周書卷四十二 列傳第三十四 劉璠
劉璠、字は寶義。沛国沛の人。学問と文才に優れ、蕭曄・蕭循に仕えて記室・諮議参軍などを歴任した。武陵王蕭紀の蜀政権下でも用いられたが忠義を貫き、西魏に降った後は太祖に才を認められ厚遇された。梁典三十巻を著すが未完のまま天和三年、五十九歳で没し、子の祥がこれを完成させた。
出自と生涯
- 劉璠、字は寶義。沛国沛の人。六世祖敏は永嘉の喪乱で広陵に徙居した。父臧は方正篤志で学を好み、居家孝をもって聞こえ、梁天監初著作郎となった。璠は九歳で孤となり喪に居ること礼に合い、少にして読書を好み文筆を善くした。年十七、上黄侯蕭曄に器重された。范陽の張綰は梁の外戚で才高く口辯があり世に推されていたが、曄の懿貴であることをもってこれをも借り重んじた。璠は年少で未仕であったが才を負い気を負って屈しなかった。綰がかつて新渝侯の座で酒後京兆の杜騫を「寒士は不遜だ」と罵ると、璠は色を厲しくして「この座に誰が寒士でないと言うのか」と言った。璠の本意は綰に向けたものだったが、曄は自分に向けられたものと思い辭色は不平になった。璠は「いずれの王の門も長裾を曵かねばならぬわけではない」と言って衣を払って去ろうとしたが、曄が謝ったので止まった。その後曄に随い淮南にあった際、璠の母が建康で病になったが璠はこれを知らなかった。ある日忽然と全身を楚痛が襲い、まもなく家信が至って母の病を告げると、璠は号泣し道が絶えても蘇り、身の痛んだ時こそ母の死んだ日であった。喪に居て毀瘠し風気を感じ、服闋後一年もなお杖にすがってようやく起きられるほどであった。曄が毗陵で終わると故吏の多くは分散したが、璠は独り曄の喪を奉じて都に還り、墳が成って退いた。梁簡文帝は東宮にあった頃、曄を素より重んじており、喪を送らなかった諸吏は皆劾責されたが、璠だけは優賞された。王国常侍に解褐したが、これは本意ではなかった。璠は少にして慷慨、功名を好み辺城で事を立てることを志し、牒に随って平進することを楽しまなかった。宜豐侯蕭循が北徐州刺史に出ると、その輕車府主簿・記室参軍を兼ね刑獄をも領するよう請うた。循が梁州に転じると信武府記室参軍・南鄭令を除され、また中記室に板任され華陽太守を補された。侯景が江を渡ると梁室は大乱し、循は璠に才略があるとして甚だ親委した。当時寇難が繁興し定まるところがなかったため、璠は喟然と詩を賦して志を見せた。その末章は「隨会は王室を平らげ、管仲は覇を匡した。功は虚薄で時に用いられず、徒らに昔の風を慕う」という意であった。循は開府して佐史を置くと璠を諮議参軍として記室を兼領させた。梁元帝の承制で樹功将軍・鎮西府諮議参軍を授けられ、書を賜って「鄧禹は文学の身でありながらなお戈を執り、葛洪は書生でありながら賊を破ると言った、前修に遠く属望する、良に深いものがある」と述べた。梁元帝はまもなく循に鄱陽の封を紹がせ雍州刺史とし、また璠を循の平北府司馬とした。武陵王紀が蜀で称制すると璠を中書侍郎とし、召使いが八度往復してようやく璠は至った。蜀ではまた黄門侍郎とし、長史劉孝勝に深く腹心を布かせ、工に陳平が河を度って漢に帰る図を画かせて璠に贈った。璠は苦しんで中記室への還任を求めた。韋登は私かに「殿下(紀)は忍んで憾みを蓄えている、足下が留まれば大禍が至ろう。もし盗が葭萌を遮れば卿は殆いことになろう。ともに大廈を構えて身名ともに美なるに如かんや」と言ったが、璠は正色して「卿は私に緩頬しようというのか。私と府侯(循)とは分義がすでに定まっている、どうして寵辱・夷険をもってその心を易えようか。丈夫は志を立てれば死生をもってこれに従うのみだ。殿下はまさに大義を天下に布くところ、終に一人に志を逞しくすることはないだろう」と答えた。紀は璠が必ず自分に用いられないと知り、厚くこれに贈り遣わした。別れに臨み紀は佩刀を解いて璠に贈り「物を見て人を思うように」と言うと、璠は「あえて威霊を奉揚し姦宄を尅剪しないでいられましょうか」と答えた。紀はそこで使者を遣わし循を益州刺史に拝させ隋郡王に封じ、璠を循の府長史・加蜀郡太守とした。白馬西に還る途中、達奚武の軍がすでに南鄭に至り城に入れなかったため、ついに武に降った。