周書卷四十二 列傳第三十四 柳霞

出自と生涯

  • 柳霞、字は子昇。河東解の人。曾祖卓は晉汝南太守で本郡より襄陽に移り住んだ。祖叔珍は宋員外散騎常侍・義陽内史。父季遠は梁臨川王諮議参軍・宜都太守。霞は幼くして爽邁で神彩は嶷然、髫歳にして成人の量があり篤く文学を好み動くごとに規矩に合った。世父慶遠は特にこれを器異し「私は昔太尉公(伯父)に仕えたが、かつて『私は夜、汝が一楼に登る夢を見た、楼はたいそう峻麗で私は座席を汝に与えた、汝は後に名宦必ず達しよう、私はそれを見られないのが恨めしい』と語られたことがある。私は先ほどうたた寝をして、また昔の座席をもって汝に賜る夢を見た、汝の官位はまさにまた私に及ぶだろう、特に励むべきだ、この嘉祥に応えるように」と言った。梁の西昌侯蕭深藻が雍州を鎮すると、霞は時に年十二、民の礼をもって謁を修め、風儀端粛で進止詳雅であった。深藻はこれを美とし、左右を試みに霞の衣裾を踐ませてその挙措を見たが、霞は徐歩してやや進むのみで顧眄することがなかった。廬陵王続が雍州刺史となると霞を主簿に辟し、平西邵陵王綸府法曹参軍から起家し外兵に転じた。尚書工部郎を除され、謝挙が僕射であった頃霞を引いて語り甚だこれを嘉し人に「江漢の英霊はここに見える」と言った。岳陽王蕭詧が雍州に莅むと治中に選ばれ、まもなく別駕に遷った。詧が襄陽で承制すると霞は吏部郎・員外散騎常侍を授かり、まもなく車騎大将軍・儀同三司・大都督に遷り聞喜県公の爵を賜り、まもなく持節・侍中・驃騎大将軍・開府儀同三司に進んだ。蕭詧が江陵で帝位に即くと襄陽をもって我が国に帰したが、霞は詧に「陛下が中興の鼎運で龍飛されたのは旧楚の地、臣は昔幸会に因って早くから名節を奉じ、理として身をもって国に許すべきです。ただ晉氏南遷以来、臣の宗族は寡なく、従祖太尉・世父儀同・従父司空はみな位望隆重で金陵に家をなしましたが、ひとり先臣(父)だけは墳栢を独守し常に臣らに戒めてこの志に違わぬようにさせました。今襄陽はすでに北朝に入り、臣がもし鑾蹕に陪随すれば進んでは益なく退いては先旨を虧きます。伏して願わくは曲げてご照鑒賜り、臣のこの心をお諒しください」と辞退を願い出、詧はその志を重んじやむを得ずこれを許し、霞は郷里に留まり経籍を自ら楽しんだ。太祖・世宗はしばしば徴命したが霞は病と称して固辞した。詧が薨じると霞は哀を挙げ旧君の服を行った。保定中また徴されて霞は初めて入朝し、使持節・驃騎大将軍・開府儀同三司・霍州諸軍事・霍州刺史を授かった。霞は民を導くにまず徳をもってし、再三命に従わぬ者にはやや貶異を加えて恥を示すのみであったが、その下は感化されて再び過ちを犯すことがなく、皆「我が君の仁惠がこれほどなのに、どうして欺けようか」と言った。天和中卒、時に年七十二。宣政初、金安二州刺史を贈られた。霞は志行があり、初め州主簿であった頃父が揚州で卒すると、霞は襄陽から六日で駆けつけ哀は行路を感動させるほどで毀瘁して人相もほとんど分からぬほどであった。喪を奉じ江を泝って西帰する際、中流で風が起こり舟中の人は皆顔色を失ったが、霞は棺を抱いて号慟し天に愬えて哀を求めると、まもなく風浪は止んだ。母がかつて乳間に疽を発し、医者は治療の理がなく人が膿を吮えば痛みがやや止むだろうと言うと、霞は声に応じて即座に吮い旬日でついに癒えた。人々は皆孝感の致すところとした。性はまた温裕で喜怒の色を表すことなく、名教を弘め人の短を論ずることがなく施与を好み家に余財がなかった。臨終の遺誡で薄葬を命じ、子らは皆これを奉行した。十子あり靖・莊が最も名を知られた。
  • 靖、字は思休。少にして方雅、墳籍を博覧した。梁大同末武陵王国左常侍に釈褐し法曹行参軍に転じ、大定初尚書度支郎を除され正員郎に遷った。霞に随い入朝し大都督を授かり河南・徳広二郡守を歴任した。靖は政事に雅達し居るところ皆治術があり吏民は畏愛した。しかし性は閑素を愛し名利には澹如としていた。秩満ちて還ると終焉の志があり、隋文帝が皇位に踏み極めると特に詔してこれを徴したが、靖は病をもって固辞し優游として仕えず、門を閉じ自守し対するはただ琴書のみで、足は園庭を歴ることなく殆ど十載に及んだ。子弟らはこれを厳君のように奉じ、過ちある者があれば靖は必ず帷を下ろして自責し、長幼は相率いて庭で拝謝し、靖はその後にこれに会い礼法をもって勉め、郷里もまた化に慕った。ある不善の者は皆「柳德廣(靖の字)が知るのを恐れるのみだ」と言い、時論はこれを王烈に比した。前後の総管が官に到るたびに親ら靖の家に至って疾を問うのを故事とした。秦王俊が州に臨む際、几杖と衣物を賚ったが、靖はただ几杖だけを受けそのほかは固辞した。その当時に重んじられたのはこのようであった。開皇中夀をもって終わった。
  • 莊、字は思敬。器量貞固で経世の才があった。初め梁に仕え中書舎人・尚書右丞・給事黄門侍郎・尚書吏部郎中・鴻臚太府卿を歴任し、隋に入り位は開府儀同三司・給事黄門侍郎・饒州刺史に至った。

史論

  • 蕭撝・世怡・圓肅・大圜は皆梁の令望があった。羈旅して異国にあったといえど、ついに栄名を享受できたのは、この基のみでなく夙に懐いた文質があったからでなくてなんであろうか。武陵王が衆を擁して東下した際、撝を蕭何の事に任じたのは君臣の道が既に篤く家国の情もまた隆んであったからで、金石もその心を比するに足らず河山もその誓いを盟うに足らないほどであった。しかし魏の軍が城下に至ると旬日で智力ともに尽き、金湯を委ねて守らず庸蜀を挙げて帰王した。もし機を見て作すというなら確かにそうであろうが、節を守って歯を没するとまでは言えまい。宗懍は幹局・才辭を梁元の世に称され、俘囚として楚甸に至り秦中に播越したが、太祖の治を思う時にあたり世宗の士を好む日に遇い、朝にあって政事に与らず、列に就いてわずかに戎章を忝くしたのみである。どうして道を懐き全きを図ることを望んだであろうか、優游として卒歳し用いられると用いられざるとの間に当年を留滞したのであろうか。梁氏は江東を拠有すること五十余年、策を挟み事を紀し不朽を勒す者は一家に留まらない。劉璠は学思通博で著述の誉れがあり、伝疑伝信は詳略はあるといえど辭を撰び事を比べるにおいて清典と言うに足り、けだし近代の佳史であろう。柳霞は立身の道進退に節あり、その墳隴を眷戀するのを見ればその孝は朝廷に移すべきものであり、旧王に礼を尽くすのを見ればその忠は新君に事えるべきものである。この類を推して賢を求めれば、人を知ることは易に近いということが分かるであろう。