宋書卷七 本紀第七 前廢帝
前廃帝、諱は子業、小字は法師(449–465年)。孝武帝の長子。元凶劉劭の変では幽閉され幾度も殺されかけたが無事に済み、孝武帝践祚後に皇太子となった。孝武帝崩御を受け15歳で即位したが、まもなく凶悖な行いが日ごとに甚だしくなり、江夏王義恭・柳元景・顔師伯ら重臣や新安王子鸞ら宗室を次々に誅殺、宮中は震撼した。在位1年余で湘東王(後の明帝)一派に弑殺された。
出自と生い立ち
- 前廃帝、諱は子業、小字は法師、孝武帝の長子。元嘉26年(449年)正月甲申生まれ。世祖(孝武帝)が尋陽に鎮していた時、子業は建康に留まり30年、世祖が挙兵し元凶(劉劭)を討った際、囚われ侍中下省に幽閉され幾度も殺されかけたが無事だった。
- 世祖践祚後、皇太子に立てられる。東宮の中庶子・二率が永福省に入直。大明2年(458年)東宮を出る。大明4年(460年)崇正殿で孝経を講じる。大明7年(463年)元服。大明8年(464年)閏5月庚申、世祖崩御。同日太子子業が皇帝に即位、天下に大赦。
大明八年(464年)
- 太宰江夏王義恭、尚書令を解かれ中書監・驃騎大将軍を加えられる。柳元景、尚書令を加えられる。甲子、録尚書を置き太宰江夏王義恭が録尚書事、驃騎大将軍柳元景が開府儀同三司を加えられる。丹陽尹永嘉王子仁、南豫州刺史となる。
- 6月辛未、詔を下し、律令の簡素化・関市の税の見直し・御府諸署の彫刻停止・藩王の貿易禁止等を命じる。
- 戊寅、豫州淮南郡を南梁郡に復す、宣城を分けて淮南郡を復置。庚辰、南海太守袁曇逺、広州刺史となる。
- 秋7月己亥、鎮軍将軍雍州刺史晋安王子勛、江州刺史に改まる。中護軍宗慤、安西将軍雍州刺史となる。鎮北将軍徐州刺史湘東王諱(後の明帝)、護軍将軍となる。中軍将軍義陽王昶、征北将軍徐州刺史となる。庚戌、婆皇国、使者を遣わし方物を献ず。皇太后を尊び太皇太后と称し、皇后を皇太后と称す。乙卯、南北二馳道を廃す。孝建以来改められた制度を元嘉の旧に復す。丙辰、献妃を追尊し献皇后とする。乙丑、撫軍将軍南徐州刺史新安王子鸞、領司徒を解かれる。
- 8月丁卯、領軍将軍王玄謨、鎮北将軍南徐州刺史となる。新安王子鸞、青冀二州刺史となる。己巳、青冀二州刺史蕭恵開、益州刺史となる。己未、皇太后崩御、京師で洪水。庚子、御史を遣わし各地の窮民を賑恤。
- 9月辛丑、護軍将軍湘東王諱、領軍将軍となる。癸卯、尚書左僕射劉遵考、特進右光禄大夫となる。乙卯、文穆皇后を景寧陵に祔葬。
- 冬10月甲戌、太常建安王休仁、護軍将軍となる。戊寅、輔国将軍宋越、司州刺史となる。庚辰、揚州・南徐州の大明7年分未納租税を免除。
- 12月乙酉、尚書右僕射顔師伯、尚書左僕射となる。壬辰、王畿諸郡を揚州とし、揚州を東揚州とする。癸巳、車騎将軍揚州刺史豫章王子尚、司徒揚州刺史となる。この年、東の諸郡で大旱、米価が一升数百銭に達し、京邑でも百余銭に至り、餓死者が十のうち六七割に及んだ。孝建以来銭署を立て銭を鋳造していたが、百姓は私鋳銭を鋳るようになり流通が乱れた。
永光元年(465年)
- 春正月乙未朔、改元し天下に大赦。乙巳、諸州の台伝を省く。戊午、領軍将軍湘東王諱、衛将軍南豫州刺史となる。護軍将軍建安王休仁、領軍将軍となる。秘書監山陽王休祐、豫州刺史となる。左衛将軍桂陽王休範、中護軍南豫州刺史となる。尋陽王子房、東揚州刺史となる。
- 2月丁丑、州郡県の田租を半減。庚寅、二銖銭を鋳造。3月甲辰、臨江郡を廃す。5月己亥、郢州随郡を割いて雍州に属す。丙午、後軍司馬張牧、交州刺史となる。