太祖はかねてその名を聞いており武に先んじて「劉璠を死なせるな」と戒めていたため、武は先んじて璠を朝廷に赴かせた。璠が至ると太祖は旧知のように会い、僕射申徽に「劉璠は佳士だ、古人もこれに過ぎまい」と言うと、徽は「昔晉主が呉を滅ぼした利は二陸を得たことにあったが、明公は今梁漢を平らげ劉璠一人を得た」と答えた。当時南鄭はなお拒守して下らず、達奚武はこれを屠ることを請い、太祖はほぼ許そうとしたが、璠一家だけは全うするよう命じた。璠は朝廷にこれを請い、太祖は怒って許さなかったが、璠は泣いて固請し時を移しても退かず、柳仲禮が侍側にあって「これは烈士です」と言うと、太祖は「人に事えるとはこうあるべきだ」と言いついに許した。城が全うできたのは璠の力によるものであった。太祖は蕭循の降を納れまた反国を許したが、循は長安に累月留め置かれ遣わされなかった。璠が侍宴の折、太祖は「私は古の誰と比べられるか」と問うと、璠は「常には公が命世の英主で湯武にも及ばぬと申し上げたいところですが、今日拝見するにかえって斉桓・晉文にも及ばないようです」と答えた。太祖が「私は湯武に比べられないというのか、伊尹・周公に望みたいのに、どうして桓文にも及ばぬのか」と言うと、璠は「斉桓公は三亡国を存し、晉文公は原を伐つに信を失いませんでした」と答え終わらぬうちに、太祖は手を打って「私はお前の意が分かった、私を激励しようというのだな」と言った。そこで循を遣わす命令が出され、循は璠とともに還ることを請うたが太祖は許さず、璠を中外府記室とし、まもなく黄門侍郎・儀同三司に遷った。かつて病で臥床していた折、雪を見て感を興し雪賦を作って志を遂げた。その内容は、天地が否閉して凝り雪となる玄冬・沍寒の情景に始まり、雪山・雪宮の壮大な想像、飄颻と降り積もる様、朝陽を遮り陰の慘烈に就くさま、高卑を問わず物に沿って形を変え、深谷に凝り小山に春も残るさまなど、雪の変幻多彩な様相を詠じ、さらに雪にまつわる古の故事(趙王の璧・漢帝の金・牛馬を没する雪・李陵の故事など)を連ね、末尾では雪を賦することの困難と徒労を白頭吟の調べに寄せて詠嘆する内容であった。当初蕭循が漢中にあった頃、蕭紀への牋、および国家(西魏)への答書、襄陽への移文はいずれも璠の文であった。世宗初、内史中大夫を授かり綸誥を掌り、まもなく平陽県子・食邑九百戸に封ぜられた。職にあって清白簡亮で時流に合わず同和郡守に左遷された。璠は撫御を善くし、赴任して一年に満たぬうちに生羌の帰降者が五百余家に及んだ。前後の郡守は多く経営して貲産を致したが、璠だけは秋毫も取らず妻子とともに羌の俗に随い麦を食い皮を衣て終始変わらなかった。洮陽・洪和二郡の羌民は常に境を越えて璠に訴訟に来るほど、その徳化は他界にも帰仰された。蔡公広が隴右を鎮していた頃、璠の善政を嘉し、陝州に遷鎮する際璠を伴おうとすると、羌人で楽しんで従う者が七百人に及び聞く者は皆歎異した。陳公純が隴右に鎮すると総管府司録に引かれ甚だ礼敬された。天和三年卒、時に年五十九。梁典三十巻を著し集二十巻あり世に行われた。子の祥が嗣いだ。
- 祥、字は休徵。幼くして聡慧、占対俊辯、賓客はこれを見て皆神童と号した。嫡母に孝を尽くし、伯父の黄門郎璆が名を江左に知られ嶺南にあってこれを奇とし、祥と名づけ字を休徵とし後にその字で世に行われた。年十歳で文を屬すことができ、十二歳で五経に通じ、梁の宜豐侯主簿に解褐し記室参軍に遷った。江陵平定後例により入国し、斉公憲がその詞令を善くすることから記室に召され府中の書記を皆掌らせた。まもなく都督を授かり漢安県子・食邑七百戸に封ぜられ従事中郎に転じた。憲が王に進爵すると休徵は王友とされ、まもなく内史上士に除された。高祖の東征に休徵は帷幄に陪侍し、斉平定後の露布は休徵の文であった。累遷して車騎大将軍・儀同大将軍に至り、まもなく官を去って万年令を領し、朞年に満たず長安令に転じた。頻りに二県を宰めていずれも時誉を獲た。大象二年官位のまま卒、時に年四十七。もと璠が撰した梁典が完成しないうちに卒し、臨終の際休徵に「我が志を成すのはこの書にある」と言い、休徵はこれを修定・繕写して一家の書として完成させ世に行われた。