出自と生涯
- 王軌は太原祁の人、小名は沙門。漢の司徒王允の後で、代々州郡の冠族。累葉魏に仕え烏丸氏を賜姓された。父光は少にして雄武で将相の才略があり、征討に従うたびに戦功を重ね、太祖はその勇決を知り厚遇し、位は驃騎大将軍・開府儀同三司・平原県公に至った。軌は質直慷慨の性で遠量があり、事に臨んで彊正で人は敢えて干犯しなかった。輔城公(高祖・宇文邕)に事えて起家し、高祖即位で前侍下士を授かり左侍上士に転じ、しばしば識顧を被り累遷して内史上士・内史下大夫、儀同三司を加えられ、以後親遇は彌々重く腹心の任に処した。当時晋公護が専政し、高祖は密かにこれを図ろうとし、軌が沈毅で識度があるとして大事を託せると見て可否を問うと、軌は賛成した。建徳初内史中大夫に転じ開府儀同三司を加えられ、また上開府儀同大将軍を拝し上黄県公・食邑一千戸に封ぜられ、軍国の政に皆参預した。五年高祖が東伐の戎を総べ六軍で晋州を囲むと、刺史崔景嵩は城の北面を守っていたが夜中に密かに款を送り、詔により軌がこれに応じ衆を率い、未明に士は皆城に登り鼓噪した。斉人は駭懼して退走し、晋州を克ち城主・特進海昌王尉相貴を擒え甲士八千人を俘えた。この功により幷州・鄴の平定に従い上大将軍に進位、郯国公・食邑三千戸に進爵した。陳将呉明徹が呂梁に入寇すると徐州総管梁士彦がしばしば戦うも不利となり城を保って出なくなり、明徹は清水を堰いて城を灌ぎ船艦を城下に列べて攻取を図った。詔により軌を行軍総管とし諸軍を率いて赴救させ、軌は清水に潜んで淮口に入り大木を多く竪てて鉄鎖で車輪を貫き水流を横截してその船路を断とうとし、密かにその堰を決壊させて明徹を斃そうとした。明徹はこれを知って懼れ、堰を破って急遽退き決水の勢いに乗じて淮に入ろうとしたが、清口に至った頃には川流はすでに広がり水勢も衰え、船艦は皆車輪に阻まれてそれ以上進めなかった。軌はこれに乗じ兵を率いて囲み蹙めた。騎将蕭摩訶のみが二千騎を率いて先に走り免れたが、明徹および将士三万余人と器械輜重は皆俘獲され、陳の精鋭はここに殲滅された。高祖はこれを嘉し柱国に進位、徐州総管・七州十五鎮諸軍事を拝させた。軌は厳重で謀略が多く呂梁の勝利により威は敵境に振るい、陳人は甚だこれを憚った。宣帝が吐谷渾を征した際、高祖は軌に宇文孝伯とともに軍中に従わせ進取をすべて委ね、帝は成るのを仰ぐのみであった。当時宮尹の鄭訳・王端らが帝に幸せられ、帝は軍中でしばしば失徳があり訳らもこれに関与した。軍が還ると軌らはこれを高祖に言い、高祖は大怒して帝を撻ち訳らの名を除き捶楚を加えた。帝はこれにより大いに軌を怨んだ。軌はまた小内史賀若弼に事を語り、皇太子は必ず重責に堪えぬと述べると弼も深くこれに同意し、軌に高祖への進言を勧めた。軌は後に侍坐の折、高祖に「皇太子は仁孝の聞こえなく涼薄の徳が多く、陛下の家事を了えられぬのではと恐れます。愚臣は短暗で是非を論ずるに足りませんが、陛下は常に賀若弼が文武の奇才・識度宏遠ありとされ、弼もこの事を深く憂慮しております」と言った。高祖が弼を召して問うと、弼は詭って「皇太子は春宮で徳を養い過ちがあるとは聞いていません。陛下は何によってこの言をお聞きになったのでしょうか」と答えた。退出後、軌は弼を「平生あらゆることを言い合ったのに、今日の対揚でどうしてこう翻覆できるのか」と誚めると、弼は「これは公の過ちです。皇太子は国の儲副、たやすく言うべきものではありません。事に蹉跌あれば滅門の禍に至ります。公が密かに臧否を陳ぶるべきものと思っていたのに、なぜ昌言してしまったのか」と答え、軌は黙然としばらくして「私は専心国家を思っただけで私計はなかった。先の衆前での発言は良くなかった」と言った。その後軌は内宴の上寿の折、高祖の鬚を捋して「愛すべき好老公だが、後嗣の弱いのが恨めしい」と言った。高祖は深くこれに同意したが、漢王(次子)はこれといった才もなく、他の諸子も幼いためその説を用いることができなかった。宣帝即位に及び鄭訳らを再び近侍とすると、軌は自ら必ず禍が及ぶと知り、親しい者に「私は昔先朝にあって社稷のための至計を申し上げた。今日のことは断じて知れよう。この州は淮南を控え強敵に隣接し、身のための計をなすのは反す手のようにたやすいが、忠義の節は虧いてはならない。ましてや先帝の厚恩を蒙り常に死をもって報いようと思っていたのに、嗣主に罪を得たからといって先朝に背く気になろうか。ここに留まり死を待つほかない。他の計は義においてなしがたい。千載の後に私のこの心を知ってもらいたいだけだ」と言った。大象元年帝は内史杜虔信を徐州に遣わし軌を殺させた。御正中大夫顔之儀が切諫したが帝は納れず、ついに軌を誅した。軌は朝廷に立って忠恕、かつ大功があったが、無罪で忽ち戮された。天下は知ると知らざるとを問わず皆傷惜した。