宋書卷六 本紀第六 孝武帝

世祖孝武皇帝、諱は駿、字は休龍、小字は道民(430–464年)。文帝の第三子。元凶劉劭が文帝を弑逆すると義兵を挙げてこれを討ち即位、以後10年余在位した。荆州刺史南郡王義宣、司空竟陵王誕ら宗室の反乱を次々に鎮圧して皇権を強化する一方、南徐州の分割や貨幣制度の改定など諸制度を整えた。晩年は玉燭殿で崩じ、太子子業(前廢帝)が継いだ。

年表(10件)

出自と生い立ち

世祖孝武皇帝、諱は駿、字は休龍、小字は道民。文帝の第三子。元嘉七年(430年)秋八月庚午に生まれた。元嘉十二年(435年)武陵王に立てられ食邑二千戸。十六年(439年)都督湘州諸軍事・征虜将軍・湘州刺史・領石頭戍事。十七年(440年)使持節都督南豫豫司雍并五州諸軍事・南豫州刺史に遷り、なお石頭を戍った。二十一年(444年)秦州の督を加えられ撫軍将軍に進号。翌年、都督雍梁南北秦四州・荆州の襄陽竟陵南陽順陽新野随六郡諸軍事・寧蛮校尉・雍州刺史に徙り、東晋以来皇子が襄陽の重鎮に就いた例はなく、太祖(文帝)が関河経略を志したため特に授けられたもので、まもなく鼓吹一部を給わった。 二十五年(448年)都督南兖徐兖青冀幽六州・豫州之梁郡諸軍事・安北将軍・徐州刺史に改授され北鎮彭城、まもなく兖州刺史を領した。始興王濬が南兖州刺史となったため南兖の督を解いた。二十七年(450年)汝陽の戦敗により鎮軍将軍に降号、さらに索虜南侵により北中郎将に降された。二十八年(451年)南兖州の督に進み南兖州刺史として山陽に鎮する予定だったが、まもなく都督江州・荆州之江夏・豫州之西陽晋熙新蔡四郡諸軍事・南中郎将・江州刺史に遷った。当時沿江の蛮が侵寇し、太祖は太子歩兵校尉沈慶之らを討伐に遣わし上に諸軍を総統させた。

元嘉三十年(453年)

