出自と生涯
- 王襃、字は子淵。琅邪臨沂の人。曾祖儉は斉侍中・太尉・南昌文憲公、祖騫は梁侍中・金紫光禄大夫・南昌安侯、父規は梁侍中・左民尚書・南昌章侯で、いずれも江左に重名があった。襃は識量淵通、志懐沈静、風儀美しく談笑を善くし、史伝を博覧しとりわけ文章に工みであった。梁の国子祭酒蕭子雲は襃の姑夫にあたり草隷を得意とし、襃は少にして姻戚として往来しその模範を受け、まもなく名声は子雲に亜ぎ世に重んじられた。梁武帝はその才芸を喜び弟の鄱陽王恢の娘を妻わせ、秘書郎から起家し太子舎人に転じ南昌県侯を襲爵、秘書丞に遷った。宣成王大器(簡文帝の冢嫡で襃の姑の子)が僚佐を盛選した際、襃は文学に任ぜられ、まもなく安成郡守に遷った。侯景が江を渡り建業が擾乱すると襃は部下を輯寧し当時称賛された。梁元帝が承制すると智武将軍・南平内史に転じ、江陵で即位すると次第でない位を襃に与えようとしたが、襃はなお郡にあったため王僧祐に礼をもって発遣させ、襃は家を率いて西上した。元帝は襃と旧交があり相得ることが甚だ歓しく、侍中を拝し吏部尚書・左僕射に累遷した。襃は世胄名家で文学優贍であったため、当時の人々は皆推挹し、旬月の間に端右の位に昇り、寵遇は日々隆んになったが、襃はいよいよ謙虚で位地をもって人に矜ることがなく、時論はこれを称えた。
- 元帝が侯景を平らげ武陵王紀を擒えた後、建業は彫残しており修復の要があった一方、江陵は殷盛でこれに都しようとし、また旧の府臣僚は皆楚人であったため皆荊郢に都すべきと願った。かつて群臣を召してこれを議した際、領軍将軍胡僧祐・吏部尚書宗懍・太府卿黄羅漢・御史中丞劉㲄らは「建業は旧都といえど王気はすでに尽きており、北寇に隣接し一江を隔てるのみ、もし不虞があれば悔いても及ばない。臣らはまた荊南の地に天子の気ありと聞いており、陛下が今龍飛纘業されたのはその応と思われる。天時人事の徴祥がこのようであるから、臣らは遷徙を宜しからずと見ます」と述べ、元帝は深くこれをもっともとした。当時襃と尚書周弘正も侍座しており、元帝は襃らを顧みて「卿らの意見はどうか」と問うたが、襃は性謹慎で元帝の猜忌が多いことを知り、公然とその非を言えず唯唯とするのみであった。後に清閒の折に密かに諫言し言辞は甚だ切実で、元帝はこれを頗る納れたが、その意はすでに荊楚を好み僧祐らの策に従っていた。翌日元帝は衆中で襃に「卿は昨日建業に還ることを勧めたが理がないわけではない」と言い、襃は宣室での密言を衆前で明らかにするのは相応しくないと考え、その計がすでに用いられぬことを知り、以後言わなかった。大軍が江陵を征する際、元帝は襃に城西諸軍事の都督を授けた。襃は本来文雅で知られていたが、一旦兵を総べる任を委ねられると深く自ら勉励し忠勤の節を尽くした。包囲後上下は猜懼したが、元帝はただ襃にのみ深く委信した。朱買臣が衆を率いて宣陽の西門から出て王師と戦い大敗すると、襃は督進を禁じられず護軍将軍に貶され、王師が外柵を攻めると城は陥り、襃は元帝に従い子城に入りなお固守しようとしたが、まもなく元帝が出降した。襃は衆とともに出て柱国于謹に見え、謹は甚だ礼をもってこれを遇した。襃はかつて燕歌行を作りその関塞の寒苦の状を尽くし、元帝および諸文士は皆これに和して競って悽切な詞を作ったが、この時に至ってその予兆が的中したことが分かったという。襃は王克・劉㲄・宗懍・殷不害ら数十人とともに長安に至った。太祖は喜んで「昔呉を平らげた利は二陸のみであったが、今楚を定めた功はこれほどの群賢がすべて至った、過ぐと言うべきだ」と言い、また襃と王克に「私は王氏の甥であり、卿らはみな私の舅氏、親戚として親しみ郷を去ることを介意しないでほしい」と言った。襃・克・殷不害らに車騎大将軍・儀同三司が授けられ、常に従容として上席に上らせ資餼を厚く与えたため、襃らも皆恩眄を荷い羈旅の身であることを忘れたという。孝閔帝踐阼で石泉県子・食邑三百戸に封ぜられた。世宗即位で文学を篤好し、当時襃と庾信は才名が最も高く帝は特にこれを親待し、遊宴のたびに襃らに賦詩談論を命じ常に左右に置いた。まもなく開府儀同三司を加えられ、保定中内史中大夫に除された。高祖が象経を作り襃にこれを注させると、その引拠は該洽で甚だ称賞された。襃は器局あり治体に雅識があり、代々江東で宰輔であったことから高祖もこれをもって重んじ、建徳以後は朝議に頗る参与し、凡そ大詔冊はすべて襃に草を具させた。東宮が建てられると太子少保を授かり小司空に遷り綸誥を掌り、乗輿の行幸に襃は常に侍従した。かつて襃は梁の処士汝南周弘讓と相善であり、弘讓の兄弘正が陳から聘に来た際、高祖は襃らに親知との音信の通信を許し、襃は弘讓に詩を贈り書を致した。その書の趣旨は、離別の悲しみと互いの近況・養生を気遣う言葉、旧交を偲び再会を望みながらも会える日の見えぬ悲嘆を綴ったものであった。弘讓もまた返書し、離別の情を叙べ、南北の風土の異なりを述べつつ、旧交を懐かしみ人生の無常を嘆き、再会を願う言葉を尽くした。まもなく宣州刺史に出て官位のまま卒した。時に年六十四。子の鼒が嗣いだ。