宋書卷十五 志第五 禮二
巡狩の礼
古の天子巡狩の礼は方策に伝わるが、秦漢の巡幸は望気や神仙を求める煩擾の役が多く旧典に非ざるものが多かった。後漢の諸帝には古礼に近いものがあった。魏文帝は三国分立の初期で頻繁に移動したが、これも旧章に合わない。明帝は三度東巡し、高齢者を訪ね疾苦を恤み穀帛を賜うなど古の巡幸の風があった。斉王正始元年、洛陽を巡り高齢者・力田者に賜与した。晉武帝太始四年、刺史・二千石に詔して使者を四方に遣わし民情を訪ねさせた(周礼にいう「万人利害の書」等五種の報告を求めた)。摯虞の新礼議では「魏氏には巡狩の故事がなかった」とし、新礼では巡狩の際に柴望・告至・壝宮設営等の礼を定めたが、覲礼で諸侯が旗を建てないのは礼に合わないとし、旗を建てるべきと論じた。しかし晉代を通じて巡狩の礼は行われなかった。
宋武帝永初元年、大使を四方に分遣して善人を挙げ賢を旌し疾苦を問うた。元嘉四年二月、太祖は東巡し丹徒に至り、園陵に謁し、丹徒の父老に饗宴を賜い、丹徒県の租布の半分を免じ、五歳刑以下の囚人を放免し、戦没者遺族を隠恤した。元嘉二十六年二月にも東巡し、京城・二陵に謁し、旧京の故老1万余人と往還を饗し、赦令を発し徭役を免じた。この間、皇太子が監国し、有司が儀注を奏した。
監国時の文書儀(関・牋・符・令書等)
皇太子監国時の公文書の書式が細かく定められている。「某曹関」から始まる牋の様式、尚書僕射・左右丞の署名、太常の符の様式、司徒長史の啓辞に基づく令書の様式など、内外の関牋の事はすべてこの一式の書式に準ずるとされる(宮臣に関わる場合は臣礼に依る)。刺史・二千石を拝する際の誡勅文の様式もあわせて記される。
五時令を読む儀
太史は毎年、立春・立夏・大暑・立秋・立冬に先立ち五時令を上奏し、皇帝は五時の色に応じた服を着る。晉成帝咸和五年、秋令を読む儀について、光禄大夫華恒の議に基づき、武帝が盛暑には秋夏の令を読まないことがあった先例に倣い「暑さの厳しいときは闕いて読まない」とされた。咸和六年には夏令を読むことが決められた。宋文帝元嘉六年、駙馬都尉徐道娯は「立秋の御読令で著る幘の色(緗幘か素か)」について上表し、大学博士荀万秋は「幘は古の冠冕の服でなく議論の根拠が薄い」としつつ「大宋受命以来の慣例に従うべき」と議した。土用(季夏の黄)の読令の有無についても魏台雑訪に古来の疑問が記されている。
上巳の禊(曲水の宴)
俗説では後漢の郭虞という者の3人の娘が3月上辰・上巳に相次いで亡くなったのを忌み、この日に東流水で禊を行うようになったとされるが、史臣は『周礼』女巫の祓除の記事や韓詩の鄭国の風俗(渓水のほとりでの招魂続魄)を引き、この風習は郭虞に始まるものではなく古くからあるとする。魏明帝の天淵池、晉の海西公の鍾山でも流杯曲水の宴が行われ、以後の慣例となった。三月上巳(後に三日に固定)に行われ、七月十四日に行う説(漢書・劉禎「魯都賦」)もあったが、魏以後は三日のみを用いる。
三年の喪の制の沿革
漢文帝は臨終の詔で三年喪を廃し、喪服の期間を大紅15日・小紅14日・纖7日として釈服するよう命じた(それまで天下は久しく喪を厚くしていた)。史臣は『尸子』の禹の喪法(葬は3寸の桐棺・喪は3日)を引き、聖人も急を要するときは権制を設けるものだと論じつつ、漢文帝の薄葬は太平な時代に礼を廃した点で是としない。宣帝地節四年、父母の喪に服する者の徭役を免除する詔が出された。成帝の代、丞相翟方進は母の喪を36日で除いたが、原渉・河間恵王は三年の喪を行い名声を得た。薛脩と兄の薛宣の間でも喪の行い方をめぐり意見が分かれた。王莽は自ら忠孝を誇示するため六百石以上に三年喪を強制したが、母の喪は簡略にするなど言行が矛盾し天下に憎まれた。漢安帝の初め、官吏の避事棄官を防ぐため父母の喪以外は離職を認めない令が出され、後に刺史・二千石にも告寧(喪による帰郷)を認めるかどうかで桓帝の代まで度々制度が変転した。
