周書卷四十二 列傳第三十四 蕭世怡

出自と生涯

  • 蕭世怡は梁武帝の弟鄱陽王恢の子。名が太祖の諱(泰)に犯れるため字で呼ばれた。幼くして聡慧で経史に渉り、梁大同元年(535年)豊城県侯・食邑五百戸に封ぜられ給事中を除され太子洗馬に転じ、まもなく殿省に直入し太子中舎人に転じた。持節・仁威将軍・譙州刺史に出た際、侯景の乱で城下を通る途中に襲われ陥落し世怡は捕らえられたが、まもなく遁逃して免れ江陵に至った。梁元帝の承制で侍中を授かり、侯景平定後は兼太宰・太常卿として中衛長史楽子雲とともに山陵を拝謁し、承聖二年(553年)使持節・平西将軍・臨川内史を授けられたが、陸納が湘川に拠り道路を塞いだため平南将軍・桂陽内史に改授された。郡に至らぬうちに于謹が江陵を平定したため、兄の修に従い郢州にあり、修が卒すると世怡が刺史となった。湘州刺史王琳が舟師を率いて世怡を襲うと、世怡は州をもって琳に輸した。当時陳武帝が執政し侍中に徴されたが、世怡は疑って就かず斉に奔り車騎大将軍・散騎常侍を除され、まもなく永州刺史に出た。保定四年(564年)晋公護が東伐し大将軍権景宣が河南を略した際、世怡は豫州刺史王士良がすでに降伏したと聞き来帰した。五年使持節・驃騎大将軍・開府儀同三司を拝し義興郡公・食邑一千三百戸に封ぜられた。天和二年蔡州刺史を授かり政は簡惠を存し苛察を尚ばず、吏民に深く安んじられた。三年州で卒し、本官に幷洛永三州刺史を加贈された。子の子寶が嗣いだ。子寶は風儀美しく談笑を善くし、弱冠に及ばずして名は一時に重んじられた。隋文帝の輔政に丞相府典籤に引かれ深く識遇され、開皇中官は吏部侍郎に至ったが、後に事に坐して誅された。