周書卷四十 列傳第三十二 顏之儀

顏之儀、字は子升。琅邪臨沂の人。梁の忠臣顔見遠の孫。江陵陥落後に入関し、北周に仕えて太子侍読・御正中大夫などを歴任した。剛直で知られ、宣帝崩御に際しては劉昉・鄭訳らの矯詔に与さず節を守り、隋文帝にも符璽の引き渡しを拒んで抗った。隋代に入っても厚遇され、開皇十一年、六十九歳で没した。

年表(6件)

出自と生涯

  • 顏之儀、字は子升。琅邪臨沂の人。晋の侍中含の九世孫。祖見遠は斉の御史治書で正色にして立朝し当官の称があったが、梁武帝が執政すると病と称して辞し、まもなく斉和帝が暴崩すると慟哭して絶命した。梁武帝は深くこれを恨み朝臣に「私は天に応じ人に従ったまでなのに、天下の人事に何の関わりがあって顔見遠はこれほどまでに至ったのか」と言ったが、当時の人々はその忠烈を嘉しこれを称嘆した。父の恊は見遠が義を蹈み時に忤らったことから仕進せず、梁元帝が湘東王であった頃引かれてその府記室参軍となり、恊はやむを得ず応命した。梁元帝は後に懷舊志を著し詩とともにその美を称賛した。之儀は幼くして頴悟、三歳で孝経を読むことができ、長じては群書に博渉し詞賦を善くした。かつて神州頌を献ずるとその辞は致雅贍で、梁元帝は手勑を報じて「枚乗の二葉は共に梁に遊び、応貞の両世は共に文学を称された。私は才子を求めているが、鯁慰は良に深い」と言った。江陵平定後之儀は例により長安に遷り、世宗は麟趾学士とし、まもなく司書上士に遷った。高祖が儲宮を初建すると師傅を盛選し之儀を侍読とした。太子が後に吐谷渾を征した際、軍中で過行があり鄭訳らは皆匡弼できなかった罪で譴を受けたが、之儀のみ累諫により賞を得て小宮尹を拝し平陽県男・食邑二百戸に封ぜられた。宣帝即位で上儀同大将軍・御正中大夫に遷り公に進爵し食邑一千戸を増された。帝は後に刑政が乖僻となり昏縦は日々甚しくなったが、之儀は顔を犯してしばしば諌め、聞き入れられなくても止まなかった。深く帝に忌まれたが、旧恩により常に優容された。帝が王軌を殺そうとした際、之儀は固く諌めたが帝は怒って之儀をも法に致そうとし、後にその諒直無私により赦された。宣帝崩じ劉昉・鄭訳らが遺詔を矯めて隋文帝を丞相とし少主を輔けさせようとした際、之儀は帝旨でないと知り拒んで従わなかった。昉らが詔を草し記を署して之儀に連署を逼ると、之儀は厳声で「主上升遐し嗣子は幼く、阿衡の任は宗英にあるべきものだ。今賢戚の中で趙王が最も長じ、親をもって徳をもって重寄に膺うべきだ。公らは厚く朝恩を受けたのだから忠を尽くし国に報いるべきなのに、どうして一旦神器を人に仮すのか。私は死あるのみ、先帝を誣罔することはできぬ」と言った。昉らは屈しがたいと知り之儀に代わって署して行った。隋文帝が後に符璽を索めると之儀は正色して「これは天子の物、自ずと主る者がある。宰相がなぜこれを索めるのか」と言った。隋文帝は大いに怒り引き出して戮そうとしたが、之儀が民の望むところであることから止め、西疆郡守に出した。隋文帝が皇位に踏み極めると詔により京師に召還され新野郡公に進爵し、開皇五年(585年)集州刺史を拝した。州にあって清静で夷夏悅び、翌年代わって還ると優遊し仕えなかった。十年正月、之儀は例により入朝し、隋文帝はこれを望見して識り、御坐に引き至らせ「危を見て命を授け、大節に臨んで奪うべからず、古人の難しとするところだが卿に何を加えられよう」と言い、銭十万・米一百石を賜った。十一年(591年)冬卒、年六十九。文集十巻あり世に行われた。当時京兆郡丞楽運もまた直言をもってしばしば帝に諌めた。

