宋書卷十六 志第六 禮三

総説

  • 国家の大事は祭祀と軍事にある。司馬遷の『封禅書』、班固の『郊祀志』、司馬彪の『祭祀志』を承け、沈約はさらに漢末以降の異同を記す。

魏の郊祀

  • 漢献帝延康元年(220年)11月己丑、公卿に高廟に告げさせ、兼御史大夫張音が皇帝の璽綬・策書を奉じて帝位を魏に禅譲。時に魏文帝は王位を継ぎ潁陰にあり、有司が潁陰の繁陽故城に壇を築く。庚午、登壇し魏の相国華歆が跪いて璽紱を受け進上。壇を降りて燎を望んだが、まだ祖先を配祀する儀はなかった。
  • 黄初2年(221年)正月、洛陽で天地・明堂を郊祀(漢の旧制を踏襲)。4年7月、東巡に際し南郊で告祠するのが恒例となる。文帝崩御時、太尉鍾繇が南郊で崩御を告げる。
  • 明帝太和元年(227年)正月丁未、武皇帝を郊祀し天に配し、文皇帝を明堂に宗祀し上帝に配す。太和4年(230年)8月、繁昌で執金吾臧霸が特牛で受禅壇を祠る(何承天は「祀るべき上帝がなく壇に祀るのは典拠不明」と批判)。
  • 景初元年(237年)10月乙卯、洛陽南の委粟山に圓丘を営む。詔により、魏の世系は有虞氏(舜)から出るとして、始祖帝舜を配し圓丘を「皇皇帝天」、方丘を「皇皇后地」(舜妃伊氏を配)、郊祀の天を「皇天之神」(太祖武皇帝を配)、地郊を「皇地之祗」(武宣皇后を配)、明堂で皇考高祖文皇帝を宗祀し上帝に配すと定める。12月壬子冬至、圓丘で皇皇帝天を初めて祀り舜を配する。正始以降は魏の代が終わるまで郊祀は行われなかった。

呉・蜀の郊祀

  • 孫権は武昌で即位、南郊で天を祭る。告天文で漢の衰亡と魏の簒奪を述べ、天命により受禅したと述べる。後に居地が中土でないとして郊祀を廃したが、群臣が再興を奏し、権と群臣の間で「郊祀は中土でのみ行うべきか」の議論が続いた(権は周文王・武王の郊祀の例を引くも、匡衡の説を俗儒の説として斥ける)。虞喜『志林』は権の南郊祭祀を称賛。何承天は「北郊の礼を欠く」と批判。環氏『呉紀』によれば権は末年に父孫堅を「呉始祖」として天に配したとするが、以後の三嗣主は郊祀を行わなかった。
  • 蜀漢章武元年(221年)4月、成都で即位を告げる壇を設け、皇帝劉備が天地・后土神祗に告げる祭文を奏す。章武2年(222年)10月、丞相諸葛亮に成都で南北郊を営ませる詔。