後漢では諸帝崩御の際、五岳四瀆に禱祠する慣行があった。魏武帝の遺令では「天下未だ安定せず古に遵えない、殿中に臨む者は十五挙音で葬儀ののち服を除け、兵を屯戍する者は部を離れるな」とされ、正月庚子崩御・辛丑即殯・丁卯葬という不踰月(一月をまたがない)の急な喪儀が行われた。諸葛亮の喪でも群臣は3日で除服し、郡国の太守以下は3日で除服するなど、魏蜀で喪制が異なった。孫権は喪に服する者に交代を待たせる制を定めたが違反者が多く、嘉禾六年、胡綜の議により大辟の科(重罰)が定められた。
晉宣帝の崩御では文帝・景帝は権制に従ったが、文帝崩御では国内3日の服喪、武帝は漢魏の典に倣い葬後除喪としつつ深衣素冠・撤膳等をなお続けたため、太宰司馬孚ら諸臣が「陛下の孝心は篤いが政務のため服喪を緩めるべき」と繰り返し奏上し、武帝も繰り返しこれに応じつつも深い哀惜の詔を発する応酬が続いた。結局、武帝は三年の喪を実質的に貫き、太后の喪も同様にした。泰始二年、四年にも同様の応酬が繰り返され、羊祜と傅玄の間でも三年喪の存廃をめぐり議論があった(傅玄は「上が除服せず臣下も除服すれば君臣の別がなくなる」と論じ、習鑿歯はこれを批判した)。
皇太子・太子妃等の服喪
太子の喪は原則として国事のため権制で短縮されるが(漢文帝の権制、魏の既虞除服等)、晉恵帝の愍懐太子薨去では帝は長子の礼で三年服、羣臣は斉衰期とした。晉孝武帝・宋武帝の崩御では、それぞれ李太后・蕭太后が三年の喪に服した。晉恵帝太安元年の皇太孫薨去では、殤(未成年者の喪)に当たるか否かで散騎常侍謝衡・中書令卞粋・博士蔡克・秘書監摯虞らが議論し、結局天子は服殤の儀を持たないとして御史以上は斉衰の喪に服した。
宋文帝元嘉十七年、元皇后崩御に際し皇太子は心喪三年に服した(心喪に禫の儀を行うかは礼に明文なく議論の末、心喪已に十三月で大祥、十五月で禫を変除し永制とした)。孝武帝孝建三年、義陽王師王偃の喪における至尊の服緦・公除の期日、皇后の心喪の礼制についても太学博士王膺之・太常丞朱膺之・国子助教蘇瑋生・尚書令建平王宏らが繰り返し議論し、詔可された。大明二年、皇后の心喪の再禫の有無についても議論があり、元嘉十九年の武康公主の先例に基づき決せられた。
所生母(皇子妾母等)の服喪をめぐる議論
晉孝武帝太元十五年、太子の生母淑媛陳氏の喪に対し、太子前衛率徐邈は「尊者と一体である太子は私親に服さない」として無服とすべきと論じ、これに従った。宋孝武帝大明五年、皇太子妃薨去では、棺は「樟宮」と称し龍輴で運び、龍山に陵を造り、御服は大功九月とするなど詳細な服喪規定が定められた。皇后・皇太后それぞれの服喪期間(大功九月・小功五月)や、その間の作楽・鼓吹の可否をめぐり博士司馬興之・右丞徐爰が議論した。