- 8月己巳、左軍長史劉道隆、梁南秦二州刺史となる。乙亥、安西将軍雍州刺史宗慤、卒去。壬午、衛将軍豫州刺史湘東王諱、雍州刺史に改まる。尚書令驃騎大将軍柳元景、南豫州刺史を加えられる。秋8月辛酉、越騎校尉戴法興、罪を得て賜死。庚午、尚書左僕射顔師伯、尚書僕射となる。吏部尚書王景文、尚書右僕射となる。
- 癸酉、帝みずから宿衛兵を率い、太宰江夏王義恭・尚書令驃騎大将軍柳元景・尚書僕射顔師伯・廷尉劉徳願を誅殺し、景和元年と改元。文武に位二等を賜う。
景和元年(465年)
- 領軍将軍建安王休仁、安西将軍雍州刺史となる。衛将軍湘東王諱、南豫州刺史に戻る。甲戌、司徒揚州刺史豫章王子尚、尚書令を領す。射声校尉沈文秀、青州刺史となる。左軍司馬崔道固、冀州刺史となる。
- 乙亥、詔を下し孝行・忠節・隠棲の士など人材の登用を命じる。始興公沈慶之、太尉となる。鎮北将軍青冀二州刺史王玄謨、領軍将軍となる。庚辰、石頭城を長楽宮、東府城を未央宮とする。東揚州を廃し揚州に併合。
- 甲申、北邸を建章宮、南第を長楊宮とする。冠軍将軍邵陵王子元、湘州刺史となる。丙戌、呉・呉興・義興・晋陵・琅邪五郡の大明8年以前の未納租税を免除。己丑、南北二馳道を復す。
- 9月癸巳、車駕、湖熟に行幸し鼓吹を奏す。戊戌、還宮。庚子、南兖州刺史永嘉王子仁、南徐州刺史となる。丹陽尹始安王子真、南兖州刺史となる。辛丑、撫軍将軍南徐州刺史新安王子鸞、庶人に落とされ賜死。丙午、兖州刺史薛安都、平北将軍徐州刺史となる。丁未、衛将軍湘東王諱、開府儀同三司を加えられる。特進右光禄大夫劉遵考、安西将軍南豫州刺史となる。寧朔将軍殷孝祖、兖州刺史となる。戊申、前梁南秦二州刺史柳元怙、再び梁南秦二州刺史となる。
- 己酉、車駕、征北将軍徐州刺史義陽王昶を討伐に赴くとして内外戒厳。昶は索虜(北魏)に奔る。辛亥、右将軍豫州刺史山陽王休祐、鎮西大将軍に進号。甲寅、安西長史袁顗、雍州刺史となる。戊午、左民尚書劉思考、益州刺史となる。この日、戒厳を解き車駕は瓜歩に行幸、百姓の私鋳銭を許す。
- 冬10月癸亥、徐州を曲赦。丙寅、還宮。建安王休仁、護軍将軍となる。己卯、東陽太守王藻、獄に下され死す。宮人謝貴嬪を夫人とし、虎賁・靸戟・鸞輅・龍旂・出警入蹕の儀を加える(実は新蔡公主であった)。乙酉、鎮北大将軍豫州刺史山陽王休祐、鎮軍大将軍開府儀同三司となる。
- 11月壬辰、寧朔将軍何邁、獄に下され死す。新任太尉沈慶之、薨去。壬寅、皇后路氏を立て、四廂で奏楽、揚・南徐二州を大赦。護軍将軍建安王休仁、特進左光禄大夫を加えられる。中護軍桂陽王休範、遷職。丁未、皇子誕生(少府劉勝之の子とされる)。天下に大赦し、贓汚・淫盗の罪をことごとく赦し、父の跡目を継ぐ者に爵一級を賜う。壬子、特進左光禄大夫護軍将軍建安王休仁、驃騎大将軍開府儀同三司となる。戊午、南平王敬猷・廬陵王敬先・安南侯敬淵、いずれも賜死。
- このとき帝の凶悖は日ごとに甚だしく、誅殺が相次ぎ、内外の百官は身の安全を保てなかった。先んじて「湘中より天子出づ」との訛言があり、帝は南巡して荆湘二州を圧しようとし、まず諸叔を誅してから出発しようとした。太宗(湘東王諱、後の明帝)は左右の阮佃夫・王道隆・李道児と密かに結び、帝の左右の寿寂之・姜産之ら11人と共謀して帝の廃位を図る。
- 戊午の夜、帝は華林園竹林堂で「鬼を射る」と称し(巫覡がこの堂に鬼有りと言ったため)自ら矢を射たところ、寿寂之が刀を懐にして直入し、姜産之が副えとなった。帝は逃げようとしたが寿寂之に追われて殺された。時に17歳。
