周書卷四十 列傳第三十二 宇文孝伯
宇文孝伯、字は胡三。高祖(武帝)と同日に生まれ寵愛を受け、腹心の側近として仕えた。晋公護誅殺の謀にも参画し、皇太子(のちの宣帝)の廃立を憂え忠諫を尽くしたが、宣帝の即位後は疎まれ、ついに賜死された(?–?、三十六歳)。隋文帝の代に忠臣として名誉を回復された。
出自と生涯
- 宇文孝伯は字は胡三、吏部安化公深の子。高祖と同日に生まれ、太祖は甚だこれを愛し邸内で養育した。長じてはまた高祖と同学した。武成元年(559年)宗師上士を拝した、時に年十六。孝伯は沈正謇諤の性で直言を好んだ。高祖即位で左右に引き入れようとしたが、当時政は冢臣(晋公護)にあり専制ができなかったため、幼くして孝伯と同業に受経し互いに啓発しあった仲だと託言し、晋公護もこれを疑わなかった。右侍上士として入り常に侍読した。天和元年小宗師に遷り右侍儀同を領し、父の喪に遭うと詔により服中に爵を襲がせた。高祖は嘗て従容とこれに「公の我に於けるは猶お漢高の盧綰に於けるがごとし」と言い、十三環金帯を賜った。以後常に左右に侍り出入卧内し朝の機務に皆与らせた。孝伯もまた心力を尽くし避けることなく、時政の得失や外間の細事に至るまで皆奏上し、高祖は深くこれを委信し当時比する者がなかった。高祖が晋公護を誅そうとした際、密かに衛王直と図ったが、孝伯および王軌・宇文神舉らのみが与ることができた。護誅殺後、開府儀同三司を授かり司会中大夫・左右小宮伯・東宮左宮正を歴任した。建徳の後、皇太子はやや長じたが令徳なく小人に昵近するのみであったため、孝伯は高祖に「皇太子は四海の属するところながら徳声は未だ聞こえず、臣は宮官を忝くし実にその責を負っています。かつ春秋は尚お少なく志業も未成、どうか正人を妙選しその師友とし聖質を調護なさいますよう。さもなくば後悔しても及びません」と白した。帝は歛容して「卿は世々鯁直を載せ竭誠して事える、この言にも家風がある」と言うと、孝伯は拝謝して「言うことが難いのではなく受けることが難いのです。ただ陛下がこれをお考えくださることを深く願います」と答えた。帝は「正人が卿に過ぎる者があろうか」と言い、そこで尉遲運を右宮正とし孝伯は左宮正のままとなり、まもなく宗師中大夫を拝した。吐谷渾の入寇の際、詔により皇太子がこれを征したが、軍中の事は多く孝伯の裁決に委ねられた。まもなく京兆尹を授かり入って左宮伯、右宮伯に転じた。侍坐の折、帝が「我が子は近頃長進したか」と問うと孝伯は「皇太子は近頃天威を懼れ、罪過はありません」と答えた。王軌が内宴で帝の鬚を捋し太子の不善を言った際、帝は酒を罷めて孝伯を「公は常々太子に過ちなしと語っていたのに、今軌にこの言があるとは、公は私を欺いたのか」と責めた。孝伯は再拝して「父子の間のことは人が言い難いもの、臣は陛下が情を割いて愛を忍ぶことができぬのを知り、ただ結舌するのみです」と言うと、帝はその意を知り黙然としばらくして「朕はすでに公に委ねている、公はこれに勉めよ」と言った。五年大軍東討で内史下大夫を拝し留台の事を掌らせた。軍が還ると帝は「居守の重責は戦功に劣らぬ」と言い、大将軍を加えられ広陵郡公・食邑三千戸に進み、金帛と女妓等を賜った。六年再び宗師となり、車駕巡幸のたびに常に居守を命じられた。その後高祖が北討し雲陽宮に至って寝疾すると、駅を馳せて孝伯を行在所に呼び、帝はその手を執って「私は済う理がないと自ら分かっている。後事を公に付す」と言い、この夜司衛上大夫を授け宿衛兵馬事を総べさせ、また馳駅で入京し非常に備えて鎮守させた。宣帝即位で小冢宰を授けられた。帝は斉王憲を忌みこれを除こうとし、孝伯に「公が朕のために斉王を図ることができれば、その官位を授けよう」と言うと、孝伯は叩頭して「先帝の遺詔は骨肉の濫誅を許していません。斉王は陛下の叔父で戚近功高、社稷の重臣・棟梁の寄るところです。陛下がもし妄りに刑戮を加え、微臣がまた旨に順って曲従すれば、臣は不忠の臣、陛下は不孝の子となりましょう」と言った。帝は懌ばず次第に疎んじ、于智・王端・鄭訳らと密かに事を図り、後に智に憲の謀反を告げさせ孝伯に憲を召させて誅殺した。帝の西征の際、軍中で過行があり鄭訳もこれに与ったが、軍が還ると孝伯と王軌はこれをすべて高祖に告げ、高祖は怒って帝を数十撻ち訳の名も除いた。この頃訳は再び帝に親昵され、帝は追憾して「私の脚の杖痕は誰の仕業か」と問うと、訳は「宇文孝伯と王軌によるものです」と答え、また王軌が鬚を捋した事も語ったため、帝は軌を誅した。尉遲運は懼れて密かに孝伯に「我らは必ず禍を免れまい、どうすればよいか」と問うと、孝伯は「今堂上に老母あり地下に武帝あり、臣として子として何処に行こうか。かつ質を委ねて人に事えるのは本来名義に殉ずるためだ。諫めても入れられぬなら死を逃れられない。足下がもし身のための計をなすなら且く遠ざかるべきだ」と答え、それぞれの道を行くこととなった。運はまもなく秦州総管に出た。しかし帝の荒淫は日々甚しく誅戮に度がなく朝章は弛紊し綱紀を失ったため、孝伯はしばしば切諫したが皆聞き入れられず、これによりいっそう疎斥された。のち稽胡が反すると孝伯は行軍総管として越王盛に従いこれを討平した。軍が還ると帝は孝伯を殺そうとし、斉王の事に託して「公は斉王の謀反を知りながらなぜ言わなかったのか」と誚めた。孝伯は「臣は斉王が社稷に忠であり、群小に讒言され罪を加えられたことを知っていました。臣は言っても用いられぬと知り言わなかったのです。かつ先帝は微臣に付嘱し陛下を輔導せよとのみ命ぜられました。今諫めても従われぬのは、まことに顧託に背いたということ、これを罪とされるのは甘んじて受けます」と答えた。帝は大いに慙じ俛首して語らず、命じて外に引き出させ家で賜死させた。時に年三十六。隋文帝が皇位に踏み極めるに及び、孝伯と王軌が忠にして罪を得たとして共に収葬と官爵の回復を命じた。また高熲に「宇文孝伯は実に周の良臣であった。もしこの人が朝にいたら我らは手の出しようがなかったろう」と言ったという。子の歆が嗣いだ。