宋書卷四 本紀第四 少帝
少帝、諱は義符、小字は車兵(406–424年)。武帝の長子。膂力があり騎射を善くしたが、武帝崩御後は喪中に宴楽や土木の造営にふけり悖乱の言行が重なったため、輔政の徐羨之・傅亮・謝晦らにより在位2年で廃されて営陽王となり、まもなく殺害された。
出自と生い立ち
少帝、諱は義符、小字は車兵。武帝の長子。母は張夫人。晋の義熙二年(406年)京口に生まれた。武帝は晩年まで男子がなく、帝の誕生を大いに喜んだ。十歳で予章公世子を拝した。膂力があり騎射を善くし音律に通じた。宋台建立に伴い宋世子を拝し、元熙元年(419年)宋太子に進んだ。武帝受禅の後、皇太子に立てられた。
永初三年(422年)
- 五月癸亥、武帝が崩じ、この日太子は皇帝位に即き大赦、皇太后を太皇太后と尊んだ。六月壬申、尚書僕射傅亮を中書監、司空徐羨之・領軍将軍謝晦及び亮に輔政させた。戊子、太尉長沙王道憐が薨じた。
- 秋九月丁未、有司の奏により武皇帝を南郊に、武敬皇后を北郊に配祀。冬十一月戊午、営室に彗星が現れた。十二月庚戌、魏軍が滑台を陥した。
景平元年(423年)
- 春正月己亥朔、大赦し改元して景平元年とした。文武の位を二等進めた。辛巳、南郊を祠る。虜将達奚卬が金墉を破り虎牢を包囲、毛徳祖がこれを撃退したが虜は退いて再び集結、拓跋木末はまた平安公渉帰を遣わし青州を侵した。癸卯、河南郡が失陥。乙卯、東壁に彗星。
- 二月丁丑、太皇太后が崩じた。沮渠蒙遜・吐谷渾阿柴が朝貢し、庚辰、蒙遜を大将軍・河西王、阿柴を安西将軍・沙州刺史・澆河公に封じた。辛未、富陽の孫法光が反し山陰を侵したが会稽太守褚淡之が山陰令陸劭を遣わし討ち破った。
- 三月壬寅、孝懿皇后を興寧陵に袝葬。同月、高麗国が朝貢。甲子、豫州刺史劉粋が許昌を襲い虜の潁川太守庾龍を殺した。乙丑、虜騎が高平を侵した(虜は河北での敗戦以来和親を求めていたが高祖崩御を聞くと再び河洛の地を侵し騒然とした)。
- 夏四月、檀道済が北征し臨朐に至り虜の攻具を焼いた。乙未、魏軍が虎牢を陥し司州刺史毛徳祖を捕えて連れ去った。秋七月癸酉、生母張夫人を皇太后に尊んだ。丁丑、旱害により五歳以下の刑を赦した。
- 冬十月己未、氐から尾にかけ彗星が現れ攝提を貫き大角に向かった(仲月に危宿にあり季月に天倉を掃って消えた)。この年、魏主拓跋嗣が薨じ子の燾が立った。十二月丙寅、寧州の江陽・犍為・安上三郡を省き宋昌郡とした。
景平二年(424年)
- 春正月癸巳朔、日食。南豫州刺史廬陵王義真を廃して庶人とし新安郡に徙した。乙未、皇弟義恭を冠軍将軍・南豫州刺史とした。乙巳、大風、天に五色の雲あり占者は兵の兆しとした。高麗国が朝貢。執政は使者を遣わし新安で義真を誅殺した。
- 夏五月、江州刺史檀道済・揚州刺史王弘が入朝。帝の日頃の振る舞いは過失が多かった。乙酉、皇太后令により少帝の廃立が宣告された。令の要旨は、武帝崩御の哀しみのさなかに帝が悖乱の言行を重ねたこと(喪中に楽府の伶官を召し宴楽を備え、平生から後宮に子を産ませ憚らず、懿后崩御に際しては葬送の綱を執りながら歌い笑い戯れたこと)、日夜小人と媟狎し土木の造営を千計費やし帑蔵を空にし人力を尽くしたこと、刑罰苛虐で幽囚が日々増えたこと、帝位にありながら卑賤の役を好み、万乗の尊びながら厮養の事を悦び、自ら鞭で無辜を打ち笑楽としたこと、池を穿ち観を築いては朝に成し暮に毀す放埓により民が疲弊し人神が怨怒したことなどを述べ、社稷を保てぬとして帝を廃し営陽王とすること(漢の昌邑王・晋の海西公の故事に倣う)、鎮西将軍宜都王義隆を迎え皇統を継がせることを宣した。
- 徐羨之・傅亮が廃立を謀り、王弘・檀道済を国訃と称して呼び寄せ、弘らの来朝の際、中書舎人邢安泰・潘盛を内応とした。当日、道済・謝晦が兵を率い先頭に立ち、羨之らが後に続き、東掖門が開くと雲龍門より入った。潘盛らが予め宿衛を戒めていたため防ぐ者はなかった。
- 当時帝は華林園で店を並べ自ら酒を売り、瀆を開いて土を積み破岡埭を象り左右と共に船を引き歓楽としていた。夕には天泉池に遊び龍舟のまま寝た。翌朝、兵士が帝の側で侍者二人を殺し、帝は指を傷つけられ東閤へ連れ出され璽紱を収められた。群臣は拝辞し東宮に送り、呉郡に幽閉した。この日、死罪以下を赦し、太后令により璽紱を奉還させた。檀道済が朝堂を守った。
- 六月癸丑、徐羨之らは中書舎人邢安泰に命じ帝を金昌亭で弑した。帝は勇力があり従わず昌門を突き出て逃げたが、追いつかれ門の閂で打ち倒され死去した。時に十九歳。