周書卷四十九 列傳第四十一 異域上

周書列傳「異域上」は北周をめぐる周辺諸族・諸国(高麗・百済・蠻・獠・宕昌・鄧至・白蘭・氐・稽胡・厙莫奚)の朝貢・叛服関係をまとめた巻。西魏・北周は各族の帰順・反乱に対し討伐と懐柔を繰り返し、南朝境域の蠻・獠、隴右の氐・羌系諸族(宕昌・鄧至・白蘭)、稽胡らはしばしば叛服を繰り返した。高麗・百済は北魏以来の朝貢国として周にも遣使した。

年表(24件)
  • 大統十二年高麗の成が方物を献じる
  • 建徳六年高麗の湯が使者を送り貢物を献じる
  • 建徳六年百済の昌が斉滅亡を機に初めて方物を献じる
  • 宣政元年百済がまた使者を送り貢物を献じる
  • 大統五年蔡陽の蛮王魯超明が帰順し南雍州刺史となる
  • 恭帝
  • 二年蛮酋田興彦・梅季昌が帰順し開府儀同三司となる
  • 天和元年陸騰が向令賢ら蛮の抵抗を水邏城で討平する
  • 天和六年蛮の冉祖喜・冉龍驤が再叛し趙誾に討平される
  • 三年陵州の木籠獠が反乱し陸騰に討伐される
  • 保定二年鉄山の獠が反乱し陸騰に討平される
  • 天和三年梁州恒稜の獠が叛き趙文表に討平される
  • 大統四年宕昌の仚定が南洮州刺史・要安蕃王とされる
  • 大統七年宕昌の仚定が再び挙兵し部下に殺される
  • 大統十六年宕昌で獠甘が彌定の位を奪う
  • 保定四年宕昌の彌定が討伐され滅ぼされ宕州が置かれる
  • 元年鄧至の檐桁が国を失い太祖の援助で復位する
  • 保定元年白蘭が使者を送り犀甲・鉄鎧を献じる
  • 大統四年氐の符安寿が反乱し武都を陥落させるも討伐平定される
  • 大統九年氐酋李鼠仁が険阻に拠り乱を起こす
  • 大統元年神武帝が偽って和親を装い劉蠡升を襲殺する
  • 大統五年稽胡の黒水部衆が叛く
  • 建徳五年稽胡が劉蠡升の孫没鐸を主に立て「聖武皇帝」を号する
  • 建徳六年斉王憲らが没鐸を討伐し稽胡の乱を平定する
  • 宣政元年稽胡の劉受羅千が再叛するも越王盛に討平される

総説

  • 天地の覆う所は広大で、日月の照らす所も広い。しかし万物のうちで人は少なく禽獣は多く、天地の間でも中原は狭く異俗の地は広い。鄒衍の説く奇怪な話や『山海経』の不可思議な記述は数多いが、周公・孔子はそれらを論じず、是非は定まらない。
  • 秦の始皇帝は天下を鞭打って遠方に武力を振るい、漢の武帝も兵馬の強盛を頼んで遠征に志を尽くしたが、匈奴を退けた後は国が疲弊し、犬馬(貢物)が至っても民は困窮した。雁海や龍堆のような天険が夷と夏(中華)を隔て、南方の炎暑の地や北の砂漠が内外を限るゆえんはここにある。
  • しかるに今は秦漢の時代ではないのに、その野心だけは秦の始皇帝や漢の劉氏に劣らぬというなら、天道に逆らい民力を尽くして望みを遂げようとする者は必ず破滅を招く。それゆえ先王は教えを設けて中華を内とし夷狄を外とし、先賢は範を示して徳を広めることを美とし、いたずらに領土を広げることを卑しんだ。禹の跡でさえ東西は海と流砂を越えず、周の王制も南北は洞穴に住む民や交趾までとした。これは道が三代を貫き義が百代にまさる所以である。
  • 我が周(北周)は喪乱の後を受け戦乱の日々にありながら、武功によって四方を定め、権謀によって三辺を安んじた。趙魏(斉)がなお手強い時には北狄と婚姻を結び、廐や倉が満たされぬ時には西戎と好を通じた。これによって徳と刑がともに行われ、名声は遠くに及び、異国の使者や商人が国境の関に列をなした。東は三呉の地に及ばず南は百越の境に阻まれてはいるが、国威の及ぶ範囲と教化の広がりは十分に大きいといえよう。四夷で来朝し朝貢した者を以下に記す。道里の遠近や物産・風俗については前史に詳しいものもあるが、当時記録された内容をそのまま録し、欠を補うこととする。