  • 正月、上は西陽の五洲に出陣中、元凶劉劭の弑逆に遭遇。上は征南将軍・散騎常侍に加えられ衆を率いて討伐に入り、荆州刺史南譙王義宣・雍州刺史臧質も共に義兵を挙げた。
  • 四月辛酉、上は溧洲に次いだ。癸亥、冠軍将軍柳元景の前鋒が新亭に至り営塁を修めた。甲子、賊劉劭は自ら衆を率い元景を攻めたが大敗して退走。丙寅、上は江寧に次いだ。丁卯、大将軍江夏王義恭が奔り来て上に尊号を勧めた。戊辰、上は新亭に至り、己巳、皇帝位に即いた。大赦天下、文武に爵一等、従軍者に二等を賜い、贓汚清議の罪を全て蕩除、高年鰥寡孤幼六疾で自存できぬ者に穀五斛、逋租宿債の免除、長徒の身の寛減、太祖(文帝)の号謚を改めた。大将軍江夏王義恭を太尉録尚書六条事南徐州刺史とした。
  • 庚午、荆州刺史南譙王義宣を中書監丞相録尚書六条事揚州刺史、安東将軍随王誕を衛将軍開府儀同三司荆州刺史、雍州刺史臧質を車騎将軍開府儀同三司江州刺史、征虜将軍沈慶之を領軍将軍、撫軍将軍兖冀二州刺史蕭思話を尚書左僕射とした。壬申、征虜将軍王僧達を尚書右僕射とし、新亭を中興亭と改めた。
  • 五月甲戌、輔国将軍申坦が京城を陥した。乙亥、輔国将軍朱修之が東府を陥した。丙申、京邑を平定、劉劭及び始興王濬ら同逆は皆誅に伏した。庚辰、詔により天歩艱難の中で即位した経緯を述べ、大使を四方に廵行させることを命じ、この日解厳。辛巳、車駕は東府城に幸した。甲申、生母路淑媛を皇太后に尊んだ。乙酉、妃王氏を皇后に立てた。戊子、左衛将軍柳元景を雍州刺史とした。壬辰、太尉江夏王義恭を太傅領大司馬とした。甲午、京邑二百里内を曲赦し今年の租税を蠲した。戊戌、撫軍将軍南平王鑠を司空、建平王宏を尚書左僕射、東海王褘を撫軍将軍とし、新任尚書左僕射蕭思話は転職した。
  • 六月壬寅、驃騎参軍垣護之を冀州刺史とした。甲辰、山陽太守申恬を青州刺史とした。丙午、車駕は還宮、殿門及び上閤に屯兵を初めて置いた。江夏内史朱修之を平西将軍雍州刺史、御史中丞王曇生を広州刺史とした。戊申、新任雍州刺史柳元景を護軍将軍とした。己酉、司州刺史魯爽を南豫州刺史とした。庚戌、梁南秦二州刺史劉秀之を益州刺史、太尉司馬龐秀之を梁南秦二州刺史、衛軍司馬徐遺宝を兖州刺史、寧朔将軍王玄謨を徐州刺史とした。衛将軍随王誕は驃騎大将軍に進号。尚書右僕射王僧達は転職し丹陽尹褚湛之を尚書右僕射とした。丙辰、侍中南譙王世子恢を湘州刺史とした。
  • 丁亥、詔により先帝の遺志を継ぎ、兵役による府蔵の減少を憂え、民を厚くし煩を去り簡に従うべき諸事の施行を命じた。庚申、詔により論功行賞を命じ差をもって賜った。辛酉、安西将軍西秦河二州刺史吐谷渾拾寅を鎮西大将軍開府儀同三司に進号。庚午、南徐州を分け南兖州を再置。辛未、南譙王義宣を南郡王に、随王誕を竟陵王に改封、義宣の次子宜陽侯愷を宜陽県王とした。
  • 閏月壬申、領軍将軍沈慶之を鎮軍将軍南兖州刺史とした。癸酉、護軍将軍柳元景を領軍将軍とした。丙子、兼散騎常侍楽詢ら十五人を遣わし風俗を廵行させた。甲申、尋陽・西陽郡の租布を蠲した。
  • (日付表記に錯簡の疑いあり)丞相南郡王義宣を荆湘二州刺史に改め、驃騎大将軍荆州刺史竟陵王誕を揚州刺史に改め、南蛮校尉王僧達を護軍将軍とした。この月、衛尉の官を置いた。秋七月辛丑朔、日食。甲寅、詔により群臣に嘉謀善政の直言を求めた。辛酉、詔により百姓の労弊を憂え倹約を命じ、細作署・尚方の雕文靡巧・金銀塗飾を禁じ、供御の服膳を減じ、遊侈の水陸捕採を時に順わせ、江海田池の権利独占を禁じた。
  • 戊戌、右衛将軍宗慤を広州刺史とした。己巳、司空南平王鑠が薨じた。八月辛未、武皇帝以来の旧役軍身で存命の者に解戸を賜った。乙亥、尚書左僕射建平王宏に中書監中軍将軍を加えた。丁亥、沛郡太守垣閎を寧州刺史、撫軍司馬費沈を梁南秦二州刺史とした。甲午、護軍将軍王僧達が転職した。
  • 九月丁巳、前尚書劉義綦を中護軍とした。壬戌、新亭の戦亡者を京城の例と同じくした。劉劭の党南海太守蕭簡が広州に拠り反したが、丁卯、輔国将軍鄧琬が討平した。冬十月癸未、車駕は閲武堂で訴えを聴いた。十一月丙午、左軍将軍魯秀を司州刺史とした。丙辰、台省衆官の朔望の問訊を停めた。丙寅、高麗国が使者を遣わし方物を献じた。十二月甲戌、都水台を省き都水使者官を罷め水衡令官を置いた。癸未、東宮設置に伴い太子率更令以下の官を旧員の半分に減じた。

孝建元年(454年)

