周書卷四十八 列傳第四十 蕭察

蕭察、字は理孫。梁の昭明太子蕭統の第三子(519年頃–562年)。侯景の乱の混乱の中、拠点の襄陽を基盤に自立し、梁元帝と対立、江陵を攻めるも敗れて西魏に藩属を求めた。西魏の援助で江陵に立ち皇帝を称し、西梁(後梁)の初代皇帝となった。廟号中宗、諡は宣皇帝。

年表(11件)

出自と生い立ち

  • 蕭察、字は理孫、蘭陵の人。梁の武帝の孫、昭明太子蕭統の第三子として519年頃に生まれた。
  • 若くして学を好み文章に優れ、とりわけ仏教教義に通じ、梁武帝から特に高く評価された。
  • 梁の普通6年(525年)曲江県公に封じられ、中大通3年(531年)岳陽郡王に進んだ。
  • 宣恵将軍、石頭戍事、琅邪・彭城二郡太守、東揚州刺史を歴任した。
  • 昭明太子の死後、梁武帝は察の兄弟を退けて簡文帝を立てたことを内心恥じ、他の子と同等以上の寵愛を与えようとし、人物・物産の豊かな会稽に任じて心を慰めた。察は自らの兄弟が嗣子になれなかったことを不満に思い、また梁武帝の老衰と朝政の乱れから国家の衰亡を予感し、密かに財貨を蓄え賓客と交わり、豪傑を招いて味方につけ、その数は数千人に及んだ。

襄陽刺史時代

  • 中大同元年(546年)、雍・梁・東益・南北秦の五州および郢州竟陵・司州随郡の軍事を都督する持節、西中郎将、寧蛮校尉、雍州刺史に任じられた。察は襄陽が地の利に優れ梁武帝挙兵の地でもあることから、平時には根拠地に、乱世には覇業の基とできると考え、自ら節度を律して民心を得ようと刑政を修めた。教書を下し、賢者の意見を広く聴き民の苦しみを察すること、不正な官吏・将帥・市場の横暴を取り締まること、諫言を求めることなどを説き、雍州の内は治まったと評された。