高麗

  • その先祖は夫餘から出たという。始祖朱蒙は河伯の娘が日の光に感じて身ごもった子とされる。朱蒙は成長すると才略に優れ、夫餘の人々に憎まれて追われ、紇斗骨城に土着して自ら高句麗と号し、高を氏とした。その孫莫来の代に勢いを増し夫餘を撃って服属させ、莫来の子孫璉の代に初めて北魏に通使した。
  • その地は東は新羅に至り、西は遼水を渡って2000里、南は百済に接し、北は靺鞨に隣接して1000余里。都は平壌城で、東西6里、南は浿水に臨む。城内には倉庫と武具のみを蓄え、敵が来た日にようやく籠城する。王は別に城外に邸宅を持ち常住はしない。国内城・漢城なども別都であり、他に遼東・玄菟など数十城があり、それぞれ官司を置いて統括する。
  • 官制は大対盧を筆頭に太大兄・大兄・小兄・意俟奢・烏拙・太大使者・大使者・小使者・褥奢・翳属・仙人・褥薩の13等に分かれ内外の事を分掌する。大対盧は勢力の強弱によって自らその地位を奪い合い、王が任命するのではない。
  • 刑法では謀反・反逆者はまず火で焼いてから斬首し、家財を没収する。盗みは十数倍の贓物を徴し、貧しくて弁済できない者や公私の負債を負う者は、その子女を奴婢として代償に充てる。
  • 男性は袖の広い衣に大口袴、白い革帯・革靴を着け、冠は「骨蘇」と呼ばれ紫の羅で作り金銀で飾る。官品のある者は鳥の羽を2本挿して特徴を示す。婦人は裙・襦・裾を着け、袖には縁取りをする。
  • 書物には五経・三史・『三国志』・『晋陽秋』を用い、武器には甲・弩・弓矢・戟・矟・矛・鋌があり、税は絹布と穀物を貧富に応じて量を差し等しく取り立てる。土地は痩せ、生活は質素だが、外見の礼儀は保ちつつも詐りが多く、言葉遣いは卑しく親疎の別を厳格にしない。同じ川で共に沐浴し同室で寝るなど、淫らな風俗を恥じない。夫を定めず遊女となる者もいるが、結納なしの婚姻を正式とし、財を受け取った場合は「婢を売る」と称され甚だ恥とされる。
  • 父母や夫の喪の服制は中華とほぼ同じだが、兄弟の喪は3か月に限る。仏法を敬い、また淫祀を好む。神廟が2つあり、一つは夫餘神といい木を刻んで婦人の像とし、もう一つは登高神といい、朱蒙の始祖とされる。ともに官を置いて守護させる。
  • 璉から5代の子孫成は大統12年(546年)方物を献じ、成の死後子の湯が立ち、建徳6年(577年)にも使者を送って貢物を献じた。高祖は湯に上開府儀同大将軍・遼東郡開国公・遼東王を授けた。

