宋書卷十四 志第四 禮一
序
国家の礼儀は時代ごとに損益があり、時宜に応じて変わる。漢文帝は喪を薄くし三年の喪を廃し、光武帝は倹約により七廟を共堂とし、魏の武帝(曹操)は奢侈を戒めて葬送の簡素化を進め、晉の武帝は丘(天)と郊の祭祀を統合するなど、いずれも時代の変化に応じたものである。司馬彪『続漢書』礼儀志以来、魏の王粲・衛覬、蜀の孟光・許慈、晉の荀顗・鄭沖、東晉の荀崧・刁協らが歴代の礼制を定めてきた。本志は魏以後の礼制の詔勅・議論を抄録する。
正朔・服色をめぐる議論(魏)
魏文帝は漢から禅譲を受けたが夏の暦を得るのがよいとし、黄初元年に詔して「殷正・夏正いずれを用いるか」を議論させ、正朔・器械・徽号は土徳に従い改めるが郊祀・宗廟の服は漢制のままとした。尚書令の桓階らは「地正(殷正)に改めるべき」と奏したが、文帝は「服色は改めるが臘日は丑のままとする」とした。明帝も即位当初から正朔改定の意向を持ち、太尉司馬懿・尚書僕射衛臻・尚書薛悌・中書監劉放ら8名は改定に賛成、侍中繆襲・散騎常侍王肅ら4名は反対した。青龍五年、山茌県に黄龍が現れたのを機に、明帝は詔して景初元年に改元し、建丑の月を正月とし、服色は黄、犠牲は白とする改暦を実施した。この際、周は正色の旗を用い、殷礼を採ってその時々に旗を建てる、と説明されている。明帝はさらに詔して、正朔ごとに用いる牲の色(建寅は玄、建丑は白、建子は騂)を定めた。景初三年正月、明帝が崩じ斉王が即位すると、尚書の盧毓は「先帝は正月に崩じられたので朝賀に盛楽を用いるのは礼に合わない」と奏し、博士や太尉属らの間で朝賀の日程について議論が交わされ、詔により正月は避け元のとおり夏正に戻した。
晉の武帝太始二年、羣公は「唐虞から漢まで各王朝は正朔・服色を改めてきたが、孔子は『夏の時を行う』を後代の範とした」とし、魏の後を継ぐ晉は虞の故事に倣い前代の正朔・服色をそのまま用いるのがよいと奏し、許可された(孫盛はこれを非としたが)。
年号の制
魏明帝の初め、司空王朗は「古には年数のみで年号はなかった」と論じたが、明帝は聞き入れず、先帝の延康・自身の黄初の例に倣い改元して「大和」とした。
冠礼
『春秋左氏伝』の晉侯襄公の故事や『儀礼』等に基づき、人君の冠礼は12歳から15歳の間に行うとされる。魏の天子の冠礼は一加のみとし、士礼の三加とは異なるとされたが、議論では「十二歳で徳が完成したとするのは理に合わない」との批判もあった(孫毓)。魏の太子は再加、皇子・王公の世子は三加とされた。晉の恵帝・穆帝・孝武帝の冠儀の詳細(一加の幘冕、太尉の祝文、侍中の繋紞等)が記される。宋では皇太子・蕃王も一加とし、元嘉十一年には営道侯の冠礼が行われた。
昏礼(婚礼)