  • 春正月己亥朔、車駕は親ら南郊を祠り改元、大赦天下。壬寅、丹陽尹蕭思話を安北将軍徐州刺史とした。甲辰、護軍将軍劉義綦が転職し、尚書令何尚之を左光禄大夫護軍将軍とした。戊申、詔により国本たる農・貢士察行の重要性を説き、地方長官に勧農と人材推挙の徹底を命じ、尚書の職務体制を明確にすることを命じた。壬戌、四銖銭を改鋳。丙寅、皇子子業を皇太子に立て、天下の父後の者に爵一級、孝子順孫義夫節婦に粟帛を差をもって賜った。この月、正光殿を起こした。
  • 二月庚午、豫州刺史魯爽・車騎将軍江州刺史臧質・丞相荆州刺史南郡王義宣・兖州刺史徐遺宝が挙兵し反した。乙亥、撫軍将軍東海王褘が転職。己卯、領軍将軍柳元景に撫軍将軍を加えた。壬午、豫州を曲赦。辛卯、左衛将軍王玄謨を豫州刺史とした。癸巳、玄謨は梁山に進拠。丙申、安北司馬夏侯祖歓を兖州刺史とした。
  • 三月癸亥、内外に戒厳。辛丑、安北将軍徐州刺史蕭思話を安南将軍江州刺史、撫軍将軍柳元景は本号のまま雍州刺史とした。癸卯、太子左衛率龐秀之を徐州刺史とした。徐遺宝は夏侯祖歓に破られ衆を棄て走った。丙寅、輔国長史明胤を冀州刺史とした。
  • 夏四月戊辰、後将軍劉義綦を湘州刺史とした。甲申、平西将軍雍州刺史朱修之を安西将軍荆州刺史とした。丙戌、鎮軍将軍南兖州刺史沈慶之は魯爽を歴陽の小峴で大破し斬った。癸巳、慶之は鎮北大将軍に進号。第十六皇弟休倩を東平王に封じたが拝命前に薨じた。
  • 五月甲寅、義宣らが梁山を攻め王玄謨に大破された。己未、解厳。癸亥、呉興太守劉延孫を尚書右僕射とした。六月戊辰、臧質は武昌に走り人に斬られ首を京師に送られた。甲戌、撫軍将軍柳元景は撫軍大将軍に、鎮北大将軍沈慶之は共に開府儀同三司に進んだ。丙子、征西将軍武昌王渾を雍州刺史とした。癸未、揚州を分け東揚州を、荆湘江豫州を分け郢州を立て、南蛮校尉を罷めた。戊子、録尚書事を省いた。庚寅、義宣は江陵で自尽させられた。
  • 秋七月丙申朔、日食。丙辰、大赦天下、文武に爵一級を賜い逋租宿債を免除した。辛酉、雍州に建昌郡を立てた。会稽太守義陽王昶を東揚州刺史とした。八月庚午、撫軍大将軍柳元景は再び領軍将軍となり本号はそのまま。壬申、遊撃将軍垣護之を徐州刺史とした。壬辰、安西司馬梁坦を梁南秦二州刺史とした。
  • 九月丙申、彊弩将軍尹懐順を寧州刺史とした。丁酉、左光禄大夫何尚之が護軍将軍を解いた。甲辰、尚之に特進を加えた。丙午、安南将軍江州刺史蕭思話を鎮西将軍郢州刺史とした。冬十月戊寅、詔により孔子の廟の修造を命じ諸侯の礼に準じ祭秩を厚くすることを定めた。丁亥、秘書監東海王褘を撫軍将軍江州刺史とした。郢州に安陸郡を立てた。十一月癸卯、都水台を再置し都水使者官を置いた。この年、初めて南徐州の僑民に租を課した。

孝建二年(455年)

  • 正月壬寅、冠軍将軍湘東王(諱)を中護軍とした。二月己丑、婆皇国が使者を遣わし方物を献じた。丙寅、鎮北大将軍南兖州刺史沈慶之を左光禄大夫開府儀同三司とした。辛巳、尚書右僕射劉延孫を南兖州刺史とした。三月辛亥、呉興太守劉遵考を湘州刺史とした。壬子、行征西将軍楊文智を征西将軍北秦州刺史とした。夏四月壬申、河南国が使者を遣わし方物を献じた。壬午、予章太守檀和之を豫州刺史とした。
  • 五月戊戌、湘州刺史劉遵考を尚書右僕射、前軍司馬垣閎を交州刺史とした。庚子、輔国将軍申坦を徐兖二州刺史とした。癸卯、右衛将軍顧覬之を湘州刺史とした。丁未、金紫光禄大夫王偃を右光禄大夫とした。六月甲子、国哀が除服され大赦天下。庚辰、曲江県侯王玄謨を豫州刺史とした。
  • 秋七月癸巳、第十三皇弟休祐を山陽王、第十四皇弟休茂を海陵王、第十五皇弟休業を鄱陽王に立てた。戊戌、鎮西将軍蕭思話が卒した。己酉、益州刺史劉秀之を郢州刺史とし、槃槃国が使者を遣わし方物を献じた。甲寅、義興太守到元度を益州刺史とした。八月庚申、雍州刺史武昌王渾が罪あり庶人に廃され自殺した。辛酉、南兖州刺史劉延孫を鎮軍将軍雍州刺史とし、斤陀利国が使者を遣わし方物を献じた。三呉で民が飢え、癸酉、詔により賑貸を命じた。丙子、詔により諸苑の禁制を貧民に開放することを命じた。壬午、新任豫州刺史王玄謨を青冀二州刺史、青州刺史申恬を豫州刺史とした。甲申、右衛将軍檀和之を南兖州刺史とした。
  • 九月丁亥、車駕は軍武場で閲武。庚戌、詔により即位以前の罪による流放者の帰還と子弟の任用を命じた。冬十月壬午、太傅江夏王義恭が揚州刺史を領した。驃騎大将軍揚州刺史竟陵王誕を司空南徐州刺史、中書監尚書左僕射中軍将軍建平王宏を尚書令とした。十月戊子、中護軍湘東王(諱)が転職、鎮軍将軍劉延孫を護軍将軍、青冀二州刺史王玄謨を雍州刺史とした。甲午、大司馬垣護之を青冀二州刺史とした。辛亥、高麗国が使者を遣わし方物を献じた。十二月癸亥、前交州刺史蕭景憲を交州刺史とした。