百済

  • その先祖はもと馬韓の属国で夫餘の別種、仇台という者が帯方の地に建国した。地は東は新羅に極まり、北は高句麗に接し、西南はいずれも大海に限られ、東西450里、南北900余里。都は固麻城で、外に5つの方城を置く(中方古沙城・東方得安城・南方久知下城・西方刀先城・北方熊津城)。
  • 王の姓は夫餘氏で「於羅瑕」と号し、民は「鞬吉支」と呼ぶ(漢語ではどちらも王の意)。妃は「於陸」(漢語で妃の意)と呼ぶ。
  • 官は16品あり、左平5人(1品)、達率30人(2品)、恩率(3品)、徳率(4品)、扞率(5品)、柰率(6品)以上は銀花の冠飾を用いる。将徳(7品、紫帯)、施徳(8品、皂帯)、固徳(9品、赤帯)、李徳(10品、青帯)、対徳(11品)、文督(12品)、武督(13品)、佐軍(14品)、振武(15品)、克虞(16品、以上黄帯・白帯)と等級ごとに帯の色を分ける。恩率以下は定員がなく、それぞれ部司を分けて政務を分担する。
  • 内官には前内部・穀部・肉部・内掠部・外掠部・馬部・刀部・功徳部・薬部・木部・法部・後官部があり、外官には司軍部・司徒部・司空部・司寇部・点口部・客部・外舎部・綢部・日官部・都市部がある。都には万戸あり上部・前部・中部・下部・後部の5部に分かれ、それぞれ兵500人を統べる。5方にはそれぞれ方領1人(達率が務める)、郡将3人(徳率が務める)を置き、方の統兵は1200人から700人。
  • 服装は男子はほぼ高句麗と同じで、朝拝・祭祀には冠の両側に翅を加えるが軍事時には拝謁の礼を行わず、両手を地につけることを敬意とする。婦人の衣は袍でやや大きな袖を持ち、未婚者は髪を編んで頭の後ろに垂らし、既婚者は二筋に分ける。
  • 兵器は弓矢・刀・矟。騎射を重んじ学問も愛し、優れた者は文章を解し陰陽五行にも通じ、宋の元嘉暦を用いて寅の月を歳首とする。医薬・卜筮・占相の術も解し、投壺・樗蒲などの遊戯を行うが、とりわけ囲碁を好む。仏教寺塔は多いが道士はいない。
  • 税は布・絹・糸・麻・米などを、豊作・凶作に応じて差等をつけて徴収する。刑罰は反逆・敗走・殺人は斬首、盗みはその贓物の2倍を徴して流罪とし、姦通した婦人は夫の家に没収され婢とされる。婚姻の礼はほぼ中華の風俗と同じで、父母・夫の喪は3年、他の親族は埋葬が終われば服を脱ぐ。
  • 土地は低湿で気候は温暖、五穀・果菜・酒醴・薬品の類は多く内地と同じだが、駱駝・驢馬・騾馬・羊・鵝・鴨だけはない。王は四季の中月に天と五帝の神を祭り、毎年4回始祖仇台の廟を祭る。晋・宋・斉・梁が江左に拠っていた時代も北魏が中原にあった時代も、ともに使者を送り藩属を称え封拝を受けた。斉が東夏を支配した時代も王の隆は使者を通じ、隆の死後子の昌が立ち、建徳6年(577年)に斉が滅ぶと昌は初めて使者を送って方物を献じ、宣政元年(578年)にも使者を送って貢物を献じた。

