- 侍読学士(臣萬承蒼)謹んで言上する。斉の永明中、太子家令兼著作郎の沈約が勅を受けて宋書を撰し、一年余りでこれを上呈した。本紀十・志三十・列伝六十、合わせて百巻。書は斉代に成ったが、沈約が最終的に梁に仕えて終わったため「梁沈約撰」と題するのは『隋書』経籍志の旧例に従ったものである。
- 唐虞三代には聖人が位にあり公卿も皆賢であったため、史臣もまた道徳の意を深く知り至治を発揚し教えを窮まりなく垂れることができた。漢の司馬遷・班固もなおこの義に明るかったが、魏晋以降その風は廃れた。
- 宋の高祖は英雄の姿で晋室に功を建てたが、その志は改歩(革命)を急ぎ深仁厚沢が人心に浸透するまでに至らず、代を重ねても法制が定まらなかった。皇子は襁褓を離れるやすぐに方州を統べ、任じられた臣僚の多くは世族から取られ、民を治め軍を統べる道に乏しく、やがて互いに猜忌し小人を偏信するに至って振るわなくなった。当時の史官である何承天・蘇寶生・徐爰らも多くはその任に堪える人物ではなかった。
- 沈約は栄利を貪る心をもって浮靡の習いをほしいままにし、短期間でこの書を成した。おおむね何承天・徐爰の旧本によりつつ手を加えたもので、永光以後の記述は時の君主の意向に合わせて遷就することを免れず、自ら新史を創立したと称しても取捨の是非は必ずしも当を得ていない。さらに前代を誣いる奇説を好んだ点は王邵の譏る所である。姚察は沈約を「高才博洽、名は司馬遷・董狐に亜ぐ」と称えたが、それはこの書の定論とは言えない。とはいえ東晋の義熙年間から宋の昇明年間までの七十四年間の事跡はおおむねここに備わっており、伝えないわけにはいかない。
- 北宋の嘉祐年間、宋・斉・梁・陳・魏・北斉・周の七書に誤りと欠落が多いため館職に校讐が命じられ、治平年間に曽鞏が南斉書・梁書・陳書の三書を校定して上呈し、劉恕らは後魏書を、王安国は周書を上呈したが、宋書を校した者の名は伝わらない。宋書第四十六巻末に付された臣穆(鄭穆)の記載一条は到彦之伝の欠落と趙倫之・王懿・張邵の三伝が沈約の原著でないことを論じている。
- 臣(萬承蒼)が宋史を考えるに、鄭穆は館閣に三十年在り集賢院の書籍を編校したことがあるというからおそらくこの人物であろう。しかし三伝のみを挙げて論じ、帝号を「魏主」と称する点が『南史』と体裁を同じくすること、張邵伝が武帝の廟諱を避けず張暢伝と重複して載ることなどには言及しておらず、その考拠もまた精密とは言えない。それゆえ七史のうち宋書が最も訛謬多いとされ、その由来は久しい。
- 臣らは勅を奉じてこの書を校勘するにあたり、裴子野『宋略』二十巻・鮑衡卿・王琰の『宋春秋』各二十巻を訪求したが、いずれも既に伝わっていなかった。監本のほかは虞山の毛晋が刻した汲古閣本がやや参考になし得るのみであったが、さらに文淵閣所蔵の南監旧本を得た。字画は磨滅していたが諸本と異なる箇所があれば謹んで参校し、その中庸を求めて合致するものを採り正本とした。字は異なっても意味が通じるものは監本の旧文に従い、別に『宋書考證』若干条として各巻の後に附した。当時の文人の遺集や参照しうる他書があれば、あわせて採録した。諸本すべてが誤り拠るべきものがない箇所は疑いを闕いたままとし、あえて擅断で改めることはしなかった。臣萬承蒼らは見聞浅陋、辞意浅薄ながら、謹んでこの校勘に当たった旨を言上する。