顏之儀の附伝 楽運

  • 楽運は字は承業。南陽淯陽の人で、晋尚書令広の八世孫。祖の文素は斉南郡守、父の均は梁義陽郡守。運は少にして学を好み経史に渉猟したが章句にこだわらず、年十五で江陵が滅び例により長安に遷った。親族が多く籍没に処されたが、運は積年人に雇われて働き皆これを贖い免れさせた。また母と寡嫂に事えて甚だ謹み、これにより孝義で聞こえ、梁の故都官郎琅邪王澄はこれを美とし孝義伝にその行事を次いだ。運は方直の性で未だかつて人に媚を求めたことがなかった。天和初夏州総管府倉曹参軍として起家し、柱国府記室参軍に転じ、まもなく臨淄公唐瑾に露門学士に薦められた。前後顔を犯してしばしば諌め、高祖に多く納用された。建徳二年万年県丞に除され豪右を抑挫し彊直と号され、高祖はこれを嘉して特に通籍を許し、時に不便な事は巨細を問わず奏聞させた。高祖がかつて同州に行幸し運を行在所に召すと、高祖は「卿は来る日に太子に会ったか」と問い、運は「臣は来る日に辞を奉じました」と答え、高祖が「卿の見るところ太子はいかなる人物か」と問うと運は「中人です」と答えた。時に斉王憲以下が帝の側にあり、高祖は憲らを顧みて「百官は皆私に媚びて太子を聡明睿知と言うのに、運だけが中人と言う。運の忠直がここに証された」と言った。そこで運に中人の状を問うと、運は「班固は斉桓公を中人としました。管仲がこれを相ければ覇し、竪貂がこれを輔ければ乱れた。善をなすこともできれば悪をなすこともできるということです」と対えた。高祖は「よく分かった」と言い、宮官を妙選して太子を匡弼させ、運を京兆郡丞に超拝した。太子はこれを聞いて甚だ悦ばなかった。高祖崩じ宣帝が嗣位し葬儀が済むと、詔により天下は公除とし、帝および六宮は便ちに吉に即こうと議した。運は上疏して「三年の喪は天子より庶人に至るまで先王の礼制、どうしてこれを誣ることができましょうか。礼では天子は七月にして葬り、天下の畢だ至るを俟つとします。今葬期はすでに促され事が済んで便ち除かれれば、文軌の内では奔赴が未だ尽きず、隣境の遠く聞く者は使いも未だ至っていません。喪服のまま弔いを受けるのも不可、既に吉にして更に凶に戻るのも不可、玄冠で使者に対すればいかなる礼に出るか知られず、進退の拠るところなく、愚臣ひそかに安んじられません」と述べたが、帝はこれを納れなかった。以後徳政は修まらず、しばしば赦宥を行った。運はまた上疏して「臣がつつしんで周官を案ずるに『国君の過市には刑人を赦す』とありますが、これは市が交利の場であり君子は故なくば遊観せず、もし遊観すれば施恵してこれを悦ばせるという意味です。尚書に『眚災には肆赦す』とありますが、これは過誤による害は罪大なりといえど緩やかに赦すという意味です。呂刑に『五刑の疑いには赦あり』とありますが、これは疑いを赦して罰に従い、罰の疑いは免に従うという意味です。論語に『小過を赦し賢才を挙げよ』とありますが、謹んで経典を尋ねるに罪の軽重を問わず溥く天下に大赦する文はありません。この末葉に至って古を師とせず、治に益なきことは則るべきではありません。故に管仲は『赦する者は奔馬の轡を委ねるようなもの、赦さぬ者は痤疽の礪石のようなものだ』と言い、また『恵は民の仇讐、法は民の父母』とも言いました。呉漢の遺言にも『ただ願わくば赦なからんことを』とあり、王符の論にも『赦は明世の宜しきところに非ず、どうして数々非常の恵を施して姦宄の悪を肆にできようか』とあります」と述べたが、帝はまた納れず昏暴はますます甚しくなった。運は輿櫬(棺を担いだ姿)で朝堂に詣で帝の八つの過失を陳べた。一に、内史・御正の職は弼諧にあり皆参議して天下を共治すべきなのに、大尊(帝)は近来大小の事を独断している、堯舜のような至聖でも輔弼を頼んだのに、大尊はいまだ聖主でもないのに専恣であってよいのか、諸々の刑罰爵賞から軍国の大事に至るまで宰輔に諮り衆と共にすべきである、と。二に、内に色を作すのは荒に至る、古人はこれを重く戒めた、大尊は初めて四海に臨み徳恵はまだ洽っていないのに先に天下の美女を捜して後宮に実たし、また儀同以上の女を輙りに嫁がせぬよう詔したため貴賤共に怨み声が朝野に溢れている、姫媵で幸御されぬ者は本族に放還し、嫁ごうとする女はもう禁じないでほしい、と。三に、天子は未明に衣を求め日旰に食を忘れてもなお万機の理まらぬことを恐れるものだが、大尊は近来一度後宮に入ると数日出てこず、必要な奏上の多くは内豎を経て伝わり失実の是非があるのを恐れる、事が宦者に由るのは亡国の徴、高祖のように外で聴政するに准じてほしい、と。