  • 盤瓠の後裔とされ、その一族は繁殖して長江・淮水の間、汝水・豫州の郡に散在し、険阻な地に拠って害をなした。魏(北魏)が統制を失うと、その暴虐はいっそう激しくなった。冉氏・向氏・田氏はとりわけ勢力が盛んで、他も大きい者は万戸、小さい者でも千戸に及び、互いに勢力を誇り王侯を僭称し、三峡に屯拠して水路を断ち、荆州・蜀の往来者は道を借りねばならぬこともあった。
  • 太祖が伊水・瀍水の一帯を平定し声教が南の蛮に及ぶと、諸蛮は威勢を畏れてなびいた。大統5年(539年)、蔡陽の蛮王魯超明が帰順し、南雍州刺史とされ世襲を許された。11年(545年)、蛮の首長梅勒特が方物を貢いだが、まもなく蛮帥田杜清や沔漢の諸蛮が動揺し、大将軍楊忠がこれを撃破した。その後蛮帥杜青和は自ら巴州刺史を称し州を朝廷に帰属させたため、その称号のまま任じられたが、青和は後に反乱を起こし東梁州を包囲した。唐州の蛮田魯嘉も叛いて豫州伯を自称したが、王雄・権景宣らが前後して討伐平定した(詳細は泉仲遵・権景宣の伝にある)。
  • 魏の廃帝の初め、蛮酋樊舎が部落を挙げて帰順し、淮北三州諸軍事・淮州刺史・淮安郡公とされた。于謹らが江陵を平定した際、諸蛮が動揺したため豆盧寧・蔡祐らが討伐した。魏の恭帝2年(555年)、蛮酋宜民王田興彦・北荆州刺史梅季昌らが相次いで帰順し、興彦・季昌はともに開府儀同三司とされ、季昌は洛州刺史・石台県公の爵位を加えられた。
  • その後巴西の人譙淹が諸蛮を扇動して梁に帰属させ、蛮帥向鎮侯・向日彪らが呼応し、向五子王が信州を攻め陥落させ、田烏度・田都唐らは長江の交通を遮断し、文子栄は再び荆州の汶陽郡に拠って仁州刺史を自称し、隣州の刺史蒲微も挙兵して命に逆らった。田弘・賀若敦・潘招・李遷哲らが討伐平定した(詳細は敦・遷哲・楊雄らの伝にある)。武成の初め、文州の蛮が叛くと州軍がこれを平定した。まもなく冉令賢・向五子王らが再び白帝を攻め陥落させ、開府楊長華を殺害し反乱を起こしたため、前後して開府元契・趙剛らが討伐に出たが、一族は削がれても首謀者は除けなかった。
  • 天和元年(566年)、開府陸騰が王亮・司馬裔らを督して討伐した。騰は水陸両路で進み湯口に至り、まず使者を送って諭したが、令賢は城池を深く固め防備を厳しくし、長子西黎・次子南王に江南の険要の地に10城を築かせ、遠く涔陽の蛮と連携させて援軍とし、令賢自らは精鋭で水邏城を固守した。騰は諸将を集めて評議し、皆まず水邏を取ってから江南を経略しようとしたが、騰は「令賢は内に水邏の堅固な守り、外に涔陽の後援を恃み、資糧・器械も充実している。我らが孤軍で堅塁を攻めて一戦で勝てなければ、逆に敵の士気を高めるだけだ。湯口に駐屯してまず江南を取り敵の羽翼を削いだ上で水邏を攻めるのが勝算のある策だ」と説き、皆が同意した。
  • そこで開府王亮に江を渡らせ、10日で8城を陥落させ、賊は逃散し賊帥冉承公と生口3000人を捕らえ部衆1000戸を降した。続いて精鋭を選び水邏へ向かったが、途中の石壁城は険阻で唯一小道が梯子のように通じるのみとされ蛮族も兵の通行は無理と考えていた。騰は自ら甲冑を着けて先陣を切り、危険な道を越えるのに数か月を要してようやく旧道に至った。騰は以前隆州総管を務めた際、蛮帥冉伯犁・冉安西が令賢と不和であることを知っており、彼らを誘って義理の父子の関係を結び金帛を贈った。彼らは喜んで道案内を務めた。
  • 水邏の傍らにある石勝城も要害で、令賢は甥の龍真に守らせていたが、騰は密かに龍真に「水邏を平定した後、令賢の地位を代わりに与える」と誘い、龍真は喜んで子を騰の元へ送り、騰は厚く礼遇し金帛を与えた。龍真は「拠っている城を寝返らせたいが兵力が足りない」と請い、騰は300人の兵を貸与、さらに夜中に2000人を密かに進ませたところ龍真は防ぎきれず石勝城は陥落した。翌朝水邏に至ると蛮衆は大潰し、首級1万余、捕虜1万人を得た。令賢は逃走したが追撃され捕らえられ、子弟らとともに斬られた。司馬裔もまた別に20余城を陥落させ蛮帥冉三公らを捕らえ、騰は水邏城の傍らに屍骸を積んで京観(見せしめの塚)とし、以後蛮蜑はこれを見ると号泣し、以前の凶暴さを改めたという。
  • この時向五子王は石黙城に拠り、子の宝勝に双城を守らせていたが、水邏平定後も再三の勧告に従わなかった。騰は王亮に牢坪、司馬裔に双城を屯守させ、双城が孤高で攻めがたく、賊が城を捨てて逃げれば追討が難しいと考え、諸軍に周囲を柵で囲ませ逃走路を絶った。賊は驚愕し、兵を放って撃破、五子王を石黙で捕らえ、宝勝を双城で捕らえ、向氏の首領はことごとく斬り1万余人を生け捕った。信州はもと白帝に治所があったが、騰はさらに劉備の旧宮城の南、八陣の北、江岸に城を築いて信州の治所を移し、巫県・信陵・秭帰も峡中の要地であることから城を築いて防衛の拠点とした。天和6年(571年)、蛮の渠帥冉祖喜・冉龍驤が再び叛いたが、大将軍趙誾が討伐平定した。以後諸蛮は畏れ服し、二度と侵犯しなかった。