元嘉二十三年、海塩公主の生母蒋美人の喪をめぐり、白衣領御史中丞何承天は「先に離婚した海塩公主も本来なら成服すべき」と奏し、太学博士顧雅・周野王ら5名と何承天との間で長期の応酬があった。何承天は「宋以来、皇子蕃王は厭降せず士礼を用いており、公主のみ生母への服を軽んじるのは理に合わない」と論じ、最終的に博士側の誤りとされ、顧雅・周野王ら関係博士は免官・禁固等の処分を受けた(詔により太常敬叔のみ白衣で職に留まる)。この結果、皇子はみな母の喪に服することとなった。元嘉二十九年、南平王劉鑠の生母呉淑儀の喪でも同様の議論を経て皇子の服喪が認められた。
孝建元年、早世した第十六皇弟劉休倩(追贈東平沖王)の喪服の制について、太学博士陸澄は「追贈により成人の礼を得た以上、殤の服を用いるべきでない」と論じ、左丞羊希もこれを支持し、詔可された。同年、湘東国太妃の忌日が閏六月にあたる場合の周忌の月をどう定めるかについて、博士丘邁之・左僕射建平王宏・博士傅休・太常丞庾蔚之らが議論し、「閏月に没した場合は翌年の閏の後の月をもって祥忌とする」との庾蔚之の説が最終的に採用された。大明五年、永陽県開国侯劉叔子(4歳で早世)の傍親の服制についても、博士虞龢・司馬興之・左丞荀万秋らが東平沖王の先例と比較して議論し、「本人は封爵に基づき成人の服、傍親は殤の礼」と決した。
後廃帝元徽二年、第七皇弟劉訓の養母鄭修容の喪について、太学博士周山文は「庶母で自分を慈しんだ者への服は小功五月」との鄭玄注を引いて小功の制を主張し、これが採用された。
舊君への服喪
魏の武帝は正月に崩じ、文帝はその年七月に伎楽百戯を設けており、魏は喪により楽を廃さなかった。晉武帝以降は大喪の間、正会(元会)の楽を廃するのが通例となった。晉太安元年の太子の喪、穆帝永和年間の山陵未修時、褚太后臨朝下の褚裒(太后の父)薨去でも元会の楽が廃された。宋孝武帝太元六年(実際は大明期の誤記か、原文のまま)、王皇后の喪でも楽を廃した。宋の大喪は概ね楽を廃する慣行にあった。
葬礼・陵墓
漢献帝建安末、魏武帝は終令を発し、痩せた土地を選び壽陵を築き封土や植樹をせず、金銀珠玉銅鉄の副葬を禁じた。文帝はこれを遵守し、璽を追加する際も陵を開かず石室を作って璽を埋めた。文帝黄初三年の終制でも、壽陵は山に因り封土・植樹・寝殿・園邑・神道を設けず、皇后・貴人以下の埋葬地も定めた。明帝もこれを奉じたが、性は奢侈を好んだため陵墓の造営には至らなかった。晉宣帝も首陽山に土蔵を造り不墳不樹とし、文帝・景帝もこれに倣った。武帝泰始四年、文明王皇后の合葬に際しても倹約が保たれた。
泰始二年の詔では「舜は蒼梧に葬られ農地を変えず、禹は会稽に葬られ市を変えなかった」との故事を引き、祖考の清簡の旨に従い陵の移転を止めた。東晉元帝・明帝も倹約を旨とした。成帝咸康七年、杜皇后の崩御に際し、凶門柏歴(葬送の門飾り)を廃する詔が出された(蔡謨・范堅がその由来を考証している)。孝武帝太元四年、王皇后崩御でも簡素な葬儀とし、挽郎(葬送の役)の選定も停止された。宋文帝元嘉十七年、元皇后の喪でも挽郎の選定を停止した。
漢儀では毎年上陵の礼を行ったが、魏では定まった礼がなく、斉王在位九年で一度高平陵に謁したのみで曹爽誅殺後は廃絶した。晉宣帝の遺詔により子弟羣官は謁陵を禁じられたが、武帝は崇陽陵・峻平陵に謁した。東晉元帝崩御後、諸公が謁陵・辞陵を行うようになったが、成帝の代、中宮の年ごとの拝陵は非礼とされ停止された。穆帝の代、褚太后臨朝のため再開されたが、安帝元興元年、尚書左僕射桓謙は「百僚の拝陵は東晉の中興以来の慣習に過ぎず武帝の詔の趣旨に反する」と奏し、一時廃止されたが義熙初にまた復した。宋明帝は初拝の謁陵を断ったが辞陵は旧のとおりとし、元嘉以来毎年正月に初寧陵に謁するのが漢儀の再興とされた。世祖・太宗も毎年初寧陵・長寧陵に拝した。
