周書卷三十九 列傳第三十一 杜杲
杜杲(字は子暉、京兆杜陵の人)。族父杜瓚に見出されて西魏に仕官した。南朝陳との外交で活躍し、安成王頊の送還交渉などで名を挙げた。北周・隋で刺史・尚書等を歴任した。
出自と生涯
- 杜杲、字は子暉。京兆杜陵の人。祖建は魏輔国将軍で豫州刺史を贈られた。父皎は儀同三司・武都郡守。杲は経史に学渉し当世の幹略があり、族父瓚は清貞にして識鑑があり深くこれを器重し常に「吾家の千里駒」と評した。瓚は当時魏に仕え黄門侍郎・度支尚書・衛大将軍・西道行台で、孝武帝の妹新豊公主を娶っており、これにより杲を朝廷に薦めた。永熙二年(533年)奉朝請から起家、輔国将軍・成州長史・漢陽郡守を累遷した。世宗初、脩城郡守に転じ、鳳州人仇周貢らが乱を構えて修城を攻逼した際、杲は民部に信を洽くし叛く者がなかった。まもなく開府趙昶が諸軍を率いて進討すると杲は郡兵を率いて昶と合流し破平した。司会上士に入った。当時陳文帝の弟安成王頊が梁に人質として送られていたが、江陵平定後頊は例により長安に遷され、陳人はこれを請うたものの太祖は許すも遣わさなかった。帝(高祖)が頊を帰そうとし杲を使者に命じると、陳文帝は大いに悦び使者を送って報聘し、黔中数州の地を賂として畫野分疆・隣好を敦くすることを請うた。杲は使命に称うとして進んで都督・治小御伯を授けられ、再び分界のため往来した。陳人はこれにより魯山を我が国に帰属させ、帝は頊を柱国大将軍に拝し杲に送還を命じた。陳文帝は杲に「家弟が今礼遣を蒙るのは実に周朝の恵み、魯山を還さねばこれに及ぶまい」と言うと、杲は「安成(頊)は関中では咸陽の一布衣に過ぎぬが陳の介弟、その価は一城に止まらぬ。本朝は九族に親睦し己を恕して物に及ぼし、上は太祖の遺旨に遵い下は継好の義を思ってこのことをなした。もし止まるところを知り魯山に比するなら固より一鎮を貪らぬはず、況して魯山は梁の旧地、梁は本朝の藩臣、その始末を言えば魯山は自ずと帰国すべきもの。尋常の土を以て骨肉の親に易えるは使臣も不可と思う、どうして朝廷に聞こえようか」と答えた。陳文帝は慚じ、しばらくして「前言は戯れ」と言い、以後の接遇はいっそう厚くなり通常の礼を超え、杲が還る際には殿に引き上げ御座を降りて手を執って別れた。朝廷はこれを嘉し大都督・小載師下大夫・治小納言を授けた。また陳へ聘し、中山公訓が蒲州総管となると杲は府司馬・州治中を兼ね知州府事、使持節・車騎大将軍・儀同三司を加えられた。華皎が来附した際、衛公直に元定らを督させ援けさせたが陳と交戦し我が師は不利となり元定らは全滅、以後兵連禍結し東南は騒動した。高祖はこれを患い杲を御正中大夫に授け、四年後温州刺史に遷し義興県伯を賜爵した。大象元年(579年)御正中大夫に召され再び陳に使い、二年申州刺史に除され開府儀同大将軍を加えられ侯に進爵し食邑一千三百戸、同州司会に除された。隋開皇元年(581年)杲は同州総管となり公に進爵、まもなく工部尚書に遷り、二年西南道行台兵部尚書に除され、まもなく病により卒した。子の運は大象末宣納上士。杲の兄長暉は儀同三司に至った。
史論
- 韋・辛・皇甫の徒は皆関右の旧族である。あるいは組綬をまとって朝に登り官の誉れを得、あるいは旃旗を張って境を出て専対の才を発揮した。既に国の謀を茂んにし、よく家業を隆んにした。まことに美事というべきである。