  • 南蛮の別種で、漢中から邛笮に至る川と洞窟の間に広く分布する。姓氏を区別せず名も持たず、生まれた男女を長幼の順で「阿謩」「阿叚」(男性)、「阿夷」「阿第」(女性)などと呼び分ける。喜べば群がり集まり、怒れば互いに殺し合い、父子兄弟であっても刃を交える。互いに掠め売買し合い、親族すら例外ではない。売られた者が号泣して従わず逃げようとすると、買い手が指図して捕まえさせ、まるで逃亡者を追うようにする。一度捕らえられれば服従して奴隷となり、良民を名乗ることはない。
  • 鬼神を畏れ淫祀を尊び、巫祝への奉仕のため兄弟・妻子を売り尽くし、最後は自らを売って祭祀の費用に充てる者もいる。往々にして一人の酋帥を推して王とするが、遠く広くは統率できない。江左(南朝)から中原に至るまで巴蜀にはこの類が多く、険阻を恃んで服さなかった。太祖が梁益(益州)を平定した後、その地の民を慰撫し、中華の民と雑居する者には賦役を課したが、天性が暴乱で動揺しやすく、毎年近隣の州鎮に命じて討伐させ、捕虜を奴隷に充て「圧獠」と呼んだ。その後往来する商人もこれを商品として扱い、公卿から庶民に至るまで獠の奴婢を持つ家は多かった。
  • 魏の恭帝3年(556年)、陵州の木籠獠が反乱し、開府陸騰が討伐して1万5000人を捕らえ斬った。保定2年(562年)、鉄山の獠が再び反乱し長江の路を遮断したが、陸騰が再び3城を陥落させ、3000人を捕らえ3万落を降した(詳細は騰伝)。天和3年(568年)、梁州恒稜の獠が叛き、総管長史趙文表が討伐に向かった。
  • 文表が巴州に着くと軍中の意見は四方から包囲攻撃すべきだとしたが、文表は「これまで四面から攻めても制圧できなかった。今度は違う方法を取るべきだ。四方から兵を出せば獠は降伏の道を絶たれ死ぬまで戦うだろうが、一路から進めば威と恩を示すことができる。使者を送って理を説き、悪を為す者は討ち帰順する者は慰撫すれば、善悪が分かれ経略もしやすくなる」と述べ、この方針を軍中に伝えた。文表軍中には恒稜獠と親しい熟獠がおり、これに実情を報告させた。恒稜の獠が対応を協議している間に文表軍はすでに国境に至った。
  • 獠の地には2つの道があり、一方は平坦、一方は険阻であったが、生獠の酋帥数人が来て「官軍が山川を知らないだろうから道案内する」と申し出た。文表は「この道は広く平坦で案内は不要、まず戻って子弟を慰めてやりなさい」と告げ帰した。その上で「先に平坦な道を勧めてきたのは伏兵を仕掛けている証拠、逆に険しい道を進めば敵の意表を突ける」と述べ、険道を進んで通じぬ箇所を随時整備し、高所から見張ると実際に伏兵があった。獠は策が破れたと知り妻子を連れて険要へ退いたが、文表は大蓬山下に軍を止めて禍福を説き、獠はこぞって降伏した。文表は彼らを慰撫し税租を徴したが誰も動揺しなかった。後に文表は蓬州刺史に任じられ獠との関係をさらに良好にした。建徳の初め李暉が梁州総管となると諸獠も帰順したが、その種族は依然として繁殖し、岩窟や谷間を拠点として林を平地のように駆け抜けるため、たびたび討伐しても根絶することは難しく、性質は無知で禽獣に近く、諸夷の中でも最も道義で懐柔しがたい存在であった。

