は大手髻七鈿蔽髻九嬪・公夫人は五鈿。世婦は三鈿。公主会見は大手髻、長公主のみ歩揺あり。命婦の等級に応じ紺繒・皂絹・青絹の上下を用いる。

佩玉・璽綬の制度

  • 劉向によれば天子から士、王后から命婦まで玉を佩び尊卑により制を異にする(『礼記』:天子は白玉玄組綬、公侯は山玄玉朱組綬、卿大夫は水蒼玉緇組綬、士は瓀玟緼組綬)。五霸以後は佩・韍を廃し繋綵のみ残し、秦が采組で綬を作り漢がこれを継承。明帝が佩制を復活したが漢末に再び失われ、魏の侍中王粲が形を復元、今の佩制はこれに基づく。
  • 乗輿六璽は秦制に由来(皇帝行璽・皇帝之璽・皇帝信璽・天子行璽・天子之璽・天子信璽)。高祖が入関の際、秦始皇の藍田玉璽(螭虎紐、「受天之命皇帝寿昌」の文)を得てこれを佩び、「伝国璽」として斬白蛇剣とともに乗輿の宝とした。伝国璽は魏晋を経て今も存し、斬白蛇剣は晋恵帝の武庫火災で焼失。伝国璽は晋懐帝の陥没時に劉聡の手に、のち石勒・石虎を経て晋穆帝代に還る。虞喜『志林』によれば伝国璽を含め天子の璽は実は七璽ある。呉は刻玉工がなく孫皓が金璽六枚を鋳造した。