孝建三年(456年)

  • 春正月庚寅、第十八皇弟休範を順陽王、第十九皇弟休若を巴陵王に立てた。戊戌、第二皇子子尚を西陽王に立てた。辛丑、車駕は親ら南郊を祠った。壬子、皇太子妃何氏を立てた。甲寅、大赦天下。二月癸亥、右光禄大夫王偃が卒した。甲子、広州刺史宗慤を平西将軍豫州刺史とした。丁卯、新任御史中丞王翼を広州刺史とした。丁丑、朔望に西堂に臨み群臣を接見し奏事を受ける制を始めた。壬午、内外の官の近道の田について吏僮を遣わし附業させることを許した。
  • 三月癸丑、西陽王子尚を南兖州刺史とした。閏月戊午、尚書右僕射劉遵考が転職。癸酉、鄱陽王休業が薨じた。庚辰、元嘉三十年以前の兵工の考剔を停めた。夏五月辛酉、荆徐兖豫雍青冀七州で馬一匹を有する家に一丁の賦役を蠲す制を定めた。壬戌、右衛将軍劉瑀を益州刺史とした。六月、上は華林園で訴えを聴いた。
  • 秋七月、太傅江夏王義恭は揚州を解いた。丙子、南兖州刺史西陽王子尚を揚州刺史、秘書監建安王休仁を南兖州刺史とした。八月戊戌、北軍中郎諮議参軍費淹を交州刺史とした。丁未、尚書吏部郎王琨を広州刺史とした。九月壬戌、丹陽尹劉遵考を尚書左僕射とした。冬十月癸未、尋陽太守張悦を益州刺史とした。丙午、太傅江夏王義恭は太宰に進み司徒を領した。丁未、領軍将軍柳元景に驃騎将軍を加え、尚書令建平王宏に中書監を加え、衛将軍撫軍将軍江州刺史東海王褘は平南将軍に進号。十一月癸丑、淮南太守袁景が罪あり棄市された。十二月丙午、侍中孔霊符を郢州刺史とした。

大明元年(457年)

  • 春正月辛亥朔、改元し大赦天下、高年孤疾に粟帛を差をもって賜った。庚午、護軍将軍劉延孫が転職、右衛将軍湘東王(諱)を中護軍とした。京邑で雨水、辛未、使者を遣わし柴米を賜った。
  • 二月己亥、公田を親民の職に復した。索虜が兖州を侵した。三月壬戌、大臣で班剣を加えられた者が宮城門に入ることを禁じた。梁州の獠が内属を求め懐漢郡を立てた。夏四月、京邑で疾疫、丙申、使者を遣わし医薬を給し、収斂する者のない死者は官が埋葬した。庚子、湘州の宋建郡を省き臨賀に併せた。五月、呉興・義興で大水、民が飢え、乙卯、使者を遣わし倉を開き賑恤した。癸酉、華林園で訴えを聴いた。乙亥、左衛将軍沈曇慶を徐州刺史、輔国将軍梁瑾葱を河州刺史・宕昌王とした。
  • 六月己卯、前太子歩兵校尉劉祗の子歆を南豊王朗の後継とした。辛巳、長水校尉山陽王休祐を東揚州刺史とし、丁亥、休祐は湘州刺史に改め、丹陽尹顔竣を東陽州刺史とした。秋七月辛未、雍州の僑郡県を土断した。八月戊戌、兖州に陽平郡を立てた。壬寅、華林園で訴えを聴いた。甲辰、司空南徐州刺史竟陵王誕を南兖州刺史に改め、太子詹事劉延孫を鎮軍将軍南徐州刺史とした。
  • 冬十月丙申、詔により己の不徳を反省しつつ民の訴えを親ら聴く旨を宣した。甲辰、百済王余慶を鎮東大将軍とした。十二月丁亥、順陽王休範を桂陽王に改封。戊戌、華林園で訴えを聴いた。

大明二年(458年)