宕昌

  • 宕昌の羌はその先祖が三苗の末裔とされ、周代には庸・蜀・微・盧など8国とともに武王に従い商を滅ぼした。漢代には先零・焼当などが世々辺境の患いとなった。地は東は中華に接し西は西域に通じ、南北数千里に及び、姓ごとに部落を成しそれぞれ酋帥を立て、互いに統属しない。宕昌はその一つである。
  • 土着の風習を持ち、棟のある家に住み、屋根は犛牛の尾や羖羊の毛で織って覆う。国には法令も徭役もなく、征伐の時のみ集結し、平時はそれぞれ生業を営み往来もない。皆裘褐を着て犛牛・羊・豚を放牧して食とする。父子・伯叔・兄弟が死ぬと、その継母・世叔母・嫂・姉妹らを妻とする。文字はなく草木の栄枯で季節を記録し、3年に一度集まって牛羊を殺して天を祭る。
  • 梁勒という者が代々酋帥となり羌の豪族の心を得て自ら王を称した。その境界は仇池以西東西千里、帯水以南南北800里、山地が多く部衆は2万余落。梁勒の孫彌忽が初めて北魏に通使し、太武帝はその称号をそのまま授けた。彌忽から仚定まで9代、代々朝貢を続けたが、両魏(東西魏)が分裂すると背き始めた。
  • 永熙末年(西魏成立前)、仚定は吐谷渾を引き入れて金城を侵し、大統の初め(535年頃)にも部族を率いて侵入したため、行台趙貴が儀同侯莫陳順らを督してこれを撃破した。仚定は恐れて藩属を称し謝罪、太祖はこれを許し撫軍将軍を授けた。大統4年(538年)、仚定は南洮州刺史・要安蕃王とされ、後に洮州は岷州と改称され仚定はそのまま刺史とされた。同年、秦州の濁水羌が反乱を起こし州軍が討伐平定した。
  • 大統7年(541年)、仚定は再び挙兵し侵入したため、隴右鎮守の独孤信に討伐が命じられたが、軍が到着する前に仚定は部下に殺され、信はその余党を破った。朝廷は異俗の懐柔を図り、仚定の弟彌定を宕昌王とした。大統16年(550年)、彌定の同族獠甘がその位を奪い、彌定は出奔した。以前、羌の酋長傍乞鉄忽らは仚定の反乱に乗じて渠林川に拠り、渭州の民鄭五醜と共に諸羌を扇動して抗命していたが、この時大将軍宇文貴・豆盧寧・涼州刺史史寧らが討伐を命じられ、獠甘らを捕らえ斬り、彌定を復位させて帰還した(詳細は貴らの伝にある)。その後羌の酋長東念姐・鞏亷・俱和らが反乱し、大将軍豆盧寧・王勇らが討伐平定した。
  • 保定の初め、彌定は使者を送って方物を献じ、3年には猛獣を生きたまま献上、4年には彌定が洮州を侵したが総管李賢が撃退し、同年彌定はさらに吐谷渾を引き入れて石門戍を侵したが、賢が再び破った。高祖は怒り大将軍田弘に討伐を命じてこれを滅ぼし、その地を宕州とした。

鄧至

  • 鄧至の羌は羌の別種で、像舒治という者が代々白水の酋帥となり自ら王を称した。地は北は宕昌に接し、風俗・物産も宕昌とほぼ同じ。舒治から檐桁まで11代、魏の恭帝元年(554年)檐桁が国を失って帰順したため、太祖は章武公導に兵を率いて送り返させ復位させた。

白蘭

  • 白蘭は羌の別種で、地は東北で吐谷渾に接し、西北は利模徒に至り、南は那鄂に境を接する。風俗・物産は宕昌とほぼ同じ。保定元年(561年)、使者を送って犀甲・鉄鎧を献じた。

