周書卷四十 列傳第三十二 尉遲運
尉遲運は大司空・呉国公綱の子。北周の武帝(高祖)に親任された腹心の臣で、天和年間に武伯として文武の要職を兼ね、宮正として東宮(のちの宣帝)を諫めた。建徳三年の衛刺王直の乱では宮中を身を挺して死守し大功を立てたが、宣帝の即位後は疎まれて秦州総管に出され、大象元年、憂いのうちに任地で没した(?–579年、四十一歳)。
出自と生涯
- 尉遲運は大司空・呉国公綱の子。少にして彊済で立功を志した。魏大統十六年(550年)父の勲功により安喜県侯・食邑一千戸に封ぜられた。孝閔帝踐阼で使持節・車騎大将軍・儀同三司を授かった。まもなく帝(孝閔帝)が廃されると、朝議は世宗を尊立しようとし、運に岐州で世宗を奉迎させ、定策の勲により周城県公に進み食邑五百戸を増された。保定元年(561年)驃騎大将軍・開府儀同三司に進み、三年楊忠に従い斉の幷州を攻めた功で次子端を保城県侯・食邑一千戸に別封した。四年隴州刺史に出た。地は汧渭を帯び民俗治め難かったが、運は情を垂れて撫納しよく時誉を得た。天和五年入朝し小右武伯、六年左武伯中大夫に遷り軍司馬・武伯を兼務、文武を兼ねる職として深く委任された。斉将斛律明月が汾北を寇すると運は斉公憲に従いこれを禦ぎ伏龍城を攻拔し広業郡公・食邑八百戸に進んだ。建徳元年右侍伯を授かり右司衛に転じた。当時宣帝は東宮にあって諂佞に親しみしばしば過失があり、高祖は朝臣の中から忠諒鯁正の者を選んで匡弼させようとし、運を右宮正とした。二年帝が雲陽宮に行幸すると運に本官のまま司武を兼ねさせ、長孫覧と皇太子の輔導・留守を命じた。まもなく衛刺王直が乱を起こし、その党が肅章門を襲うと覧は懼れて行在所に走った。運はたまたま門中にあり不意を突かれたが手ずから門を閉じ、直の党と門を争って手指を斫傷された。直は門に入れず火をかけて焼こうとし、運はその火が盛んになるのを懼れ、宮中の材木や牀等を取って火に加え油を灌いで火勢をさらに増した。しばらく直が進めないでいる間に退くと、運は留守の兵を率いてその退くところを撃ち、直は大敗して走った。この日、運がいなければ宮中は守れなかったであろう。高祖はこれを嘉し大将軍を授け、直の田宅・妓楽・金帛・車馬・什物等を勝げて数えきれぬほど賜った。四年同州・蒲津潼関等六防諸軍事・同州刺史に出た。高祖が斉を伐とうとした際、運を召して東夏の平定について参議させ、大いに力があった。五年柱国を拝し盧国公・食邑五千戸に進んだ。宣政元年(578年)司武上大夫に転じ宿衛軍事を総べた。高祖が雲陽宮で崩じた際は喪を秘して発せず、運が侍衛の兵を総べて京師に還した。宣帝即位で上柱国を授けられた。運は宮正であったころ帝にしばしば諫言したが帝は納れず、かえって疎忌した。当時運は王軌・宇文孝伯らとともに高祖に親待されていたが、軌がしばしば帝の失を高祖に言ったことから、帝は運もその謀に関与したと見てさらに怨みを深めた。軌が誅されると運は禍が及ぶことを懼れ、宇文孝伯に計を問うた(詳細は孝伯伝にある)。まもなく秦州総管・秦渭等六州諸軍事・秦州刺史に出たが、運は州に至ってもなお免れがたいことを懼れていた。大象元年(579年)二月、憂いによって州で薨じた。時に年四十一。大後丞・秦渭河鄯成洮文等七州諸軍事・秦州刺史を贈られ諡は忠。子の靖が嗣ぎ、大象末儀同大将軍に至った。