周書卷四十七 列傳第三十九 趙文深

趙文深、字は徳本。南陽宛の人。隷書・楷書の名手で、鍾繇・王羲之の書法に通じ、太祖の命で説文・字林により隷書を刊定した。江陵平定後は王褒の書風が流行し一時不遇となったが、碑牓の技量は他の追随を許さず、宮殿楼閣の題字を数多く手がけた。

年表(2件)
  • 大統十年立義帰朝の功により白石県男・食邑二百戸に封じられる
  • 天和元年露寢などの落成に際する題牓の功により食邑二百戸を増される

趙文深

  • 趙文深、字は徳本。南陽宛の人。父の遐は医術で魏の尚薬典御。文深は若くして楷隷を学び十一歳で魏帝に献書、立義帰朝で大丞相府法曹参軍。鍾繇・王羲之の書法に通じ筆勢優れ、当時の碑牓は文深と兾儁のみが手掛けた。大統十年立義の功で白石県男・食邑二百戸、太祖の命で黎季明・沈遐らと説文・字林により隷書を刊定し一万余言を著し世に行われた。江陵平定後王褒が入関すると貴族らはこぞって褒の書を学び文深の書は顧みられなくなり文深は慙恨したが、時流に逆らえず褒の書も学ぶも大成せず「邯鄲の歩みを学ぶ」と譏られた。しかし碑牓の技量は他者の及ばぬところで王褒自身もこれを推し、宮殿楼閣の題字は文深の手による。県伯下大夫・儀同三司、世宗の命で江陵の景福寺碑を書き漢南の人々や梁主蕭詧にも称賛され厚く賞された。天和元年露寢等落成の題牓の功で食邑二百戸増、趙興郡守として外任中も題牓のため呼び戻されることが続き、後病で卒した。

褚該

  • 褚該、字は孝通。河南陽翟の人、晉末江左に移住。祖の長楽は齊竟陵王録事参軍、父の義昌は梁鄱陽王中記室。謹厚で郷里に誉れ高く医術に優れ、梁に仕え武陵王府参軍から西上、蕭撝と共に帰国し平東将軍・左銀青光禄大夫、驃騎将軍・右光禄大夫、武成元年医正上士。許奭の死後姚僧垣に次いで重んじられ、天和初県伯下大夫、五年車騎大将軍・儀同三司。淹和な性格で驕らず請われれば必ず尽力し長者と称された。後病で卒し、子の士則も家業を継いだ。

強練・衛元嵩

  • 強練は出自不明の人物で、魏の李順興(予言で知られ「李練」と号された人物)に似ることから強練と呼ばれた。容貌長壮で言動は測り難く、意欲すれば誰にでも語り、拒めば強要しても答えず、その言は当初理解し難くとも後に験があった。諸仏寺に寄寓し民家や王公邸を巡り歩き人々に敬信された。晉公護(宇文護)誅殺前に瓠を割り「瓠破れて子(護の子ら)苦しむ」と予言、柱国平髙公侯伏侯龍恩の家で夫人・妾・婢僕を同席させ「みな同じ人、貴賤の別なし」と述べたが、まもなく護誅殺で龍恩の子らも死し家は没収された。建德中夜に街で釈迦牟尼を大声で哭し廃仏道の兆しを示したとされ、大象末底無き袋で市に喜捨を求め「盛んなる空を見せるだけ」と語り、隋開皇初都が龍首山に移り長安城が実際に空になったことが符合したという。行方は知れない。また蜀郡の衛元嵩も未来を語ることを好み江左の宝誌に類し、天和中詩を著し周隋の興廃と皇家(隋)受命を予言し的中したとされる。仏教を信じず上疏して極論したというが、その事跡は伝わらず伝を立てない。

史論

  • 史臣は評す。仁義の教化は大きく、術芸の効用も広い。これに従う者に非がないわけではなく、利を厚くする者には必ず害がある。詩書礼楽の失うところは浅いため先王はその徳を重んじ、方術技巧の失うところは深いため古の哲人はその技を軽んじた。方術に通じながら俗に堕さず、技巧を極めながら礼を踏み外さぬ者こそ大雅の君子であろう。姚僧垣は診候精審で一代に名を冠し多くの人命を救い、しかも弘く義方を尽くしたゆえ善き器と称され長寿と高位を享受した。老子の言う「天道は親しみなく常に善人に与する」は、まことに信ずべきである。