  • 氐は西夷の別種で、夏・殷・周三代の頃から自らの君長を持ち、代々一度だけ朝見していたという。『詩経』に「彼の氐羌より、敢えて来王せざる莫し」とあるのはこれを指す。漢の武帝がこれを滅ぼしその地を武都郡とした後、汧水・渭水から巴蜀にかけて種族が広く分布した。漢末、氐帥楊駒が初めて仇池百頃に拠り最も強力な一族となり、その後勢力を増して自ら王を称し、子孫の楊纂の代に符堅に滅ぼされた。符堅の没後、族人の楊定が再び王を称したが乞伏乾帰に殺され、定の従弟楊盛が国を継ぎ、代々北魏の封拝を受け江左(南朝)とも通使したが、部族は分散し離反と帰順を繰り返し、隴・漢の一帯はしばしばその害を被った。
  • 盛の子孫楊集始は北魏に武興王に封じられ、集始の死後子の紹先が立ち大号を僭称したが、魏将傅豎眼に滅ぼされ紹先は捕らえられ京師に送られ、その地は武興鎮とされた。北魏の洛陽遷都後に天下が乱れると紹先は武興へ逃げ帰り自ら王を称した。太祖が秦隴を平定すると紹先は藩属を称し妻子を人質に送った。大統元年(535年)、紹先は妻女の返還を請い、太祖は魏帝に奏して許した。紹先の死後子の辟邪が立った。
  • 大統4年(538年)、南岐州の氐符安寿が反乱し武都を攻め陥落させて太白王を自称したため、大都督侯莫陳順と渭州刺史長孫澄が討伐平定し、安寿は部衆を率いて降った。9年(543年)、清水の氐酋李鼠仁が険阻に拠って乱を起こし、氐帥梁道顕が叛いて南由を攻めたが、太祖は典籤趙昶を送って慰諭し、鼠仁らは相次いで帰順した(詳細は昶伝)。11年(545年)、武興に東益州を置き辟邪を刺史とした。15年(549年)、安夷の氐が再び叛き、郡守であった趙昶が首謀者20余人を捕らえ斬るとその余衆は治まった。昶を南秦州の事務代行とすると、氐帥蓋閙らが反乱を起こし北谷に拠り、その党覃洛は洮中に集結、楊興徳・符雙は平氐城を囲み、姜樊噲は武階を乱し、西は宕昌の羌と結び獠甘を推して蓋閙を主とした。昶は使者を分けて禍福を諭した上で討伐し蓋閙を捕らえその余党を散らした。興州の反乱氐は再び南岐州に迫り、刺史叱羅恊が急を告げると昶は兵を率いて救援しこれを大破した。
  • これより先、氐の首領楊法深は陰平に拠り自ら王を称していた(盛の末裔)が、北魏の孝昌年間(525-528年)に部族を挙げて帰順し、以後朝貢を絶やさなかった。廃帝元年(552年)、法深は黎州刺史とされたが、2年(553年)楊辟邪が州に拠って反乱し諸氐もこれに呼応したため、叱羅恊と趙昶が討伐平定した。太祖は大将軍宇文貴を大都督・六州諸軍事・興州刺史とし、貴の威名の高さに諸氐は畏服した。この年、楊法深は尉遅迥に従い蜀を平定し軍が帰還すると法深は鎮を旋回したが、まもなく同族の楊崇集・楊陳侳と互いに攻め合い、成武沙三州諸軍事・成州刺史であった趙昶が使者を送って和解させ、法深らは従い、その部落を分けて州郡を新設し配置した。
  • 魏の恭帝末(556年頃)、武興の氐が反乱し利州・鳳州・固道を包囲し、氐の魏天王らも呼応して集結したが、大将軍豆盧寧らが討伐平定した。世宗(明帝)の時代、興州人叚吒と下辯・柏樹の二県の民が反乱し蘭皋戍を破り、氐酋姜多は厨中の氐蜀を率いて落叢郡を陥落させ呼応したため、趙昶が討伐平定し二県を平らげ叚吒を斬った。しかし陰平・盧北の二郡の氐は依然屯集し厨中と呼応していたため、昶は精鋭騎兵を選び不意を突いて厨中の大竹坪に入り7柵を連破しその渠帥を誅し、二郡は降った。しかし昶が引き返すと厨中の主氐は再び侵掠を行い、昶は儀同劉崇義・宇文琦に兵を率いて厨中を討伐させ、姜多や符肆王らを斬り、諸氐はことごとく平らげられた。王謙が沙州で挙兵すると、氐帥開府楊永安も州に拠って呼応したが、大将軍逹奚儒が討伐平定した。