官品ごとの璽綬・朝服・冠・佩玉

(以下、位階順に璽・印・綬の材質と色、朝服の種別、冠の梁数、佩玉の種類を列挙する) - 皇太子:金璽亀紐纁朱綬(四采:赤黄縹紺)、五時朝服、遠遊冠(三梁進賢冠も可)、佩瑜玉。 - 諸王:金璽亀紐纁朱綬(四采:赤黄縹紺)、五時朝服、遠遊冠(三梁進賢冠も可)、佩山玄玉。 - 郡公:金章玄朱綬、五時朝服、進賢三梁冠、佩山玄玉。 - 太宰・太傅・太保・丞相・司徒・司空:金章紫綬、五時朝服、進賢三梁冠、佩山玄玉(相国は緑綟綬〈三采:緑紫紺〉、「綟」は草名で緑色)。 - 大司馬・大将軍・太尉、および位が三公に准じる諸将軍:金章紫綬、五時朝服、武冠、佩山玄玉。 - 郡侯:金章青朱綬、五時朝服、進賢三梁冠、佩水蒼玉。 - 驃騎将軍・車騎将軍、および将軍号に「大」を加える征鎮安平・中軍・鎮軍・撫軍・前左右後将軍・征虜・冠軍・輔国・龍驤将軍:金章紫綬、五時朝服、武冠、佩水蒼玉。 - 貴嬪・夫人・貴人:金章(文「貴嬪夫人貴人之章」)、紫綬、佩于窴玉。 - 淑妃・淑媛・淑儀・修華・修容・修儀・婕妤・容華・充華:銀印(文「淑妃淑媛淑儀修華修容修儀婕妤容華充華之印」)、青綬、佩五采瓊玉。 - 皇太子妃:金璽亀紐纁朱綬、佩瑜玉。 - 諸王太妃・諸長公主・公主封君:金印紫綬、佩山玄玉。 - 諸王太子:金印紫綬、五時朝服、進賢両梁冠、佩山玄玉。 - 郡公侯太夫人:銀印青綬、佩水蒼玉。 - 郡公侯太子:銀印青綬、五時朝服、進賢両梁冠、佩水蒼玉。 - 侍中・散騎常侍・中常侍:五時朝服、武冠貂蟬(侍中・左右常侍は佩水蒼玉)。 - 尚書令・僕射:銅印墨綬、五時朝服、納言幘進賢両梁冠、佩水蒼玉。 - 尚書:五時朝服、納言幘進賢両梁冠、佩水蒼玉。 - 中書監・令・秘書監:銅印墨綟綬、五時朝服、進賢両梁冠、佩水蒼玉。 - 光禄大夫・卿・尹・太子保傅・大長秋・太子詹事:銀章青綬、五時朝服、進賢両梁冠、佩水蒼玉(衛尉のみ武冠。衛尉は江左では置かれず、宋孝建初に再置されたが晋の九卿に准じ文冠・進賢両梁冠としたのは旧制ではない)。 - 司隷校尉・武衛・左右衛・中堅・中塁・驍騎・遊撃・前軍・左軍・右軍・後軍・寧朔・建威・振威・奮威・揚威・広威・建武・振武・奮武・揚武・広武・左右積弩・彊弩の諸将軍・監軍:銀章青綬、五時朝服、武冠、佩水蒼玉。 - 領軍・護軍・城門・五営校尉・東南西北中郎将:銀印青綬、五時朝服、武冠、佩水蒼玉。 - 県・郷・亭侯:金印紫綬、朝服進賢三梁冠。 - 鷹揚・折衝・軽車・揚烈・威遠・寧遠・虎威・材官・伏波・凌江の諸将軍:銀章青綬、五時朝服、武冠。 - 奮武護軍・安夷撫軍護軍・軍州郡国都尉・奉車駙馬騎都尉・諸護軍将兵助郡都尉・水衡典虞牧官典牧都尉・度支中郎将校尉都尉・司監都尉材官校尉・王国中尉・宜和伊吾都尉・監淮南津都尉:銀印青綬、五時朝服、武冠。 - 州刺史:銅印墨綬、絳朝服、進賢両梁冠。 - 御史中丞・都水使者:銅印墨綬、五時朝服、進賢両梁冠、佩水蒼玉。 - 謁者僕射:銅印墨綬、四時朝服、高山冠、佩水蒼玉。 - 諸軍司馬:銀章青綬、朝服武冠。 - 給事中・黄門侍郎・散騎侍郎・太子中庶子・庶子:五時朝服、武冠。 - 中書侍郎:五時朝服、進賢一梁冠。 - 冗従僕射・太子衛率:銅印墨綬、五時朝服、武冠。 - 虎賁中郎将・羽林監:銅印墨綬、四時朝服、武冠(陛列・鹵簿では鶡尾絳紗縠単衣。鶡は鶏に似た鳥で闘って死ぬまでやめぬ猛禽)。 - 北軍中候・殿中監:銅印墨綬、四時朝服、武冠。 - 護匈奴中郎将・護羌夷戎蛮越烏丸・西域戊已校尉:銅印青綬、朝服武冠。 - 郡国太守・相・内史:銀章青綬、朝服進賢両梁冠(江左は単衣幘のみ、中二千石を加える者は卿尹に准ずる)。 - 牙門将:銀章青綬、朝服武冠。 - 騎都督守:銀印青綬、朝服武冠。 - 尚書左右丞・秘書丞:銅印黄綬、朝服進賢一梁冠。 - 尚書・秘書郎・太子中舎人・洗馬・舎人:朝服進賢一梁冠。 - 黄沙治書侍御史:銀印墨綬、朝服法冠。 - 侍御史:朝服法冠。 - 関内・関中名号侯:金印紫綬、朝服進賢両梁冠。 - 諸博士:皂朝服、進賢両梁冠、佩水蒼玉。 - 公府長史・諸卿尹丞・諸県署令(秩千石者):銅印墨綬、朝服進賢両梁冠(江左の公府長史には朝服がなく、県令は単衣幘のみ)。 - 諸軍長史・諸卿尹丞・獄丞・太子保傅詹事丞・郡国太守相内史丞長史・諸県署令長相・関谷長・王公侯諸署令長・司理・治書・公主家僕:銅印墨綬、朝服進賢一梁冠(江左の太子保傅卿尹詹事丞は皂朝服、郡丞・県令長は単衣幘のみ)。 - 公車司馬・太史・太医・太官・御府内省令・太子諸署令僕・門大夫・陵令:銅印墨綬、朝服進賢一梁冠。太子率更家令僕:銅印墨綬、五時朝服、進賢両梁冠。 - 黄門諸署令僕長:銅印墨綬、四時朝服、進賢一梁冠。 - 黄門冗従僕射・太子寺人監:銅印墨綬、四時朝服、武冠。 - 公府司馬・諸軍城門五営校尉司馬・護匈奴中郎将護羌戎夷蛮越烏丸戊已校尉長史司馬:銅印墨綬、朝服武冠(江左の公府司馬は無朝服、それ以外は単衣幘のみ)。 - 廷尉正・監・平:銅印墨綬、皂零辟朝服、法冠。 - 王・郡公侯郎中令・大農:銅印青綬、朝服進賢両梁冠。 - 北軍中候丞:銅印黄綬、朝服進賢一梁冠。 - 太子常従虎賁督・督校督司馬虎賁督:銅印墨綬、朝服武冠。 - 殿中将軍:銀章青綬、四時朝服、武冠(宋末には章綬を給しなくなった)。 - 水衡典虞牧官典牧材官州郡国都尉司馬:銅印墨綬、朝服武冠。 - 諸謁者:朝服高山冠。 - 門下・中書通事舎人・令史・門下主事令史:四時朝服、武冠。 - 尚書典事・都水使者参事・散騎集書・中書尚書令史・門下散騎中書尚書令史・録尚書中書監令僕省事史・秘書著作・治書・主書・主璽・主譜令史・蘭台殿中蘭台謁者・都水使者令史・書令史:朝服進賢一梁冠(江左の令史には朝服がない)。 - 節騎郎:朝服武冠(陛列・鹵簿では鶡尾絳紗縠単衣)。 - 殿中中郎将校尉都尉・黄門中郎将校尉・殿中太医校尉都尉:銀印青綬、四時朝服、武冠。 - 関外侯:銀印青綬、朝服進賢両梁冠。 - 左右都候・閶闔司馬・城門候:銅印墨綬、朝服武冠。 - 王郡公侯中尉:銅印墨綬、朝服武冠。 - 部曲督護司馬史・部曲将:銅印、朝服武冠(司馬史は仮墨綬)。 - 太中・中散・諫議大夫・議郎・郎中・舎人:朝服進賢一梁冠(秩千石者は両梁)。 - 城門令史:朝服武冠(江左の令史には朝服がない)。 - 諸門僕射・佐史・東宮門吏:皂零辟朝服(僕射・東宮門吏は郤非冠、佐史は進賢冠)。 - 宮内游徼亭長:皂零辟朝服、武冠。 - 太医校尉都尉・総章協律中郎将校尉都尉:銀印青綬、朝服武冠。 - 小黄門:四時朝服、武冠。 - 黄門謁者:四時朝服、進賢一梁冠(朝賀通謁時は高山冠)。 - 黄門諸署史:四時朝服、武冠。 - 中黄門・黄門諸署従官・寺人:四時科単衣、武冠。 - 殿中司馬及守陵者・殿中太医司馬:銅印墨綬、四時朝服、武冠。 - 太医司馬:銅印、朝服武冠。 - 総章監・鼓吹監・司律司馬:銅印墨綬、朝服(鼓吹監・総章協律司馬は武冠、総章監・司律司馬は進賢一梁冠)。 - 諸県署丞・太子諸署丞・王公侯諸署及公主家丞:銅印黄綬、朝服進賢一梁冠。 - 太医丞:銅印、朝服進賢一梁冠。 - 黄門諸署丞:銅印黄綬、四時朝服、進賢一梁冠。 - 黄門称長・園監:銅印黄綬、四時朝服、武冠。 - 諸県尉・関谷塞護道尉:銅印黄綬、朝服武冠(江左は単衣幘のみ)。 - 洛陽卿有秩十:銅印青綬、朝服進賢一梁冠。 - 宣威将軍以下裨将軍:銅印、朝服武冠(この官で刺史・郡守・万人司馬・虎賁督以上を兼ねる者、および司馬史は青綬を仮す)。 - 平虜・武猛中郎将・尉都尉:銀印、朝服武冠(千人司馬虎賁督以上兼帯・司馬史は青綬を仮す)。 - 別部司馬・軍仮司馬:銀印、朝服武冠。 - 図像・都匠・行水中郎将校尉都尉:銀印青綬、朝服武冠。工伎巧能により特にこの官を加えられた者のうち、羽林長郎は武猛都尉以上の印を佩びれば青綬を仮し、別部司馬以下は墨綬を仮す。長郎・壮士は武弁冠、陛列・鹵簿では絳縠単衣。 - 陛下甲僕射・主事吏・将騎廷上五牛旗・仮使虎賁:陛列・鹵簿では錦文衣・武冠・鶡尾。陛長は銅印墨綬・旄頭を仮す。 - 羽林:陛列・鹵簿で絳科単衣、上に韋画要襦、旄頭を仮す。 - 挙輦・跡禽・前駆・由基・彊弩・司馬・守陵虎賁:武猛都尉以上の印を佩びれば青綬、別部司馬以下は墨綬を仮す。守陵虎賁は絳科単衣・武冠を給す。 - 殿中冗従虎賁・殿中虎賁及守陵者(鈒戟を持つ):同様に青綬・墨綬を仮し、絳科単衣・武冠。 - 持椎斧武騎虎賁・五騎伝詔虎賁・殿中羽林及守陵者・太官尚食虎賁称飯宰人・諸宮尚食虎賁:武猛都尉以上の印なら青綬、別部司馬以下は墨綬を仮し、絳褠・武冠を給す(陛列・鹵簿では五騎虎賁は錦文衣鶡尾、宰人は離支衣)。 - 黄門鼓吹及釘官僕射・黄門鼓吹史主事・諸官鼓吹・尚書廊下都坐門下守閤・殿中威儀騶虎賁常直殿黄雲龍門者・門下左右部虎賁羽林騶・給伝事者諸導騶・門下中書守閤・南書門下虎賁羽林騶・蘭台五曹節蔵射廊下守閤威儀発符騶・都水使者黄沙廊下守閤謁者録事威儀騶・河隄謁者騶・諸官謁者騶:絳褠武冠を給す。 - 大誰士:皂科単衣、樊噲冠。 - 衛士:墨布褠、却敵冠。