- 太皇太后の令。子業は嫡長ながら生来凶毒不仁不孝であり、髫齓の頃より著しく、孝武帝崩御に際しても哀しむ様子なく、内外を圧して忍虐を極め、ついに上宰(江夏王義恭)・輔臣(柳元景・顔師伯)を誅殺し、子鸞兄弟を殺し、義陽王昶を征討に追い込み、新蔡公主を陵辱して死んだと偽り、朝賢旧勲を捨て置き、祖考を辱め戯れとし、遊行淫縦、園陵を暴いて無辜を誅し婦女を略奪し、素性の知れぬ者を立てて嬪后とするなど恒典を越え、宗室近親を婢僕のように扱い鞭打ち、南平一門は特にその酷に遭った。苛罰酷令は極まりなく、夏桀・殷紂も及ばぬほどであった。朝廷は業業とし人々は自らを保てず、百姓は行き場を失った。行いは禽獣に等しく罪は三千に満ち、高祖の業は滅びかけ七廟の祭祀も絶えなんとした。老いた自分(太皇太后)は病に沈み、常に禍を憂えていた。衛将軍湘東王(諱)は太祖の血を承け、天縦の英聖、文帝に鍾愛され列藩に冠絶し、義士が身を投じ、独夫(子業)は既に斃れ首を白旗に懸けられ、社稷は再興、宗廟は永固し人心はこれに帰した。その勲徳は高邁で大業の帰する所であり、漢晋の故事に従い皇位を継がせるべきである。廃帝は丹陽秣陵県の南郊壇の西に葬られた。
- 帝は幼くして狷急で、東宮にあった頃しばしば世祖に叱責された。世祖が西巡した際、子業が起居を啓し書跡が謹まぬとして叱られ、陳謝の啓を上ったが、世祖は「書は進歩せぬ、そのうえ怠惰で日ごとに狷戻甚だしいと聞く、何故これほど頑固か」と答えた。即位の当初、璽紱を受けても哀しむ様子がなく、大臣たちを憚っていたが、戴法興らを殺した後は群公も皆震え上がり、次々に元凱以下を打擲・牽引した。内外は危懼し宮中は騒然とした。
- 太后が病篤く帝を呼んだ際、帝は「病人の間には鬼が多く恐ろしい、行けようか」と言い、太后は怒り「刀を持て、我が腹を破れ、なぜこのような子を生んだのか」と侍者に言った。太后崩御後数日、帝は太后の夢を見、「お前は不孝不仁、もとより人君の相はない。子尚も愚悖でこれも運命ではない。孝武帝は険虐で道を滅ぼし人神の怨みを買った。子は多いが天命はなく、大運は文帝の子に帰す」と言われたという。後に湘東王が位を継いだのは果たして文帝の子であった。
- 帝は諸叔を京邑に集め、外に出て患いとなることを恐れた。山陰公主は淫らで、帝に「私と陛下は男女の別があるとはいえ、共に先帝の体を承けています。陛下には六宮に万を数える妃がありながら、私には駙馬一人のみ、あまりに不公平です」と訴えた。帝はそこで公主のために面首(男妾)30人を置き、会稽郡長公主に進爵させ郡王侯と同格の秩とし、湯沐邑2千戸、鼓吹一部、班剣20人を加えた。帝が外出する際は常に朝臣と共に公主を輦に陪させた。公主は吏部郎褚淵の容姿の美しさに惹かれ、帝に自らの側に侍らせるよう請い、帝はこれを許した。褚淵は公主に10日間侍り、迫られながらも死を誓って拒み通し、ついに免れることができた。
- 帝が寵愛した宦官の華願児は散騎常侍に至り将軍号を加えられ郡を帯びた。帝は若くして書を読むことを好み、故事に通じ、自ら世祖の誄や雑篇章を作り、文才があった。魏の武帝(曹操)に発丘中郎将・摸金校尉の官があったのに倣い、この二官を新設し建安王休仁にこれを領させた。その他の事跡はそれぞれ列伝に見える。
史論
史臣曰く、廃帝の行いは本紀に著されている通りであるが、武王が殷紂の罪を数えてもその万分の一にも及ばず、霍光が昌邑王の過ちを書き記してもその毫釐にも及ばない。中程度の資質の君主でもこの中の一つがあれば社稷を傾け宗廟を汚すに足るのに、まして廃帝はこれらの悪をすべて一身に集めていた。その滅びを免れなかったのはむしろ幸いというべきである。