四に、変故して常を易えるのは政の大忌、厳刑酷罰は治に致る宏規ではない、罰に定刑がなければ天下は皆懼れ、政に常法がなければ民は適従がない、どうして厳刑の詔を削って半祀も経ぬうちにまた追改し前制よりも厳しくすることがあろうか、政令が定まらぬのはここに至った、今宿衛の官で一人でも夜に直せぬ者があれば罪は削除に至り、逃亡すれば籍没される、これは大逆の罪と十杖の罪が同科になっているということ、法が厳しいほど人情は散じやすい、一人の心が散じるだけならまだ止められるが、天下が皆散じたらどうするのか、秦は網が密であったため国が亡び、漢は章が疎であったため祚が永かった、軽典に遵い皆大律に依るようにすれば億兆の民は手足の置き所を得よう、と。五に、高祖は雕を斵って朴に為し万世に伝えようとしたのに、大尊は朝夕庭に趣き聖旨を親承していながら、崩じてまだ年を逾えぬのに遽に奢麗を窮め父の志を成すとは、義がそうであってよいはずがない、興造の制は卑倹に従い雕文刻鏤は一切営まないでほしい、と。六に、都下の民の徭賦がやや重いのは必ず軍国の要であり労を憚らないが、朝夕に徴求してただ魚龍爛漫の供にあて、士民は役に従い俳優角觝のためだけに紛紛としてやまず、財力ともに竭き業業と相顧みて生を聊とすることがない、この無益の事はすべて停罷してほしい、と。七に、近ごろ詔があり上書の字を誤る者は即座に罪すると聞くが、たとい忠讜の人が時事を陳べようとしても、尺には短所があり文字が工巧・周密でなければ身を失う、義においてやむを得ないことだ、もし舛謬があれば厳科に陥る、径尺の鱗に嬰れるのは容易でない、不諱の詔を下してもなお未来を懼れさせるのなら、さらに刑戮を加えては誰も口を鉗せずにいられようか、大尊がたとい誹謗の言を採らずとも、献書の路を杜ぐべきではない、この詔を停めてほしい、天下は幸甚である、と。八に、昔桑穀が朝に生じた際殷王はこれによって福を獲た、今玄象が誡を垂れているのはこれも周の興る祥である、大尊は膳を減らし懸を撤したといえど、いまだ譴を銷す理を尽くしていない、誠に願わくは善道を諮諏し徳政を修布し兆民の愠を解き万方の罪を引き受ければ、天変は除くことができ鼎業も方に固まろう、大尊がこの八事を革めなければ、周廟は血食されなくなるだろう、と。帝は大怒しこれを戮そうとしたが、内史元巌は帝を紿って「楽運は書奏すれば必ず死ぬと知っていながら身命を顧みなかったのは、後世の名を取ろうとしたのです。陛下がもしこれを殺せば、かえってその名を成すことになります」と言い、帝はこれをもっともとし運は免れた。翌日帝はやや感悟し運を召して「朕は昨夜卿の奏したことを考えたが、まことに忠臣である。先皇は明聖であったが、卿はしばしば規諌した。朕は昏暗であるが、卿はまたこのようにできる」と言い、御食を賜って賞した。朝の公卿は初め帝の盛怒を見て運のために皆寒心したが、後に赦されたのを見て皆祝い虎口を免れたと言い合った。内史鄭訳がかつて私事で運に請托しこれを許されなかったことから運を怨んでおり、隋文帝が丞相となり訳が長史になると、運は広州滍陽令に左遷された。開皇五年毛州高唐令に転じ、二県を頻繁に歴任していずれも声績があったが、運は常に諫官の任にあり従容として諷議したいと願っていたところ、訐直の性ゆえ人に排斥され任用されなかった。そこで発憤して夏殷以来の諫諍の事を録して部を集め、凡そ六百三十九条・合計四十一巻とし諫苑と名づけ奏上したところ、隋文帝はこれを覧て嘉した。

史論

  • 士には学芸によらずして重んじられ爵禄を待たずして貴い者がある、それは何かといえばひとえに忠孝によるのみである。力を竭くして親に事えるのは人子の行い、身を致して君に事えるのは人臣の節である。これはまさに三極(天地人)を彌綸し百代を囊括する道理である。宣帝が東朝にあり凶徳がまさに兆した頃、王軌・宇文孝伯・宇文神舉らは志として隠すことなく父子の間で直言を尽くしたが、淫刑がついに逞しくなると相継いで夷滅された。隋文帝が登庸しようとする際、人々は去就を懐いたが、顔之儀は風烈懍然として正辞をもって節を明らかにし、雷電の下で崎嶇しながらもかろうじて済うことができた。この数子は社稷の臣でなくてなんであろうか。ある人は不忠と見るかもしれないが、そうであれば天下は誰も信じなくなろう。古来外戚として重任に居るのは多く一時の恩に藉るものだが、尉遲運のような者は位は才によって升り爵は功によって進んだと言うべきである、美なるかな。