  • 春正月辛亥、車駕は南郊を祀った。壬子、詔により去年の水害を受けた東土に糧種の貸与を命じた。丙辰、郡県の田秩及び九親の禄俸を復した。壬戌、詔により先帝挙兵の地西楚を偲び、当時奉迎した文武の吏身に爵一級、軍戸には平民への免を賜った。
  • 二月丙子、詔により貧弱困窮の民の衣裳・葬儀の欠乏を憂え守宰に賻贈の規定策定を命じた。乙酉、金紫光禄大夫褚湛之を尚書左僕射とした。丙戌、中書監尚書令衛将軍建平王宏は本号のまま開府儀同三司中書監とした。丁酉、驃騎将軍柳元景は本号のまま開府儀同三司。甲辰、散騎常侍義陽王昶を中軍将軍とした。
  • 三月丁未、中書監尚書令衛将軍建平王宏が薨じた。乙卯、農繁期のため大官の殺牛を停めた。丁卯、上は華林園で訴えを聴いた。癸酉、寧朔将軍劉季之を司州刺史とした。夏四月甲申、皇子子綏を安陸王に立てた。甲午、海陵王休茂を雍州刺史とした。辛丑、地震。五月戊申、西陽郡を復した。六月戊寅、吏部尚書一人を増置し五兵尚書を省いた。丁亥、左光禄大夫何尚之に開府儀同三司を加えた。戊子、金紫光禄大夫羊玄保を右光禄大夫とした。丙申、詔により軍役逃亡者への寛宥を命じた。
  • 秋七月甲辰、彭城民高闍らの謀反が誅に伏した。癸亥、右衛将軍顔師伯を青冀二州刺史とした。八月乙酉、河南王が使者を遣わし方物を献じた。丙戌、中書令王僧達が罪あり獄で死んだ。己丑、彊弩将軍杜叔文を寧州刺史、交州刺史費淹を広州刺史、南海太守垣閬を交州刺史とした。甲午、寧朔将軍沈僧栄を兖州刺史とした。九月癸卯、華林園で訴えを聴いた。壬戌、寧朔将軍劉道隆を徐州刺史とした。襄陽で大水、使者を遣わし賑贍。庚午、武衛将軍・武騎常侍の官を置いた。
  • 冬十月甲午、中軍将軍義陽王昶を江州刺史とした。乙未、高麗国が使者を遣わし方物を献じた。十一月壬子、揚州刺史西陽王子尚に撫軍将軍を加えた。十二月己亥、諸王及び妃主で庶姓ながら位が三公に準ずる者の喪事に凶門設置を許すことを定めた。閏月庚子、詔により山沢の貢賦の煩瑣を戒め簡約を命じた。庚申、上は華林園で訴えを聴いた。壬戌、林邑国が使者を遣わし方物を献じた。この冬、索虜が青州を侵したが刺史顔師伯がしばしば大破した。

大明三年(459年)

  • 春正月丁亥、豫州の梁郡を徐州に属させた。己丑、驃騎将軍領軍将軍柳元景を尚書令、尚書右僕射劉遵考を領軍将軍とした。丙申、婆皇国が使者を遣わし方物を献じた。二月乙卯、揚州所統六郡を王畿とし東揚州を揚州に隷させた(司隷校尉設置を検討したが元凶劉劭がすでに立てていたため取り止めた)。撫軍将軍揚州刺史西陽王子尚は揚州刺史に徙った。甲子、廷尉監の官を再置。荆州で飢饉。三月甲申、田租布を差をもって原免。庚寅、義興太守垣閬を兖州刺史とした。壬辰、中護軍湘東王(諱)が転職、中書令東海王褘を衛将軍護軍将軍とした。癸巳、太宰江夏王義恭に中書監を加えた。
  • 夏四月癸卯、上は華林園で訴えを聴いた。丙午、建寧太守苻仲子を寧州刺史とした。乙卯、司空南兖州刺史竟陵王誕が罪あり爵を貶され、誕は命に従わず広陵城に拠り反し兖州刺史垣閬を殺した。始興公沈慶之を車騎大将軍開府儀同三司南兖州刺史とし誕討伐に遣わした。甲子、上は自ら六師を率い宣武堂に出陣。司州刺史劉季之が反したが徐州刺史劉道隆が討ち斬った。
  • 秋七月己巳、広陵城を陥し誕を斬り城内の男丁を悉く誅し女子を軍賞とした。この日解厳。辛未、大赦天下、尚方長徒・奚官奴婢で老病の者を悉く原放、孝子順孫義夫節婦に粟帛を差をもって賜った。王畿下の貧家及び近行頓所には租一年を蠲した。丙子、丹陽尹劉秀之を尚書右僕射とした。丙戌、淮南北を分け再び二豫州を置き、新任車騎大将軍開府儀同三司南兖州刺史沈慶之を司空とし刺史はそのまま。戊子、衛将軍護軍将軍東海王褘を南豫州刺史とし衛将軍はそのまま、江州刺史義陽王昶を護軍将軍、冠軍将軍桂陽王休範を江州刺史とした。癸巳、前左衛将軍王玄謨を郢州刺史とした。
  • 八月丙申、詔により北討で戦死した将士への賻贈を厚くすることを命じた。己酉、車騎長史庾深之を豫州刺史とした。甲子、詔により刑罰の実情を憂え寛宥を命じた。九月己巳、詔により訴訟の遅滞を戒め迅速な処理を命じた。壬辰、玄武湖の北に上林苑を立てた。冬十月丁酉、詔により来年より六宮妃嬪に親桑の礼を行わせることを命じた。庚子、鎮軍将軍南徐州刺史劉延孫を車騎将軍に進号。戊申、河西国が使者を遣わし方物を献じた。庚戌、河西王大沮渠安周を征虜将軍涼州刺史とした。十一月己巳、高麗国が使者を遣わし方物を献じ、粛慎国が重訳をもって楛矢石砮を献じ、西域が舞馬を献じた。十二月戊午、上は華林園で訴えを聴いた。辛酉、謁者僕射の官を置いた。