晋の郊祀

  • 魏元帝咸熙2年(265年)12月甲子、持節侍中太保鄭沖・兼太尉司隸校尉李憙が璽綬・策書を奉じ帝位を晋に禅譲。丙寅、晋は南郊に壇場を設け、司馬炎が皇皇后帝に告げる祭文を奏す(唐虞禅譲・魏晋革命の由来を述べる)。
  • 泰始2年(266年)正月、郊祀は魏の旧礼を用いていたが、詔により永制を定める。五帝は実は一神なので、明堂・南郊の五帝の坐を除き、五郊は五精の号を廃して一坐に統一、北郊も先后配祀を除く。2月丁丑、宣皇帝を郊祀し天に配し、文皇帝を明堂で宗祀し上帝に配す。11月、有司の議により圓丘・方澤を南北郊に併合し、二至の祭を二郊に合わせる(王肅の議に従う)。庚寅冬至、南郊の圓丘で親祭。以後、圓丘・方澤は別立されなくなった。
  • 太康10年(289年)10月、詔により『孝経』に基づき后稷を天に配し文王を明堂で上帝に配す説と、明堂の五帝位を除いた議論の当否を再検討。太康3年(282年)正月には帝が親郊し、皇太子・皇弟・皇子が侍祠(前例にない)。
  • 愍帝は長安に都したが郊廟を立てる前に敗れた。元帝は中興し、太興元年(318年)に郊兆を建立(太常賀循が漢晋の旧制に依拠)。3月辛卯、帝親ら郊祀。江左では明堂は立てられなかった。
  • 明帝太寧3年(325年)7月、北郊建立を詔したが未完のまま崩御。成帝咸和8年(333年)正月、覆舟山南に北郊を築き、辛未に北郊を祀り宣穆張皇后を地に配す(魏の故事に依り、晋の旧制ではない)。
  • 康帝建元元年(343年)正月、北郊の月について太常顧和が議論(太始の合祭以来、北郊の月に定説なし、咸和の議に従う)。辛未に南郊、辛巳に北郊、帝が親ら奉じた。
  • 安帝元興3年(404年)3月、宋高祖(劉裕)が桓玄討伐を南郊に告げる(己卯)。翌年の郊祀を三公が摂行すべきか議論があり、尚書左丞王納之が「天子当阳(在位)である以上摂行の根拠なし」と主張し、その議に従う。
  • 晋恭帝元熙2年(420年)5月、宋への禅譲の使者を派遣。宋永初元年(420年)6月丁卯、南郊に壇を設け皇帝璽紱を受け、告類の策文を奏す(晋の衰亡と宋の受命を述べる)。永初元年、皇太子が南北郊に拝告。永初2年(421年)正月上辛、上(武帝)親ら郊祀。文帝元嘉3年(426年)、謝晦西征に際し二郊に幣を告げる。
  • 孝武帝孝建元年(454年)6月癸巳、劉義宣・臧質の反乱平定を巡る告廟の可否を巡り論議(謝晦討伐時の先例との異同)。太学博士徐宏・孫勃・陸澄、国子助教蘇瑋生、尚書郎孫綽らが議論し、最終的に南北二郊・太廟・太社すべてに牲を用いて告げることで一致、詔可。
  • 孝建2年(455年)正月庚寅、南郊親祭の亜献を誰が行うか(太尉か太常か)の礼儀論議。太学博士王祀之・太常丞朱膺之らが議論し、太尉が亜献を行う従来の礼が是とされる。灌(祼)の儀礼の有無についても論議あり、廟祭にはあるが郊祀にはないとされる。
  • 大明2年(458年)正月丙午朔、雨天時の遷日について、博士王燮之らが辛日を用いる原則を論じ、詔で遇雨時は後辛日に遷すことと定める。
  • 明帝泰始2年(466年)11月辛酉、久しく親祭できなかった郊謁を再開する詔(黄門侍郎徐爰の議に基づき11月に高祖武皇帝配饗で親郊)。泰始6年(470年)5月乙亥、郊祭と明堂の頻度を定める詔(間二年一郊・間一年一明堂とする曹郎虞愿の議、後に王延秀が修正議、両者を間二年ずつとする案が採用)。後廃帝元徽2年(474年)10月丁巳、郊祀と明堂を同日・間年で行うことに復す。

北郊・地祇配祀の沿革

  • 漢文帝は渭陽で地祇を祭り高帝を配し、武帝は汾陰に后土社を立て高帝を配した(いずれも后を配していない)。王莽が周礼の先妣の例を引き、北郊で高后を配したのが始まり。光武帝は建武年間に北郊を立てず、地祇は天壇に合祀(一千五百一十四神)。中元元年、北郊を建て司空馮魴が高廟に告げ、薄后から呂后に配を改める。江左では初め北壇を立てず地祗も天郊に合祀。晋成帝が二郊を立て、天郊は六十二神(五帝の佐・日月五星・二十八宿・文昌・北斗など)、地郊は四十四神(五嶽・四望・四海・四瀆・五湖など)とする。
  • 宋武帝永初3年(422年)9月、司空徐羨之・尚書令傅亮らが奏し、高祖武皇帝を天郊に、武敬皇后を地郊(北郊)に配すべきと上奏、詔可。

五郊迎気

  • 漢明帝が『月令』に基づき五郊迎気の礼を洛陽に興す(帝と神の車服を方色に応じる)。魏晋はこれを踏襲したが、江左以来は修されていない。

明堂

  • 孝武帝大明5年(461年)4月庚子、太祖文皇帝を明堂に宗祀し上帝に配する詔。有司は明堂の制度が経典により異説が多いことを議論し(晋の裴頠の説に従い、殿を築き厳祀を崇めるのみとする)、鄭玄の注に依拠して国学の南に営建、十二間として朞数に応じ、五帝位と太祖文皇帝を対饗すると定める。大明6年(462年)正月、南郊の後、世祖親ら明堂で五時の帝を祠り文皇帝を配す(鄭玄の説による)。
  • 大明5年(461年)9月甲子、明堂祭祀に用いる牛の数について、太学博士司馬興之は6頭を、博士虞龢は2頭(主一配一で2牛)を、祠部郎顔奐は2頭を主張し、諸説対立。
  • 明帝泰始7年(471年)10月庚子、明堂祭祀の際に太廟へ告げるべきか祠部郎王延秀が議論し、告げるべきとされる。