魏斉王正始四年の甄皇后立后の儀は伝わらない。晉武帝咸寧二年、太尉賈充を遣わして楊后(悼后)を策立し、大赦・賜与を行った。太康八年、有司は納徴の礼(玄纁束帛・珪馬二駟等)を奏し、公主の嫁の礼も定めた。成帝咸康二年、太保諸葛恢・太尉孔愉を遣わして杜皇后を六礼をもって迎えた。康帝建元元年の褚皇后納后では旄頭の儀仗をめぐり議論があった。穆帝升平元年、何皇后の納后にあたり太常王彪之が公羊伝等の経籍を引いて詳しく礼を定め、納采・問名・納吉・納徴・請期・迎の各版文(詔書の定型文)を整えた。これらの版文には、皇帝の使者が主人(新婦の家)に礼を告げ、主人が謙譲の辞をもって答える定型の応答が記されている。孝武帝の王皇后納后もこれに倣った。婚礼の贄には白雁・白羊・酒米各12斛を用い、納徴のみ羊1頭・玄纁帛3匹・絳2匹・絹200匹・虎皮2枚・銭200万・玉璧1枚・馬6頭・酒米各12斛とした(鄭玄のいう「五雁六礼」)。
元嘉十五年、皇太子妃の納妃も六礼を皇后の礼と同様に行った。泰始五年、明帝は皇太子の納徴の礼物(珪璋・豹皮・熊羆皮)の数について議論させ、太学博士裴昭明・孫詵・虞龢らの議論を経て、珪璋各一・豹熊羆皮各二とすることに決した。
妃嬪の聘・公主の婚
晉武帝太始十年、三夫人九嬪の聘には穀珪を用い妾媵の礼贄はないとされた。漢魏の故事では公主は自邸に居り、婿となる者が来て婚を成したが、王朗はこれを不可とし、後に改められた。
大使を遣わして皇后を拝す等の儀
皇后を拝し、三公及び皇太子の冠、蕃王の拝には帝みずから臨軒する。金石の楽を四廂に設け、侍中・虎賁・旄頭らが儀仗を整え、大鴻臚が九賓を陳べ、皇帝が衮冕の服で太極殿に登り、謁者が拝を賛じ、儀式を終える定型の次第が細かく定められている。
歳旦の禳礼
旧時、歳旦には葦茭・桃梗を設け鶏を磔にして悪気を祓う風があった。漢儀では仲夏に行ったが、明帝の大修禳礼以降、磔鶏は魏に起こり、桃卯は漢に由来するとされる。宋では概ね廃されたが郡県ではなお行われた。
元会(正月朝賀)の礼
上代の聘享の礼は伝わりにくいが、叔孫通が漢の元会儀を制定した。魏国初建の頃は簡略で、黄初三年に初めて璧をもって朝賀した。何承天は「魏の元会儀は伝わらない」というが、何禎「許都賦」・王沈「正会賦」等の賦から、大饗が城外で行われたことがうかがえる(一方、王朗の奏には宮殿内での灯燭の記述もあり、必ずしも城外とは限らない)。晉武帝の代に定めた咸寧注の元会儀は、守宮による前日の設営、四廂の楽、皇后の拝賀、羣臣の位次、蕃王の白璧奉呈、公卿以下の璧・皮帛・羔雁・雉の奉呈、上寿の儀、御膳・登歌・食舉の楽、儛・雑伎の披露、諸郡計吏への戒めなど、極めて詳細な次第が定められている。江左(東晉)以降は事情に応じて位次を改めたが大筋は変わらず、宋も概ねこの旧儀を継承した。元嘉十一年、皇太子の会での位次は三恪の上とされた。
魏の蕃王は原則朝覲を許されなかったが、晉太始年間に四方の諸侯が三年に一度交代で朝見する制度が定められた(江左以降、蕃王が国に赴かなくなり自然に廃れた)。
正旦の元会では白虎樽を庭に設け、直言を献ずる者があればこれを開いて酒を飲ませる故事がある(『礼記』の杜蕢の故事に由来し、「杜挙」と呼ばれる)。
冬至の受賀(小会)は漢の饗会に始まり、魏晉では百寮の祝賀を受けたが、宋の永初元年、詔により冬に使者を遣わす慣行は停止され、元正の大慶のみを残した。
郊祀(南郊・北郊)
