周書卷四十八 列傳第四十 蕭巋

蕭巋、字は仁逺。察の第三子(?–585年、在位562–585年)。西梁2代皇帝で、陳との抗争に苦しみつつ江陵を守り抜き、北周・隋には巧みな弁舌で厚遇を得た。廟号世宗、諡は孝文皇帝。

年表(7件)
  • 即位元年562年祖母龔氏を太皇太后、嫡母王皇后を皇太后に尊ぶ
  • 5年566年陳の華皎の帰順を受け陳討伐に出兵するも沌口で敗れる
  • 8年569年陳の章昭逹の江陵攻撃を撃退する
  • 10年571年華皎の請いにより北周から基・平・鄀三州を与えられる
  • 開皇2年582年娘が隋の晋王(後の煬帝)妃に迎えられる
  • 開皇4年584年長安に入朝し隋文帝に厚遇される
  • 開皇5年5月585年在位23年、44歳で薨去。諡は孝文皇帝、廟号世宗

即位と陳との抗争

  • 蕭巋、字は仁逺、察の第三子。機知と弁舌に優れ文学を好み、人を撫でるのに巧みで臣下の心を得た。
  • 即位元年(562年)、祖母の皇太后龔氏を太皇太后と尊び、嫡母の王皇后を皇太后と、生母曹貴嬪を皇太妃とした。同年5月に太皇太后が薨じ諡は元太后、9月に皇太妃も薨じ諡は孝皇太妃、2年(563年)に皇太后が薨じ諡は宣静皇后。
  • 5年(566年)、陳の湘州刺史華皎と巴州刺史戴僧朔がともに帰順し、皎は子の玄響を人質に出して陳討伐の兵を請うた。巋がこの事情を高祖(北周武帝)に上言すると、高祖は衛公直(宇文直)に荆州総管権景宣・大将軍元定らを率いて応じさせ、巋も柱国王操に水軍2万を率いさせ皎と巴陵で合流させた。陳の将呉明徹らと沌口で戦い、直の軍は敗れ元定は失われ、巋の大将軍李広も陳に捕らえられた。長沙・巴陵はともに陳に陥落した。衛公直は敗戦の責任を巋の柱国殷亮に帰し、巋はこれが亮一人の罪ではないと感じつつも命に逆らえず殷亮を誅した。
  • 呉明徹は勝ちに乗じて巋の河東郡を攻略し、太守許孝敬を捕らえた。翌年、明徹は江陵を攻めて水を引き城を浸させ、巋は紀南に退いてその鋭鋒を避けた。江陵副総管高琳と尚書僕射王操が守り抜き、巋の馬軍主馬武吉らが明徹を撃破すると明徹は公安に退き、巋は江陵へ戻った。
  • 巋の8年(569年)、陳は司空章昭逹を遣わして再び江陵を攻めたが、総管陸騰と巋の将士がこれを撃退した。昭逹はさらに章陵の青泥を侵したが、巋は大将軍許世武を派遣して大破させた。かつて衛公直に従い陳と戦って敗れた華皎・戴僧朔は数百人の部下と共に巋に帰順し、巋は皎を司空・江夏郡公に、僧朔を車騎将軍・呉興県侯に封じた。
  • 巋の10年(571年)、皎は入朝の途中襄陽で衛公直に「梁主(巋)はすでに江南の郡を失い民少なく国貧しい。斉桓公が衛を復興し楚荘王が陳を復興したように、朝廷が滅んだ国を興し絶えた家を継がせるのは当然の道理であり、数州を貸して梁国を助けるべきだ」と請うた。直はこれに同意し高祖に上奏、高祖はこれを許し基・平・鄀三州を巋に与えた。
  • 高祖が北斉を平定した後、巋は鄴に入朝したが、高祖は礼遇はしたものの重んじてはいなかった。巋はこれを察し、宴席の折に父(察)が太祖の救援の恩を受けたことや両国が唇歯の関係にあることを弁舌巧みに語り涙を流したため、高祖も感激して涙し、以後は大いに巋を重んじるようになった。
  • のちの宴で北斉の旧臣吒列長乂が同席した際、高祖が巋に「これはお前の父(詧=察)を城壁の上から罵った男だ」と言うと、巋は「長乂は自分の主君(桀のごとき暴君)にすら仕え切れなかったくせに、堯(高祖)に吠えるとは」と切り返し、高祖は大笑いした。酒が進むと高祖は自ら琵琶を弾き「梁主のために存分に楽しませよ」と言い、巋が立って舞を願うと、高祖は「梁主が朕のために舞えるのか」と尋ね、巋は「陛下が自ら五絃を親しく奏でられるのに、臣がどうして百獣(舜の朝廷で音楽に合わせ舞ったという故事)に倣わずにいられましょう」と答え、高祖は大いに喜び雑繒万段・良馬数十匹を与え、さらに斉の後主の妓妾や日頃愛用の五百里の駿馬まで与えた。

北周・隋との関係と晩年

  • 隋の文帝(楊堅)が政権を握ると、尉遅迥・王謙・司馬消難らが各地で挙兵した。この時巋の将帥たちは密かに迥らと連携して挙兵することを勧めたが、巋は不可としてこれに従わなかった。まもなく司馬消難は陳へ亡命し、尉遅迥らは相次いで滅ぼされた。
  • 隋文帝は即位後、巋への恩礼をますます厚くし、金300両・銀1000両・布帛万段・馬500匹を使者に持たせて贈った。開皇2年(582年)、隋文帝は礼を尽くして巋の娘を晋王(後の煬帝)妃に迎え、また自らの子瑒を蘭陵公主に娶わせようとした。これに伴い江陵総管府は廃止され、巋は単独で国を統治した。
  • 開皇4年(584年)、巋は長安に入朝し、隋文帝は厚く遇し、諸王公の上位に位置づけ、縑万匹と珍宝を与えた。帰国の際、文帝は自ら巋の手を執り「梁主は久しく荊楚の地に留まって旧都に戻れずにおられる、故郷への思いはさぞ深いだろう。朕がやがて長江に軍を進めた折には送り届けよう」と語った。
  • 巋は在位23年、44歳で開皇5年(585年)5月に薨じた。群臣は顕陵に葬り、諡は孝文皇帝、廟号世宗とした。
  • 巋は孝悌慈仁で君主の器量があり、四時の祭祀には常に涙を流して先祖を偲んだ。臣下を治めるに方策があり国内は治まったと評された。文集のほか孝経・周易の注釈、大乗・小乗の教義に関する著作が広く行われた。隋文帝は太子蕭琮に位を継がせ、年号を広運とした。