封禅の議

  • 魏明帝の時、中護軍蔣済が封禅を勧める上奏(司馬相如・太史公の言を引用し、呉・蜀平定後の大礼を主張)。明帝は詔で「私に功徳が足りない」として辞退、高堂隆に儀を作らせたが隆が没し実施されず。
  • 晋武帝太康元年(280年)9月庚寅、呉平定を受け、尚書令衛瓘・尚書左僕射山濤・魏舒・尚書劉寔・張華らが泰山での封禅を再三上奏(過去に登封した者70余家と述べる)。武帝は「逋寇(未平定の残党)あり、内政も未安」として辞退を繰り返す。太康元年冬、王公有司が再度上奏するも「未だ告成を語れる段階ではない」と却下。
  • 宋の太祖(文帝)は在位が長く封禅の意を持ち、泰山の旧道を視察させ学士山謙之に儀注を起草させたが、索虜(北魏)の南寇により中止。
  • 世祖大明元年(457年)11月戊申、太宰江夏王義恭が上表し、高祖武皇帝・太祖文皇帝の功徳と数々の瑞祥(龍麟・鳳凰・比翼の木・霊芝・珍露・嘉禾・連理木等)を列挙し封禅を勧めるも、詔で「徳が薄い」として辞退。大明4年(460年)4月辛亥、有司が再度上奏するも詔可されず(文軌未一を理由に停止)。

宗廟の制度―魏

  • 漢献帝建安18年(213年)5月、河北十郡を以て魏武帝(曹操)を魏公に封じ、同年7月鄴に宗廟を建立、諸侯の礼として五廟を立てる。王に進爵後も改めず。延康元年(220年)7月、文帝が王位を継ぎ皇祖を太王、丁夫人を太王后と追尊。黄初元年(220年)11月受禅、太王を太皇帝、皇考武王を武皇帝と追尊。明帝太和3年(229年)6月、高祖大長秋を高皇、夫人呉氏を高皇后と追尊、いずれも鄴廟に祠る。当時祠られたのは親廟四室のみ。太和3年11月、洛京廟が完成し、処士(親盡)の主を園邑に移し、高皇以下の神主を洛京の一廟(四室)に迎える。
  • 景初元年(237年)6月、群公有司が七廟の制を改めて定める。武皇帝を魏太祖、文皇帝を魏高祖、明帝を魏烈祖とし、三祖の廟は万世不毁、その他四廟は親盡すれば周の后稷・文武の廟祧の礼に倣い遷す。孫盛『魏氏春秋』は「まだ崩じてもいないうちに祖宗を定めるのは非礼」と批判。
  • 文帝の甄后は賜死されたため廟に列せられず。明帝即位後、有司が「文昭皇后」と追諡し、司空王朗が策を奉じ陵に告げる。三公はさらに周の姜嫄廟の例を引き別廟を立てるべきと奏し、太和元年(227年)2月鄴に廟を立てる。太和4年、洛邑での宗廟営建時に「天子羨思慈親」と刻んだ玉璽が出土。景初元年12月己未、文昭皇后廟を京師に遷し鄴廟を廃す。
  • 魏文帝黄初2年(221年)6月、洛京宗廟が未完のため建始殿で武帝を家人の礼で祠る(何承天はこれを非礼と批判)。漢献帝延康元年7月、文帝が譙に親祠したのは漢礼による。魏武帝は高陵に葬られ祭殿を築いたが、文帝黄初3年(222年)詔により陵上の殿屋を毀し墓祭を廃止、以後陵寝は絶えた。

宗廟の制度―呉・蜀

  • 孫権は七廟を立てず、父孫堅のために長沙臨湘県に堅廟を立てたのみ(後漢の奉南頓の故事に依り太守が祠る)。堅廟は「始祖廟」と称されたが京師にはなかった。建鄴には兄長沙桓王策の廟を朱爵橋南に立てる。権没後、子孫亮が即位翌年正月、宮の東に権廟を「太祖廟」として立てる(京師の南でなく昭穆の序もなし)。孫皓は初め父孫和を「文皇帝」と追尊し烏程の明陵に改葬、後に烏程に「清廟」を建立し盛大な迎神儀礼を行う(有司より祭祀の頻度を諫められる)。
  • 蜀漢章武元年(221年)4月、成都で即位を建号した月に宗廟を立て高祖以下を祫祭。継承した帝が誰を禰とするかは未詳で、祖宗の号もなかった。劉禅は北地王劉諶が昭烈廟で哭したことが記される(別立された廟の証左)。