孫権は武昌・建業に都しても長らく郊兆を立てず、太元元年に至り南郊を秣陵県南に築いた。晉室の南遷後は南郊を巳の方位に立てたが、これは陽位の礼にかなわないとされた。宋の大明三年、尚書右丞徐爰は郊祀の位置について議論し、南郊を秣陵の牛頭山西(宮の午の方位)に移した。世祖崩御後、前廃帝即位時に旧地へ戻された。北郊は晉の成帝の代に覆舟山南に立てられ、宋太祖はその地を楽游苑としたため山の西北に移し、以後も低湿等の理由で白石村東・鍾山北などへ移転を繰り返した。
郊祀の儀(皇帝の斎戒・夕牲・饌・献酒など)
郊祀に先立ち皇帝は散斎七日・致斎三日を行う。夕牲の日には犠牲の毛血を陶豆に盛り、皇天・太祖の神座に供える。郊の日、饌には繭栗の犢2頭・羣神には牛1頭を用い、醴には秬鬯、藉には白茅、玄酒器は匏、酒樽は瓦樽、璧は蒼玉を用いる。皇帝は龍衮平天冠で金根車に乗り壇に至り、灌地・再拝の礼を行い、皇天・太祖の神座に爵を奠じ、福酒を飲む。太常が亜献、光禄が終献を行い、最後に燎(供物を焼く儀)を行って終わる。天子に故障あるときは三公が代行し、太尉が初献、太常が亜献、光禄勲が終献を務める。北郊の儀は南郊とほぼ同じだが、供物を土中に埋める「霾」の儀を行う点が異なる。魏以降、天子自ら郊祀に臨むことは稀になった。
朝日夕月の礼
魏文帝は「漢は日を東郊で拝さず殿下で拝していたのは天を敬う礼にかなわない」として、黄初二年に東門外で朝日の礼を行った。明帝太和元年には春分に東郊で朝日、秋分に西郊で夕月を行い、古礼に合致した。晉武帝太康二年、車駕による朝日の儀は寒温の都合により省かれることが多くなり、以後廃れた。
宗廟の祭祀(殷祠)
皇帝は散斎七日・致斎三日ののち、平冕龍袞の服で廟に入り、初献の奠爵・祝文奏読ののち、太尉が亜献、光禄勲が終献を行う。禘祫の大祭では神主をすべて廟堂に出して昭穆に安置する。晉武帝太始七年、夕牲の際に拝礼を欠く旧儀を改め、自ら拝することを制とした。
社稷
大社帝太稷の祭は毎年二月・八月の社日に行い、司空・太常・大司農が三献を務める。周礼では王が親祭したが、漢以降は有司が代行する。
日食の礼
日食の際には天子は素服して正殿を避け、鼓を打って陽を助ける儀がある。魯の叔孫昭子の故事(日食に社で鼓を伐つ)が引かれる。漢末、正旦の日食予告をめぐり、劉邵が「聖人の垂制は変異のために朝礼を廃さない」と論じて朝会を通常どおり行い日食が起こらなかった故事が伝わるが、東晉の蔡謨はこれを「礼記の趣旨を誤読したもの」と批判し、王彪之も咸寧・建元の故事に基づき却会(朝会中止)の説を支持した。以後、この議論は永和年間の殷浩の代にも再燃したが、結局王彪之の説が踏襲された。
耕籍(親耕)の礼
漢文帝以来、歴代の帝が藉田を耕す礼を行った。晉武帝太始四年、有司の奏に応じ「千畝の制」を復興する詔が出された。しかし実際には久しく廃れ、元嘉二十年、太祖は何承天に儀注を撰定させ、詔して「民は国の本、食は民の天」と述べ、親耕の礼を再興した。皇帝は蒼駟青旂の服で耕根車に乗り、藉田で三推三反の耕作を行い、王公以下は身分に応じ五推五反・七推七反・九推九反を行う。宋では太祖の東耕ののち、州郡県にも礼が及ぼされた。
先蚕(皇后の親蚕)の礼
周礼では王后が北郊で蚕をする。魏は北郊、晉は西郊を用いた。魏文帝黄初七年、中宮に北郊での養蚕を命じた。晉武帝太康六年、華嶠の上奏により先蚕の礼が再興され、侍中袁粲が儀を定めた。皇后は十二笄・青衣で油蓋雲母安車に乗り、公主・三夫人・九嬪以下も従い、西郊の壇で桑を採る(皇后3条、諸妃・公主5条、県郷君以下9条)。宋孝武帝大明四年にもこの礼が修された。