大明四年(460年)

  • 春正月辛未、車駕は南郊を祠った。甲戌、宕昌王が表を奉り方物を献じた。乙亥、車駕は自ら藉田を耕し大赦天下、尚方の囚繋及び逋租宿債で大明元年以前のものを原除、力田の民の登用、孝悌義順への爵一級の賜与、孤老貧疾に穀十斛を賜った。壬午、北中郎司馬柳叔仁を梁南秦二州刺史、左将軍荆州刺史朱修之を鎮軍将軍に進号。庚寅、第三皇子子勲を晋安王、第六皇子子房を尋陽王、第七皇子子頊を歴陽王、第八皇子子鸞を襄陽王に立てた。
  • 二月庚子、侍中建安王休仁を湘州刺史とした。己未、員外散騎侍郎費景緒を寧州刺史とした。三月甲子、冠軍将軍巴陵王休若を徐州刺史とした。丁卯、安陸王子綏を郢州刺史とした。癸酉、徐州刺史劉道隆を青冀二州刺史とした。索虜が北陰平を侵したが孔堤太守楊帰子が撃破した。甲申、皇后が親ら西郊で桑を摘んだ。
  • 夏四月癸卯、南琅邪を王畿に隷させた。丙午、詔により倹約を命じ供給を大幅に削減することとした。辛酉、詔により都邑の疫病を憂え使者を遣わし医薬を給すること、死亡者への贍恤を命じた。五月庚辰、華林園で訴えを聴いた。乙酉、徐州の梁郡を豫州に還属させた。丙戌、尚書左僕射褚湛之が卒し、撫軍長史劉思考を益州刺史とした。庚寅、南下邳を南彭城郡に併せた。
  • 秋七月甲戌、左光禄大夫開府儀同三司何尚之が薨じた。八月壬寅、宕昌王が使者を遣わし方物を献じた。己酉、晋安王子勛を南兖州刺史とした。雍州で大水、甲寅、軍を遣わし部から賑給した。九月辛未、冠軍将軍垣護之を豫州刺史とした。甲申、上は華林園で訴えを聴いた。丁亥、襄陽王子鸞を新安王に改封。冬十月庚寅、新任司空沈慶之を遣わし沿江の蛮を討たせた。壬辰、郡県の減じられた禄を先に公用に充てる制を定めた。十一月戊辰、細作署令を左右御府令に改めた。丙戌、大司農官を再置。十二月乙未、上は華林園で訴えを聴いた。辛巳、車駕は廷尉寺に幸し囚繋を全て原遣した。索虜が使者を遣わし和を請うた。丁未、車駕は建康県に幸し獄囚を原放した。倭国が使者を遣わし方物を献じた。

大明五年(461年)

  • 春正月丁卯、宕昌王梁唐子を河州刺史とした。二月癸巳、車駕は閲武。詔により兵事の重要性を説き、軍幢以下に賞を班し、逃亡者への赦免(今年昧爽以前)、大明三年以前の逋負の原停、伐蛮の家の租税半減、近籍の改新制の周知を命じた。甲寅、右光禄大夫羊玄保に特進を加えた。
  • 夏四月癸巳、西陽王子尚を予章王に改封。丙申、尚書令柳元景に左光禄大夫開府儀同三司を加えた。戊戌、詔により水害を受けた南徐兖二州の逋租の秋までの猶予を命じた。丙午、雍州刺史海陵王休茂が司馬庾深之を殺し挙兵反したが義成太守薛継考が討ち斬った。甲寅、第九皇子子仁を雍州刺史とした。
  • 五月癸亥、帝室朞親で朝官・非禄官の者に月銭十万を給する制を定めた。丙辰、車駕は閲武堂で訴えを聴いた。六月丙午、護軍将軍義陽王昶を中軍将軍とした。壬子、広陵を分け沛郡を置き東平郡を省き広陵に併せた。秋七月丙辰、詔により水害の窮民への薪粟給付を命じた。丁卯、高麗国が使者を遣わし方物を献じた。庚午、雍州を曲赦。八月戊子、第九皇子子仁を永嘉王、第十一皇子子真を始安王に立て、北中郎参軍費伯弘を寧州刺史とした。己丑、詔により近年の礼楽の興隆を述べ来年の学校修葺・国胄旌延を命じた。庚寅、方鎮の仮の白板郡県の年限を台除に準じることとした。衛将軍東海王褘は本号のまま開府儀同三司。
  • 九月甲寅朔、日食。丁卯、琅邪郡に行幸し囚繋を原遣した。甲戌、南豫州の治を淮南の于湖県に移した。丁丑、冠軍将軍尋陽王子房を南豫州刺史とした。閏月戊子、皇太子妃何氏が薨じた。丙申、閶闔門から朱雀門、承明門から玄武湖に至る馳道を初めて立てた。壬寅、歴陽王子頊を臨海王に改封。冬十月甲寅、車騎将軍南徐州刺史劉延孫を尚書左僕射領護軍将軍、尚書右僕射劉秀之を安北将軍雍州刺史、冠軍将軍臨海王子頊を広州刺史とした。乙卯、東中郎将新安王子鸞を南徐州刺史とした。十一月壬辰、詔により王畿・京師の獄訟の平治を命じた。丁酉、少府丞一人を増置。十二月壬申、領軍将軍劉遵考を尚書右僕射とした。甲戌、天下の民戸に年布四疋を輸させる制を定めた。庚辰、太常王玄謨を北平将軍徐州刺史とした。