朝服の支給規定・禁物令

  • 朝服・佩玉を受けるべき官で京都にいない者は朝服を給せず(護烏丸羌夷戎蛮の諸校尉以上・刺史・西域戊已校尉を除く)。朝会の際に一時的に貸与し会が終われば返還。朝服の支給がない官は自ら備えてよい。印綬を仮すが鞶囊を給しない官も自ら作ってよいが、印のみで綬を給しない者は綬を佩びられない。
  • 鞶(鞶囊)は古制で、漢代に腰間に着けたものを「傍囊」「綬囊」ともいう。
  • 朝服一具の内訳:冠幘各一、絳緋袍、皂縁中単衣領袖各一領、革帯袷袴各一、舄袜各一量、簪導。四時朝服は絳絹・黄緋・青緋・皂緋の袍単衣各一領を加える。五時朝服はさらに白絹の袍単衣一領を加える。
  • 朝服を受ける際の布地の規定(単衣7丈2尺、科単衣及び褠5丈2尺、中衣絹5丈、縁皂1丈8尺、領袖練1匹1尺絹7尺5寸、袴用練1丈4尺・縑2丈、袜布3尺、単衣及び褠の袷帯縑各1段長7尺)。江左では絹のみを差等をつけて給し、宋元嘉末以降は支給を断つ。
  • 禁物の規定:山鹿・柱・白施毛・狐白領・黄豹斑・白鼲子・渠搜裘・歩揺八鈿・蔽結・多服蟬明の中欋・白の織成衣帽・錦帳・純金銀器・雲母(幅1寸以上)は禁物とする。品令第二品以上は禁物以外は服用可、三品以下はさらに三鈿以上の蔽結・爵・仮真珠翡翠飾りの纓佩・雑采衣・桮文綺・斉繍黼繍の離袿袍を禁じる。六品以下はさらに金鈿・綾錦・錦繍七縁綺・貂裘・金义鐶鉺・金飾器物・絳帳を禁じる。八品以下はさらに羅紈綺縠・雑色真文を禁じる。騎士卒百工人はさらに大絳紫襈・假結真珠璫珥・犀瑇瑁越畳銀飾器物・帳・乗牘車・履の色(緑青白を超えるもの)を禁じる。奴婢・衣食客はさらに白幘・蒨絳・金黄銀叉鐶鈴鉗履の色(純青を超えるもの)を禁じる。ただし去官・薨卒後は故官の例に従える。諸王は私的に禁物・罽碧校鞍・珠玉金銀錯刻鏤彫飾の無用の物を作ってはならない。

