周書卷四十二 列傳第三十四 蕭圓肅

出自と生涯

  • 蕭圓肅、字は明恭。梁武帝の孫、武陵王紀の子。風度淹雅、敏にして学を好んだ。紀が尊号を称すると宜都郡王・食邑三千戸に封ぜられ侍中・寧遠将軍を除された。紀が兵を率いて峡を下り蕭撝に成都を守らせた際、圓肅はその副とされた。尉遲迥が至ると圓肅は撝とともに降り、驃騎大将軍・開府儀同三司・侍中を授かり安化県公・食邑一千戸に封ぜられた。世宗初、棘城郡公に進封され食邑一千戸を増され、帰款の勲により思君県五百戸を別賜され租賦を収めた。保定三年畿伯中大夫を除され、五年咸陽郡守を拝した。圓肅は寛猛相済し甚だ政績があった。天和四年陵州刺史に遷り、まもなく詔により衛国公直の襄陽鎮に随行を命じられ赴任しなかった。建徳三年太子少傅を授かり食邑九百戸を増され、圓肅は師傅の任に当たることをもって少傅箴を作った。その箴は、太子を建て皇の貳とするのは古来の礼制であり、束髪して学に就き宵雅を朝読し夜まで学ぶべきこと、視膳・寝門三至など孝行を尽くし小心翼翼として大孝を蒸蒸とすべきこと、謀謨計慮において疑いを問い安楽を慎み常に戦兢を忘れぬべきこと、天道は謙を益し盈を悪むものであり、漢の嗣(戻太子)は馳道を絶たず魏の儲(曹丕)は鄴城を回環したという前史の教訓を引き、三善(父子・君臣・長幼の道)が備われば万国は貞をもって定まり、姫周(周王朝)の長久は元良(太子)に頼り、嬴秦(秦)の短祚は少陽(太子)の過ちによると説き、卜年七百も有徳ならばそれを過ぎ、数世に及んでも無徳ならば及ばずして亡ぶ、敬うべしと結ぶ内容であった。太子はこれを見て悦び書を致して労問した。六年豊州刺史を授かり食邑通算三千七百戸となり、まもなく上開府儀同大将軍に進んだ。宣政元年(578年)司宗中大夫に召され、まもなく洛州刺史を授かり、大象末大将軍に進んだ。隋開皇初貝州刺史を授かり、母が老いたことをもって帰養を請い隋文帝はこれを許した。四年卒、時に年四十六。文集十巻のほか、当時の人の詩筆を撰した文海四十巻、廣堪十巻、淮海乱離志四巻を著し世に行われた。