大明六年(462年)

  • 春正月己丑、湘州刺史建安王休仁に平南将軍を加えた。辛卯、車駕は親ら南郊を祠り、明堂で宗祀、大赦天下、孝子順孫義夫悌弟に爵一級、慈姑節婦及び孤老六疾に帛五匹穀十斛を賜り、諸方に旌賞の推挙を命じた。乙未、五官中郎将・左右中郎将の官を置いた。
  • 二月乙卯、百官の禄を復した。三月庚寅、第十三皇子子元を邵陵王に立てた。壬寅、倭国王世子興を安東将軍とした。乙巳、豫州南梁郡を淮南郡に改め旧淮南郡を宣城に併せた。丁未、輔国将軍征虜長史広陵太守沈懐文が罪あり獄で死んだ。
  • 夏四月庚申、南兖州の大明三年以前の逋租を原除、大航門を新造した。五月丙戌、凌室を置き蔵氷の礼を修めた。壬寅、太宰江夏王義恭が司徒の兼領を解いた。六月辛酉、尚書右僕射護軍将軍劉延孫が卒した。秋七月庚辰、荆州刺史朱修之を領軍将軍、広州刺史臨海王子頊を荆州刺史とした。甲申、地震。戊子、輔国将軍王翼之を広州刺史とした。辛卯、西陽太守檀翼之を交州刺史とした。乙未、第十九皇子子雲を晋陵王に立てた。
  • 八月癸亥、雍州の大明四年以前の逋租を原除。乙亥、清台令を置いた。九月戊寅、沙門が人主に致敬する制を定めた。戊子、前金紫光禄大夫宗慤を中護軍とした。乙未、尚書右僕射劉遵考を尚書左僕射、丹陽尹王僧朗を尚書右僕射とした。冬十月丁巳、山陽王休祐の子士弘を鄱陽哀王休業の後継とした。上林苑内の民庶の丘墓を合葬したい者は禁じないこととした。十一月己卯、陳留王曹慶秀が薨じた。辛巳、尚書令柳元景を司空とし尚書令はそのまま。

大明七年(463年)