宮殿・器物の様式

  • 天子は漆牀に座し朱屋に居る。史臣按ずるに、『左伝』の「丹桓宮之楹」、何休注の公羊の朱屋の記述など、その由来は久しい。上古の聖王は「采椽不斲」(質素な椽を用いた)が、後代は漆と朱を施すことで濫用を防いだと考証する。殿屋の円い淵・方井に荷華を植えるのは火を厭う意味。
  • 古者は貴賤とも笏を執り、事あれば腰帯に搢む(「搢紳」の語源)。白筆はその遺象で、三台五省の二品文官が簪す(王公侯伯子男卿尹・武冠者は簪さない、内侍位を加えられた者のみ簪す)。尚書令僕射・尚書の手板には白筆と紫皮の「笏」があり、朝服の肩の「紫荷」(漢代の奏事袋に由来するとも)が付属する。

個別事例

  • 魏文帝黄初3年(222年)、漢の太尉楊彪に几杖を賜り客礼で待遇し、鹿皮冠を着けさせようとしたが彪が固辞し布単衣・皮弁で謁見。傅玄子によれば漢末の王公名士は幅巾を雅とし、袁紹・崔鈞らも将帥でありながら幘巾を着けた。
  • 魏武帝は天下凶荒のため皮弁を模して縑帛の「夾(帢)」を作らせた(簡易を旨とし、色で貴賤を区別、本来は軍飾)。徐爰によれば夾は元は歧(枝分かれ)がなかったが荀彧が巾を樹の枝に引っかけ歧が生じ、以後この形が慶弔の服となった。巾は葛で作り横に着ける古い尊卑共通の服で、漢末の黄巾賊の名の由来。今の国子太学生は巾を服する。
  • 帢(㡌)は「冒」の意で首を覆う、纚に由来する。晋成帝咸和9年(334年)、尚書八座丞郎・門下三省侍郎に車上で白帢低幘を許す制。史臣按ずるに江左では士人も帢を着けるようになった。
  • 弔服は皮弁疑衰だが今は単衣黒幘を宴会服とし拝陵にも用いる。単衣夾を弔服とする。単衣は古の深衣。深衣は絹帢で喪に用い、単衣は素帢で吉事に用いる。
  • 晋武帝太始3年(267年)、太宰安平王孚に侍中の服、大司馬義陽王望に衮冕の服を賜与。太始4年、趙王・楽安王・燕王に散騎常侍の服、太始10年、彭城王に衮冕の服を賜与。偽楚桓玄簒奪時にも安帝母弟太宰琅邪王に衮冕服を加える。宋興以来、王公貴臣は侍中散騎常侍を加えられて初めて貂璫を服する。

諸王の車服僭越に対する規制

  • 孝武帝孝建元年(454年)丞相南郡王義宣、孝建2年雝州刺史武昌王渾がそれぞれ異図を企てたため、世祖は侯王の勢威を削ろうとし、大明3年(459年)10月己未、大司馬江夏王義恭・驃騎大将軍竟陵王誕が諸王の車服制度改革9条を上表(詳細は義恭伝)。有司はさらに条目を増補し、合計24条の禁令を上奏、詔可:
  • 聴事は南向きに坐してはならず、帳や幰蕃を施してはならない。
  • 正冬(冬至)に国殿へ跣(はだし)で登ってはならない。
  • 国師・傅令および油戟を挟侍してはならない。
  • 公主・王妃の傳令は朱服を着てはならない。
  • 輿は重杠であってはならない。
  • 鄣扇は雉尾であってはならない。
  • 剣は鹿盧形の槊であってはならない。
  • 毦(旄飾)は孔雀・白鷩であってはならない。
  • 夾轂隊は絳襖であってはならない。
  • 平乗・誕馬は2匹を超えてはならない。
  • 胡伎は綵衣であってはならない。
  • 舞伎は正冬に袿衣を着け顔を莊わせ花で蔽ってはならない。
  • 正冬の会で鐸舞・杯柈舞・長蹻伎・䞬舒丸剣・博山伎・縁大橦伎・五案伎は禁止(正冬会の奏舞曲以外は舞ってはならない)。
  • 諸妃主は衮帯・信幡を着けてはならない。
  • 台省の官でなければ絳を用いてはならない。
  • 郡県の内史・相および封内の官長は、その封君に対し(すでに三公でない限り)「臣」と称してはならず、上下の官敬のみとする。
  • 諸鎮の常行車の前後は6隊を超えてはならない(白直夾轂はこの限りではない)。
  • 刀は銅で装ってはならない。
  • 諸王の女で県主に封じられた者、諸王子孫で王を襲封した者、王の妃、封侯者の夫人は行幸に鹵簿を用いてはならない。
  • 諸王子で王を継体した者の婚姻の吉凶は諸国公侯の礼に依り、皇子と同じであってはならない。
  • 車輿は油幢であってはならない(軺車はこの限りではない)。
  • 平乗舫は両頭を平らにした露平の形でなければならず、龍舟を模してはならない。
  • 帳幕は朱油であってはならず、五花・䜿筍の形に作ってはならない(既存の物は台に輸送)。
  • 犯禁物を私蔵する者・統司が糾察を怠った場合は臨時に議罪する。
  • 車前の「五百」(一旅五百人)は漢代に一統されたため人数のみ残り名だけが伝わった。