碑禁(石獣・碑銘の禁止)
漢以降、葬送に石室・石獣・碑銘を多く用いる風があったが、建安十年、魏武帝は天下の疲弊を理由に厚葬・立碑を禁じた。魏高貴郷公甘露二年、大将軍参軍王倫の卒去に際し、兄王俊は「表徳論」を著したが碑を立てず墓陰に刻するにとどめた。晉武帝咸寧四年にも石獣碑の禁令が出され、違反すれば赦令があっても破壊するとされたが、大興元年、故驃騎府主簿の恩に報いる意で顧栄の立碑が特別に許され、以後禁令は次第に緩んだ。義熙年間、尚書祠部郎中裴松之が再び禁断を議し、以後今日まで続く。
禅譲の儀
順帝昇明三年四月、帝は臨軒し使者を遣わして璽綬を斉王(蕭道成)に奉じ禅位した。楽を懸けても奏さなかった(喪に準じた措置)。
貴妃・太妃の礼秩
宋明帝泰始二年、皇太子生母の陳貴妃への内外の礼敬について、博士王慶緒・尚書令建安王休仁らが議論し、貴妃は皇太子と同格に扱うが妃主が牋表を外に発することはしないとされた。泰豫元年、後廃帝が即位し陳貴妃を皇太妃に進めた際、国親の挙哀の格式(皇太后に准ずるか否か)、本親期以下の服の可否について、前曹郎王燮之・兼太常丞司馬燮之が議論し、皇太妃には本親への服は認めないが挙哀の礼は太后に准ずるとされた。
孝建三年、雲杜国の国子檀和之の生母(王氏)への「太夫人」号の授与について、太学博士孫豁之・太常丞庾蔚之・祠部郎中朱膺之が議論し、朝恩による特賜であって制度上の権利ではないとされた。
世子継嗣の議論
大明二年、侯伯子男の世子が嗣子なく卒した場合、次子を世子に進めることの可否について、博士孫武・傅郁・諸葛雅之が晉の濟北侯荀朂の先例(長子連の死後、次子輯を世子とした)を引いて議論し、これを永制とすることが認められた。大明十二年、興平国子袁愍孫の母王氏への太夫人号についても同様の議論を経て許可された。大明四年、陳留国王曹虔の跡継ぎ問題(早世した兄の子を立てるか、自分の次子を立てるか)についても、太学博士王温之・江長・太常陸澄・右丞徐爰の間で議論があり、右丞徐爰の議(本来の長息である銑を世子とすべき)が採用された。
分道の礼(御史中丞の専道)
宋文帝元嘉十三年、御史中丞劉式之は「巡行の際、誰と道を分けるべきか旧科がない」と議し、皇太子は衆官と同列にすべきでないこと、中丞は分道すべきこと、揚州刺史・丹陽尹・建康令は京畿の主として分道すべきことなどが定められた。
蔵氷の礼
孝武帝大明六年五月、詔により凌室(氷室)を立て氷を蔵する制が定められた。季冬に氷が張れば凌室長が山虞・輿隸を率いて深山窮谷の氷を採り、密閉して蔵する。まず黒牡秬黍で司寒を祭り、仲春の春分には黒羔秬黍で司寒を祭って氷室を開き、まず寝廟に薦め、夏には鑑(氷を入れる器)を用いて温気や蠅蚋を防ぎ、殿・太官の膳羞に供する。春分から立秋にかけて臣妾の喪あれば祕器を贈り、立夏から立秋は数を限らず喪事に氷を供する。
三公黄閤の由来
三公の府の黄閤(黄色の門)については、士の韠(ひざかけ)が天子と同じ色を用いても嫌われないのと同様、朱門は当陽の正色であるが、三公は天子に亜ぐ地位のため黄閤とし、天子への遠慮を示すとされる(漢代からの制と考証される)。史臣は、朝士が三公・尚書丞郎を訪う際の敬礼の作法(門外での下車、閤に至って屐を脱ぐ等)についても、後漢の陳蕃・范滂の故事(范滂が板を持ったまま去り、郭泰が陳蕃を責めた話)を引き、敬礼の来歴が久しいことを述べている。