稽胡

  • 稽胡は別名「歩落稽」ともいい、匈奴の別種で劉元海(劉淵)の五部の末裔とされる(一説に山戎・赤狄の後裔とも)。離石以西から安定以東の700〜800里に山谷を居所として繁殖した。土着で農耕も行うが桑蚕は少なく麻布が多い。男性の衣服と葬送の礼は中華とほぼ同じだが、婦人は多く蜃貝を耳飾り・頸飾りとする。中華の民と雑居し、渠帥はかなり文字に通じるが言葉は夷狄の類で通訳を要する。無礼で貪欲で残忍な風があり、淫らな風習を好み特に処女に著しい。嫁ぐ前夜に情人と別れを告げる風習があり、経験が多いほど貴ばれるとされる。嫁いだ後は監視が厳しく姦通は懲罰され、兄弟が死ぬとその妻を娶る。郡県に編入されてはいるが徭役は軽く一般民とは異なり、山谷の険しい地の者は帰服していないものも多く、凶暴で険阻を恃みしばしば侵犯を働いた。
  • 北魏の孝昌年間、劉蠡升という者が雲陽谷に拠り自ら天子を称し年号を立て百官を置いた。魏の政治が乱れ討伐できずにいる間に蠡升は部衆を分けて汾晋の間を略奪させ、平穏な年がなかった。斉の神武帝(高歓)は鄴遷都後に密かに謀を巡らせ、偽って娘を蠡升の太子に嫁がせると約束し、蠡升はこれを信じて子を鄴へ送った。神武帝は厚遇しつつ婚期を引き延ばし、蠡升が和親を頼みに油断していた大統元年(535年)3月、神武帝は密かに軍を送って襲撃し、蠡升は軽騎で出て兵を集めようとしたが部下の北部王に殺され首を神武帝に送られた。残った部衆は蠡升の第三子南海王を主に立て抵抗したが神武帝はこれも滅ぼし、偽主とその弟西海王、皇后・夫人・王公以下400余人を捕らえ鄴へ連行した。
  • 河西に住む者は険阻を恃んで服さぬ者が多く、太祖は当時斉の神武帝と対立し余裕がなかったが、黄門郎楊忠を遣わして慰撫させた。大統5年(539年)、黒水の部衆がまず叛き、7年(541年)には別帥・夏州刺史劉平伏が上郡に拠って反乱を起こし、以後北山諸部が連年侵犯を続けたため、太祖は李逺・于謹・侯莫陳崇・李弼らを相次いで討伐に遣わし平定させた。
  • 武成の初め、延州の稽胡郝阿保・郝狼皮がその種族を率いて斉に帰属し、阿保は自ら丞相を、狼皮は自ら柱国を称し、別部の劉桑徳と呼応した。柱国豆盧寧が諸軍を督し延州刺史高琳と共に撃破した。2年(560年)、狼皮の残党が再び叛くと大将軍韓杲が討伐し多くを捕らえ斬った。保定年間、離石の生胡がしばしば汾北を侵したため、勲州刺史韋孝寛は険要に城を築き兵糧を置いてその道を遮った。楊忠が突厥と共に斉を伐った際、稽胡らが再び抗命し糧秣の供給を拒んだが、忠は「突厥と共に引き返して討伐する」と偽って酋帥を脅すと、彼らは恐れて供給を再開した(詳細は忠伝)。
  • その後丹州・綏州・銀州などの胡族と蒲川の別帥郝三郎らが度々反抗したため、逹奚震・辛威・于実らが討伐しその種族を散らした。天和2年(567年)、延州総管宇文盛が銀州に城を築くと、稽胡の白郁久同・喬是羅らがこれを襲おうとしたが盛は討ち斬り、別帥喬三勿同らも破った。5年(570年)、開府劉雄が綏州に出て北辺の川路を巡検すると、稽胡帥喬白郎・喬素勿同らが黄河を渡って迎え撃ったが雄はこれを再び破った。
  • 建徳5年(576年)、高祖は晋州で斉軍を破り勝ちに乗じて追撃した際、斉軍が捨てた甲仗を収める暇がなく、稽胡がこれに乗じて盗み取り、劉蠡升の孫没鐸を主に立て「聖武皇帝」と号し年号を石平とした。6年(577年)、高祖が東夏(斉)を平定した後これを討伐しようとし、根拠地を根絶やしにする議もあったが、斉王憲が「種族は多く山谷が険阻で全滅は困難、まず首魁を除き余は慰撫すべき」と進言し、高祖もこれに従った。憲を行軍元帥とし趙王招・譙王儉・滕王逌らを総管として討伐に向かわせた。憲軍が馬邑に至ると分道して進み、没鐸は党の天柱に河東を、大帥穆支に河西を守らせて憲軍を挟撃しようとしたが、憲は譙王儉に天柱を、滕王逌に穆支を攻めさせいずれも破り首級1万余を得た。趙王招もまた没鐸を捕らえ、残党は全て降った。宣政元年(578年)、汾州の稽胡帥劉受羅千が再び叛いたが越王盛が討伐し捕らえ、以後侵犯は治まった。

厙莫奚

  • 厙莫奚は鮮卑の別種で、その先祖は慕容晃に敗れて松漠の間に逃れ、後に種族が増え5部に分かれた(辱紇主・莫賀弗・契箇・木昆・室得)。各部にはそれぞれ俟斥1人を置き、阿会氏という者が最も豪帥として五部を統率し、突厥に服属しつつ契丹としばしば互いに攻め合い、財畜を奪い合った戦功に応じて賞を与えた。死者は葦の簀で屍を包んで木に懸ける。大統5年(539年)、使者を送って方物を献じた。

史論

  • 史臣曰く――民は天地の形を受け陰陽の霊気を稟け、愚智は自然に本づき、剛柔は水土に係る。それゆえ雨露の恵みと風気の通う地では大河が骨格となり五岳が鎮座し、これを「諸夏」と呼ぶ。そこに生まれる者には仁義が備わる。一方、昧谷・嵎夷・孤竹の地、北の果てから丹徼・紫塞、滄海・交河に隔てられた地を「荒裔」と呼び、その気に感じる者には凶徳が生じる。
  • 九夷・八狄は種族が繁殖し、七戎・六蛮は辺鄙に満ちる。風土や嗜好は異なっても、貪欲で飽くことなく、荒々しく乱を好み、強ければ抵抗し弱ければ服従する点は共通している。これは天の定めたところであろう。