具体儀礼をめぐる論議

  • 孝建2年(455年)11月乙巳、侍中祭酒何偃の議に基づき、臨軒乗輿の法服・華蓋登殿に際し廟斉の礼に依り侍中常侍が夾御することとする(詳議曹郎中徐爰参議)、詔可。
  • 孝建3年(456年)5月壬戌、大駕の属車の数(漢の胡広・蔡邕説では81乗、法駕36乗)につき尚書令建平王宏が『周礼』の上公九乗・侯伯七乗・子男五乗の説を引き、帝王は十二乗とすべきと議論、詔可。
  • 大明元年(457年)9月丁未朔、皇太后の副車数につき博士王燮之が『周礼』『礼記』を引き、王と同じ十二乗とすべきと議論、詔可。
  • 大明4年(460年)正月戊辰、尚書左丞荀万秋が耤田儀注(皇帝の冠服)を上奏、鄭玄注・潘岳「藉田賦」に基づき冕十二旒・朱紘・黒介幘・青紗袍とすべきと改訂、詔可。
  • 大明4年正月己卯、南郊・廟祠の儀注(郊祀では平天冠火龍黼黻の服から通天冠絳紗袍に変更、廟祠でも同様に統一すべき)、および金根車を玉路に改めるべきとの議、詔可。
  • 大明6年(462年)8月壬戌、大駕・法駕・小駕の区別(郊祀・宗廟・拝陵)を再整理し、以後は廟祠を法駕に改める議、詔可。
  • 大明7年(463年)2月甲寅、南豫兖二州巡幸に際し冕服で玉路に乗り二廟を辞し、通天冠に改めて木路に乗り春蒐の典を備える。
  • 明帝泰始4年(468年)5月甲戌、皇太子の車服等級につき尚書令建安王休仁が議論。周制では五等の車服が相い準じ、公は王より一等下るのみとするが、東宮は天子より2等下げ驂に4馬、象輅・降龍碧旂九葉とすべきとの議、詔可。
  • 泰始4年8月甲寅、五路と六服(大冕・法冕・飾冠冕・肅冕・宏冕・通天冠)それぞれの用途を定める詔(大冕玉繅玄衣黄裳で玉輅に乗り郊祀天・宗祀明堂、法冕五綵繅玄衣絳裳で金路に乗り太廟・元正大会諸侯、飾冠冕四綵繅紫衣紅裳で象輅に乗り小会宴饗・臨軒会王公、肅冕三綵繅朱衣裳で革路に乗り征伐講武校猟、宏冕二綵繒青衣裳で木路に乗り耕稼・饗国子、通天冠朱紗袍で聴政)。
  • 泰始6年(470年)正月戊辰、皇太子正朝の衮冕九章衣の可否につき儀曹郎丘仲起・左丞陸澄が議論、仲起の議(衮冕九旒とすべき)が詔可。

皇太妃の輿服

  • 後廃帝即位に伴い、生母陳貴妃を皇太妃と尊するに際し、輿服は晋孝武太妃の故事に倣うが、五牛旗と赤旂のみを省く。