  • 春正月癸未、詔により農閑期の水軍演習を玄武湖で行い江右を廵り講武校猟することを命じた。丁亥、尚書右僕射王僧朗を太常、衛将軍顔師伯を尚書右僕射とした。己丑、尚書令柳元景を驃騎大将軍開府儀同三司とした。庚寅、南兖州刺史晋安王子勲を江州刺史とした。癸巳、呉郡を南徐州に属させた。
  • 二月甲寅、車駕は南豫南兖二州を廵幸した。丙辰、詔により南岳霍山への祭祀を使者に命じた。丁巳、車駕は歴陽の烏江で校猟。己未、車駕は烏江県六合山に登った。庚申、歴陽秦郡を割いて臨江郡を置いた。壬寅、詔により受命十一年を振り返り天下大赦を宣し、行幸経路の今年の租布を免除、逋租余債を免除、民に爵一級、女子に百戸の牛酒、刺守邑宰及び蒐に従った民夫に恩賚を賜った。また詔により幼くして雍州を統べた頃の縁を述べ、歴陽郡の租の三年輸を蠲し、民の疾苦を問い、鰥寡孤老六疾に粟帛を厚く賜ることを命じた。壬申、車駕は還宮。
  • 夏四月甲寅、領軍将軍朱修之を特進とした。丙辰、尚書湘東王(諱)を領軍将軍とした。甲子、詔により専殺を禁じ違反者を殺人罪に問うことを定めた。五月乙亥、撫軍将軍揚州刺史予章王子尚を車騎将軍に進号、輔国将軍始安王子真を広州刺史とした。丙子、詔により刺史守宰の民の動員・軍の興発には手詔を要することを定めた(辺境の緊急事態を除く)。六月甲辰、北中郎司馬柳元怙を梁南秦二州刺史とした。戊申、芮芮国・高麗国が使者を遣わし方物を献じた。戊辰、秦郡太守劉徳願を豫州刺史とした。
  • 七月乙亥、征東大将軍高麗王高璉を車騎大将軍開府儀同三司に進号。丙申、詔により江海田池の民との共利を命じ、名山大川の占固を検糾するよう命じた。八月丁巳、詔により己の不徳による災異を反省し、供膳を減じ近道の刑獄を親覧すること、王畿外は刺史に委ねることを命じた。乙丑、第十六皇子子孟を淮南王、第十八皇子子産を臨賀王に立てた。車駕は建康秣陵県に幸し獄囚を訊した。
  • 九月乙卯、詔により旱害を受けた苗稼を憂え東境郡に墾殖を勧めること、麦種の貸与を命じた。戊子、詔により宋の受命の意義を述べ廵察の意を宣した。庚寅、南徐州刺史新安王子鸞に司徒を兼させた。乙未、車駕は廷尉に幸し獄囚を訊した。丙申、第二十七皇子子嗣を東平王に立てた。冬十月壬寅、太子の元服の礼を行い王公以下に帛を賜った。戊申、車駕は南豫州を廵り、詔により百歳の者及び孤寡老疾に粟帛を賜り、獄繋刑罪を親ら訊し、士庶の怨鬱・冤罪や隠逸の善行者の推挙を命じ、忠信孝義力田殖穀の者への旌賞、旱害への賑賜を命じた。
  • 癸丑、江寧県に行幸し獄囚を訊した。車騎将軍揚州刺史予章王子尚に開府儀同三司を加えた。癸亥、衛将軍開府儀同三司東海王褘を司空とし、中軍将軍義陽王昶に開府儀同三司を加えた。丙寅、詔により官吏の考績・賞罰の徹底を命じた。己巳、車駕は姑孰で校猟した。
  • 十一月丙子、南豫州の殊死以下を曲赦し、廵幸経路の今年の田租を差をもって減じた。乙酉、詔により晋の大司馬桓温・征西将軍毛璩の墓を祭らせ、行在で溧陽・永世・丹陽県の囚を訊した。癸巳、車駕は梁山で水軍を習わせ、白爵二羽が華蓋に集まったため有司は大明七年を神爵元年と改めることを奏したが詔は許さなかった。乙未、獄徒繋を東の諸郡の大獄で原放した。壬寅、使者を遣わし倉を開き雑物での納租を許した。
  • 十二月丙午、歴陽に行幸。甲寅、大赦天下、南豫州の別署の勅繋長徒を全て原散、兵期考襲讁戍を全て停め、歴陽郡の女子に百戸の牛酒、高年孤疾に帛十匹を賜い郡租を十年蠲した。己未、太宰江夏王義恭に尚書令を加え、博望・梁山に双闕を立てた。癸亥、車駕は歴陽より至った。

大明八年(464年)

  • 春正月甲戌、詔により東境の不作を憂え商貨の融通を命じ道中の雑税を停めた。癸未、安北将軍雍州刺史劉秀之が卒した。戊子、平南将軍湘州刺史建安王休仁を安南将軍江州刺史、晋安王子勲を鎮軍将軍雍州刺史、徐州刺史新安王子鸞を撫軍将軍領司徒とし刺史はそのまま、輔国将軍江夏王世子伯禽を湘州刺史とした。
  • 二月辛丑、特進朱修之が卒した。壬寅、詔により去年の東境の旱害を憂え建康秣陵二県の倉米を出し賑恤することを命じた。乙巳、鎮軍将軍湘東王(諱)を鎮北将軍徐州刺史、平北将軍徐州刺史王玄謨を領軍将軍とした。
  • 夏閏五月辛丑、前御史中丞蕭恵開を青冀二州刺史とした。壬寅、太宰江夏王義恭が太尉を領した。特進右光禄大夫羊玄保が卒した。庚申、帝は玉燭殿で崩じた。時に三十五歳。秋七月丙午、丹陽秣陵県巌山の景寧陵に葬った。

史論

  • 史臣は述べる。己を役してでも天下を利するのは堯舜の心である。己を利してこれを万物に及ぼすのは中主の志である。民の命を尽くして自らを養うのは桀紂の行いである。大明の世を見るに、それは民の命を尽くすものではなかったか。たとえ周公のような才徳を持つ者があっても、なお終わりには乱を招いたのだから、何の益があろうか。