学校(太学・国子学)の沿革
漢献帝建安二十二年、魏国は鄴城南に泮宮を作り、魏文帝黄初五年に洛陽に太学を立てた。斉王正始年間、劉馥は「太学は名ばかりで実がない」と上疏したが改まらなかった。晉武帝太始八年、太学生7千余人のうち才能ある者のみを残し、大臣子弟の入学を促した。咸寧二年、国子学を起こした。孫休(呉)永安元年にも学校興隆の詔が出された。東晉建武初、驃騎将軍王導は「人倫を正すには庠序(学校)を設けるべき」と上疏し、その後散騎常侍戴邈も長文の上表で学問興隆の必要を説いた。太興初の議論では、周易・尚書・毛詩・周官・礼記・論語・孝経・春秋左伝等に博士各一人を置く案が示され、太常荀崧も上疏して周易鄭玄注・儀礼鄭玄注・春秋公羊・穀梁への博士設置を求めたが、元帝は概ね賛同しつつ王敦の乱で実施されなかった。成帝咸康三年、国子祭酒袁瓌・太常馮懐が再度上疏し国学再興が議されたが、老荘思想が盛んで実効は上がらなかった。穆帝永和八年、殷浩の北伐に伴い学官は廃止された。征西将軍庾亮は武昌で学官を開いたが間もなく薨じ、また廃れた。孝武帝太元元年、尚書謝石が再興を求め、公卿二千石の子弟が生員として選ばれ廟屋155間が増築されたが、品課の制度が整わず士人に軽んじられた。国子祭酒殷茂・清河の李遼(父の遺志を継ぎ孔子廟の修復と学問興隆を訴えた)らも上疏したが実現しなかった。
宋高祖(劉裕)は受命ののち学校設立を有司に命じたが完成前に崩じ、太祖の元嘉二十年に国子学が再建され、二十七年に廃止された。
養老・郷飲酒・釈奠の礼
魏高貴郷公甘露二年、太学で養老の礼を行い王祥を三老、鄭小同を五更とした。晉武帝太始六年、辟雍で郷飲酒の礼を行い、太常・丞・博士・学生に絹や牛酒を賜った。咸寧三年・恵帝元康九年にも行われた。釈奠は魏斉王の代は太常が代行したが、晉恵帝・愍懐太子は親しく釈奠を行い、東晉元帝・成帝・穆帝・孝武帝も行った。宋では元嘉二十二年、太子の釈奠に晉の故事が用いられた。
講武(軍事教練)の礼
軍を出すことを「治兵」、入れることを「振旅」といい、四時の蒐狩(蒐・苗・獮・狩)を通じて坐作進退の法を教えた。漢儀の立秋日には「貙劉」の儀があり、乗輿が弩で牲を射た。建安二十一年、魏国の有司は「四時の講武を立秋の吉日一回に集約する」よう奏し許可された。魏文帝延康元年・明帝太和元年、東郊で治兵が行われた。晉武帝太始四年・咸寧元年・大康四年・六年にも宣武観で衆軍の閲兵が行われたが、恵帝以降廃れた。東晉元帝太興四年に鴈羽の仗を作る詔、成帝咸和年間には南郊で戯兵を行う制度(鬬場の名の由来)があった。宋の太祖は漢魏の礼に倣って衆軍を訓練し、宣武堂で講武を行った。元嘉二十五年閏二月、宣武場で大蒐(大規模な狩猟による軍事教練)が行われ、行宮・武帳・旌門・獲車の配置、屯圍の統率者(領軍将軍・護軍将軍・大司馬)、校猟の作法(懐妊の獣は射ない、食用に適さない獣も射ない等)、鹵簿の次第、皇帝の出御から解厳までの詳細な儀次第が定められている。