宗廟の制度―晋

  • 魏元帝咸熙元年(264年)、晋文帝(司馬昭)の爵を進め王とし、舞陽宣文侯を晋宣王、忠武侯を晋景王と追命。同年8月文帝崩御、諡は文王。武帝太始元年(265年)12月丙寅受禅、丁卯、皇祖宣王を宣皇帝、伯考景王を景皇帝、考文王を文皇帝と追尊、宣王妃張氏を宣穆皇后、景王夫人羊氏を景皇后とする。
  • 泰始2年(266年)正月、七廟営建の議に対し武帝は費用を惜しみ一廟のみを立てることを詔(虞の舜が唐堯の廟を踏襲した故事に倣う)。魏の旧廟を流用し、征西将軍豫章府君・潁川府君・京兆府君と宣・景・文の三帝を三昭三穆とし、宣帝がまだ太祖の位を占めないため六世を祠り景帝を合わせ七廟とする(王肅の説による)。7月、詔により魏の旧廟から改めて新造。11月、景帝夫人夏后氏を景懐皇后と追尊。
  • 太康元年(280年)、霊寿公主が太廟に祔祀(周漢に前例なし、魏の明帝は別廟を立てたが晋は異なる)。太康10年(289年)、宣陽門内に廟を改築(坎位の制は旧のまま)。廟成後、征西以下の神主を新廟に遷す(摯虞の議)。世祖(武帝)崩御で征西を遷し、恵帝崩御でさらに豫章を遷す。
  • 恵帝の世、愍懐太子・その子の哀太孫(臧・沖・尚)が祔廟。元帝の世、懐帝・殤太子も祔廟し「陰室」と呼ばれる(四殤)。懐帝の初め、武帝の楊后を「武悼皇后」と策諡し弘訓宮を別立、廟には列さず。元帝は武帝を継いで禰としたが(漢光武の故事に倣う)、西京の神主は戦乱で失われ、江左で新造。潁川の位を継いだため実質五世(名目は七室)となる(刁協の議による兄弟同世数の考え方)。太興3年(320年)、愍帝を登祔する際に豫章・潁川二主を昭穆の位に復す(恵帝の故事に倣う)。恵・懐・愍の三帝は春秋の尊尊の義により廟に留める。元帝崩御で豫章が再び遷り、元帝の神位は愍帝の下に置かれ坎室は十となる。明帝崩御で潁川も遷り十室のまま。太廟を拡張し三遷主を西儲に還し「祧」と名づける。
  • 成帝咸和3年(328年)蘇峻の乱で温嶠らが白石に行廟を立て元帝先后に討賊を告げる祭文を奏す。咸康7年(341年)5月、武悼皇后の神主を初めて廟に祔祀し世祖に配饗。成帝崩御で康帝が兄弟継承のため京兆は遷らず十一室のまま。康帝崩御で京兆が遷り西儲へ(前の三祖遷主と同礼)。穆帝崩御、哀帝・海西公は兄弟のため昇降なし。咸安の初め、簡文帝が元帝を継ぐ形で世代が進み、潁川・京兆の二主が昭穆の位に復す。簡文帝崩御で潁川が再び遷る。
  • 孝武帝太元16年(391年)、太廟正殿を改築(正室十六間、東西儲各一間、計十八間、棟高八丈四尺、堂基長三十九丈一尺、広十丈一尺)。神主を行廟から遷し、征西〜京兆の四主・太子・太孫らはそれぞれの儀服(帝者の儀に従わず)で入廟。太元19年(394年)2月、簡文帝の母会稽太妃鄭氏を「簡文皇帝宣太后」と追尊し太廟道西に廟を立てる。孝武帝崩御で京兆が再び遷る(穆帝の世の故事に倣う)。安帝隆安4年(400年)、孝武帝の母簡文李太后・帝母宣徳陳太后を宣鄭太后廟に祔祀。
  • 元興3年(404年)3月、尋陽にあった宗廟神主を太廟の新主に権りに告げ、4月輔国将軍何無忌が神主を奉送、丙子百官が石頭で拝迎、戊寅入廟。安帝は禘祭を行わぬまま崩御。