張纘との抗争

  • 太清2年(548年)、梁武帝は察の兄で湘州刺史の河東王蕭誉を留任させ、雍州刺史張纘を代わりに移した。纘は才望を恃んで驕り、誉を軽んじて赴任時の出迎えが不十分だったことを恨みに思われ、誉は病と称して纘に会わなかった。侯景の乱が起こると誉は纘を圧迫し、纘は捕らえられるのを恐れて夜舟で雍州へ逃れようとしたが、察に拒まれることを恐れた。
  • 梁元帝(当時江陵鎮守)は纘と旧知の間柄であり、纘は元帝を頼ろうとした。折しも元帝・誉・信州刺史桂陽王蕭慥は各々兵を率いて建康救援に向かい、慥は三峡を下って江津に至り、誉は江口に進み、元帝は郢州武成に至ったところで侯景が和議を請い梁武帝が援軍を停止させたため、誉は江口から湘州へ戻ろうとし、慥は元帝の到着を待ってから帰ろうとした。この時江陵にいた纘は元帝に書を送り、「河東王(誉)が上流から江陵を襲おうとしており、岳陽王(察)が雍州で呼応を謀っている、桂陽王(慥)も誉に応じるつもりだ」と告げた。元帝はこれを信じ、船を沈め纜を断って江陵に急行し、慥を捕らえて殺害、子の蕭方等・王僧辯らに命じて誉を湘州で攻めさせた。誉は察に急を告げ、察は激怒した。
  • 元帝が建業救援のため諸州に出兵を命じた際、察は府司馬劉方貴に前軍を率いて漢口へ出させたが、出発直前に元帝の諮議参軍劉㲄が察に自ら出陣するよう促すと、察はこれに従わず元帝の怒りを買った。方貴はもとより察と不仲で元帝と密通しており、察を襲う密約を交わしていたが、事が漏れたと疑って樊城に拠って反乱を起こした。察は魏益徳・杜岸らに攻めさせ、方貴は窮して子を江陵へ送り援軍を求めた。元帝は纜に厚い供給を与えて赴任を装わせつつ密かに方貴を援けさせたが、纜が大堤に至った時には樊城はすでに陥落しており、察は方貴兄弟とその一党をことごとく捕らえて斬った。
  • 纜はそのまま雍州(自分の任地)に進んだが、察は交代を認めず、纜を西城に住まわせて礼遇しつつも軍民の実権は握り続けた。察は兄弟間の争いの元凶を纜と見なし密かに討とうとしたため、纜は恐れて元帝に召還を求め、元帝は纜を呼び戻そうとしたが察はこれを留めて手放さなかった。
  • 杜岸兄弟は纜を欺き、「雍州の民は岳陽王(察)の勢いに従うほかなく、いっそ西山に逃れれば人望を集めて帰還できる」と説いた。纜はこれを信じ杜岸らと盟を結び、雍州の席引らを西山に糾合した。纜は婦人の服を着て青布の輿に乗り、十数人の側近と共に出奔したが、席引らと杜岸がこれを察に急報し、察は中兵参軍尹正らに追討させ全員を捕らえた。纜は逃れられぬと悟り沙門となることを願い出た。
  • 誉が危急に陥ったため、察は諮議参軍蔡大寳に襄陽の留守を任せ、自ら2万の兵と千匹の馬を率いて江陵を攻め誉を救おうとした。当時江陵は外郭を囲む柵を築いていたが北面は未完成で、察はここを攻めた。元帝は大いに恐れ、参軍庾㚟を遣わして「正徳(侯景に与した者)が乱を起こし天下は崩れ去った。お前もその轍を踏むつもりか。先帝の恩顧によりお前ら兄弟を託されたのに、甥が叔父を討つとは何たる道理か」と詰らせた。察は「兄は無実でありながら攻囲を受けている、同胞としてこれを黙視できない。叔父が先帝の恩を顧みるなら、湘水まで兵を退いてくれれば私も襄陽へ引き上げる」と答えた。
  • 察は柵を攻めたが破れず、いったん退いて攻城の設備を築き再び総力で攻めた。折しも大雨が降り水位が四尺に達し、察の軍は水浸しとなって士気を失った。将の杜岸・弟の杜幼安・甥の杜龕は察の敗色を見て一族ごと江陵に降った。察の軍は動揺し夜のうちに襄陽へ潰走し、多くの武器・物資を沔水に失った。察は以前から軍中に張纜を捕虜として留めていたが、退却前に纜を殺した。
  • 杜岸の投降に際して500騎で襄陽を奇襲する計画があり、城中がこれを察知した。蔡大寳は察の母である保林龔氏を助けて城壁を守らせた。夜襲に来た察本人を賊と誤認したが、夜明けにようやく察と分かって迎え入れた。杜岸らは察が戻ったことを知り、察の兄瓛のいる広平へ逃れたが、察は将の尹正・薛暉らに攻めさせ瓛を捕らえた。杜岸らとその母・妻子・娘は襄陽の北門で皆殺しにされ、杜氏の一族は幼い遠戚に至るまで辱めを受け、墓は暴かれ遺骨は焼かれ撒かれた。

