周書卷四十二 列傳第三十四 宗懍

出自と生涯

  • 宗懍、字は元懍。南陽湼陽の人。八世祖承は永嘉の乱に陳敏を討った功で柴桑県侯に封ぜられ、宜都郡守を除されまもなく官位のまま卒し、子孫はこれにより江陵に居した。父高之は梁山陰令。懍は少にして聡敏、読書を昼夜怠らず、語るたびに古事を引くため郷里は「小児学士」と呼んだ。梁普通六年(525年)秀才に挙げられたが二宮の元会に及ばなかったため対策の例に入れなかった。梁元帝が荊州を鎮する際、長史劉之遴に「貴郷には多士がいる、志ある少年を一人挙げてほしい」と言うと、之遴は懍をもって応え、即日引見され記室を兼ねさせた。かつて夕方召され省に宿し龍川廟碑を制するよう命じられ、一夜で作り上げ翌朝呈上すると梁元帝は嘆美した。江州に移鎮すると懍は刑獄参軍・掌書記を兼ね、臨汝・建成・広晉三県令を歴任し母の喪に遭って去職した。哭くたびに血を歐き二旬の内に絶えて蘇ることが三度あり、常に群烏数千が廬舎に集まり哭を候って来て哭が止むと去ったため、時論は孝感の致すところと称した。梁元帝が荊州を重んじ牧すると懍を別駕・江陵令とし、即位に及び尚書侍郎に擢され、また手詔で「昔扶柳の開国は故人と言うのみであった。西郷の胙土もまた賓客に由る。まして事は勲庸に渉り爵賞なきに至っては、尚書侍郎宗懍はしばしば帷幄の謀があり誠に股肱の寄せに深い。我に従い邁ること多くの歳時を歴た、信安県侯に封ずべきである」と述べ食邑一千戸を封ぜられた。吏部郎中・五兵尚書・吏部尚書に累遷。侯景平定後、梁元帝は建業に還ることを議したが懍だけが渚宮(江陵)への遷都を勧めた、これは彼の郷里が荊州にあったためである。江陵平定後、王襃らとともに関に入り、太祖は懍が南土に名重であることをもって甚だこれを礼した。孝閔帝踐阼で車騎大将軍・儀同三司を拝し、世宗即位でまた王襃らとともに麟趾殿で群書を刊定し、しばしば宴賜を蒙った。保定中卒、年六十四。集二十巻あり世に行われた。