宗廟の制度―宋

  • 宋武帝は晋の宋王受命時、彭城に宗廟を建立(魏晋の故事に依り一廟)。高祖開封府君・曾祖武原府君・皇祖東安府君・皇考処士府君・武敬臧后を祠る(諸侯五廟の礼)。即位後、七世右北平府君・六世相国掾府君を増祠し七廟とする。永初初め、皇考処士を孝穆皇帝、皇妣趙氏を穆皇后と追尊。永初3年(422年)、孝懿蕭皇后が崩じ祔廟。高祖崩御時、神主は昭穆の序に従い廟に昇る(魏晋の制に倣い太祖の位は虚とする)。文帝元嘉初、生母の胡媫妤を章皇太后と追尊し別廟を立てる(西晋の宣太后・孝武の昭太后・明帝の宣太后も章太后廟に祔祀)。

殷祭(合祀)の時期をめぐる議論

  • 晋元帝大興3年(320年)正月乙卯、太廟親祭の可否について太常華恒が議論。温嶠は「兄弟は互いに廟に入らず」の原則を論じ、王導もこれに従う。
  • 穆帝永和2年(346年)7月、京兆府君の祧室遷移を巡る大論争。太常蔡謨、護軍将軍馮懐、譙王司馬無忌、尚書郎孫綽、徐禅、会稽の処士虞喜、会稽王司馬昱、尚書劉劭、陳留范宣らが四府君の主の扱い(別室建立・石室永蔵・壇墠祭祀など)を巡り多様な議論を展開、最終的に四祖を西祧に同居させ石室に主を蔵し禘祫時のみ祭ることに決す。
  • 安帝義熙9年(413年)4月、殷祭に際する遷毀の礼を巡り再論議。大司馬琅邪王司馬徳文、大司農徐広、太尉咨議参軍袁豹、祠部郎臧燾らが議論し、范宣の説(別室を築き永蔵し祀らず)に従うべきとされる。

郊祀・明堂の再論(晋孝武帝期)

  • 晋孝武帝太元12年(387年)5月壬戌、太廟が簡素なまま・太祖の位が虚位のまま・明堂未建であることを憂う詔。祠部郎徐邈が郊祀・明堂の配祀(武皇帝を六世の廟に、京兆府君を復位すべきか等)を詳論、侍中車胤・中書令王珉・太常孔汪・吏部郎王忱・驃騎将軍会稽王司馬道子・尚書令謝石らがそれぞれ意見を述べたが、最終的に「皇居が旧都に復してから改めて修める」として一切改めなかった。

晋安帝期の殷祭時期論議

  • 安帝義熙2年(406年)6月、白衣領尚書左僕射孔安国が元興3年の殷祭遅延問題を啓奏。太常博士徐乾、御史中丞范泰、太常劉瑾らが殷祭の月(孟秋・孟冬)や喪中の祭祀の是非を論じ、最終的に范泰・劉瑾は職を免ぜられ徐乾も免官。義熙3年(407年)の殷祭の時期についても領司徒王謐・丹陽尹孟昶、中領軍謝混・太常劉瑾、太学博士徐乾、員外散騎侍郎徐広、左丞劉潤之らが多数の議論を展開し、最終的に王謐の議(義熙3年10月を始めとする)が採用された。

宋孝武帝期の殷祭時期論議

  • 孝武帝孝建元年(454年)12月戊子、有司が殷祭の月について奏し、領曹郎范泰・国子助教蘇瑋生・太学博士徐宏・太常丞朱膺之らが喪中の祭祀可否(三年喪と禫の関係)を論じ、来年10月の殷祠を允とする議に詔可。
  • 大明7年(463年)2月辛亥、殷祭の月(4月か孟秋か)について領軍長史周景遠が『礼記』の祫嘗祫烝の説と晋の先例を引き、孟秋を允とする議に詔可。

廃楽の慣例

  • 晋武帝咸寧5年(279年)11月己酉、弘訓羊太后崩御により宗廟の祭祀・天地明堂の楽が一時廃される。升平5年(361年)10月己卯、穆帝崩御の後の殷祠でも楽を作らず。永嘉中、散騎常侍江統が「吉祭に廃楽の礼あり」と議論し先例となる。太常江逌も穆帝山陵後の殷祭で撤楽を主張。

史論

史臣曰く、音楽を聞いて心楽しまぬのは服喪中の慣わしであり、諒闇(天子の喪)で政事の荒廃を慮り権を通じて変を設けるのは已むを得ない。奏楽の有無は政務そのものには損益がないものの、恩情に従って親を悼むのは理にかなう。宋の世、国に事故あれば廟祠は楽器を懸けるのみで奏楽しなかった。