西魏帰順と皇帝即位

  • 江陵との関係が決裂して自立の困難を悟った察は、大統15年(549年)西魏に使者を送り藩属を願い出た。太祖(宇文泰)は丞相府東閤祭酒栄権を使者として派遣し、察は大いに喜んだ。この年、梁元帝は柳仲礼に襄陽攻撃を命じ、察は恐れて妻の王氏と世子蕭嶚を人質に出して救援を求め、太祖は再び栄権を、続いて開府楊忠に兵を率いさせて援けた。
  • 大統16年(550年)、楊忠は仲礼を捕らえ漢東を平定し、察はようやく安堵を得た。朝議は察に父の喪を発表させ跡を継がせようとしたが、察は璽命(皇帝の命令)をまだ受けていないとして辞退した。栄権は太祖に事情を詳しく報告し、太祖は仮の散騎常侍鄭穆と栄権に節を持たせ、察を梁王に冊立した。察は襄陽に百官を置いて統治を開始した。
  • 大統17年(551年)、察は蔡大寳に留守を任せて自ら西魏の朝廷に赴いた。太祖は「あなたがここに来られたのは栄権のおかげも大きい、会いたいか」と尋ね、察が喜んで応じると、太祖は栄権を召して「栄権は信頼できる人物で、私は彼が信義に背いたことを見たことがない」と述べた。察は「栄常侍は両国の意を偏りなく伝えてくれたからこそ、私は今こうして魏の朝廷に真に帰順できた」と答えた。
  • 魏の恭帝元年(554年)、太祖は柱国于謹に江陵攻撃を命じ、察も軍を率いて合流した。江陵が平定されると、太祖は察を梁の君主として立て、江陵の東城に居住させ、江陵一州の地を与え、それまで察が治めていた襄陽の地は西魏に帰属した。
  • 察はその国で皇帝を称し(555年)、年号を大定とした。父の統を昭明皇帝、廟号高宗と追尊し、妃の蔡氏を昭徳皇后と、生母の龔氏を皇太后と尊び、妻の王氏を皇后、子の巋を皇太子とした。賞罰・儀礼・官制はすべて皇帝の体裁に倣ったが、上表文だけは「臣」と称して西魏の正朔を奉じ、爵位は梁の旧制に、軍階は柱国など西魏の官号を併用した。叔父の邵陵王蕭綸を太宰に追贈し諡は壮武、兄の河東王蕭誉を丞相に追贈し諡は武桓とした。太祖は江陵に防衛の主将を置き西城に駐屯させ「助防」と称したが、これは表向き察を助けつつ実際には監視するものであった。
  • 江陵陥落以前、梁元帝の将王琳は湘州に拠って復興を図っており、察の即位後、部下の潘純陁・侯方児に江陵を侵させたが察はこれを撃退し、彼らは夏口に退いた。詧(察)の4年、察は大将軍王操に王琳の長沙・武陵・南平などの郡を奪取させた。5年、王琳は将の雷又柔に監利郡を襲わせ陥落させ、太守蔡大有はこの戦いで死んだ。その後王琳は陳と対峙して藩属を称え察に援軍を求め、察はこれを許したが出兵前に王琳の軍は敗れ、彼は北斉に亡命した。この年、皇太子巋は都へ入朝した。
  • 6年夏、正殿に雷が落ち200余人が圧死した。
  • 江陵平定の際、察の将尹徳毅は「君主の道は匹夫と異なり、匹夫は小さな評判のために小さな節義を守るが、君主は天下と社稷の安定を第一とすべきである。魏(西魏軍)は貪欲で残忍、江陵の捕虜を軍の資産として多数殺そうとしているが、彼らの親族は江東におり、その苦しみに殿下が関与したと見なされかねない。ここは于謹らの慰労の宴の隙をついて奇襲し、江陵を占拠して自ら民心を得た上で建業に入り帝位を継ぐべきだ、天の与える機会を逃してはならない」と進言したが、察は「その策は悪くないが魏には厚遇を受けており、恩義に背けば人心を失う」として退けた(鄧祁侯の故事を引いて答えた)。後に江陵の民が捕虜となり襄陽も失った際、察はこの進言を用いなかったことを悔いたという。
  • 察は国土の狭さに悶々とし、居城の荒廃を嘆き、自らの威勢の振るわぬことを恥じて憂憤の情を込めた「愍時賦」を著した。その内容は、自らの不遇な巡り合わせを嘆き、句践や重耳のような苦難の亡命者になぞらえて故郷への思いを述べ、旧都回復への願いと、それが叶わぬ現状への痛恨を訴えるものであった。
  • 察は在位8年、44歳で保定2年(562年)2月に薨じた。群臣は平陵に葬り、諡は宣皇帝、廟号中宗とした。
  • 察は大志を抱き小事にこだわらぬ性格で、猜疑心は強かったが人を見抜き適材適所に用い、将士を恩義で扱いその死力を得た。酒を飲まず倹素を旨とし、母への孝養に篤かった。女色を好まず特に女性を嫌い、数歩離れていてもその匂いを嗅ぐと避け、女性が着た衣は二度と着なかった。白髪の人を見るのも嫌い、機を見て避けた。東揚州刺史時代はやや放埓で、事務を軽視し戯言を好んだため世の批判を浴びた。文義を篤く好み、文集15巻と華厳・般若・法華・金光明経義疏46巻を著し世に広く行われた。国土が狭いことを常に不満とし、「老いた馬は厩に伏していても志は千里を駆けることにあり、烈士は暮年に至っても壮心を失わない」(曹操の詩句)と口ずさんでは歎息していたといい、最後は憂憤のあまり背中に腫物を発して薨じた。高祖はその太子巋に位を継がせ、年号を天保とした。