周書卷三十九 列傳第三十一 韋瑱

出自と生涯

  • 韋瑱、字は世珍。京兆杜陵の人で、世々三輔の著姓。曾祖惠度は後秦の姚泓に仕え尚書郎となり、劉義真に従い江を渡って宋に仕え、鎮西府司馬・順陽太守・行南雍州事を歴任、のち襄陽で魏に帰し中書侍郎を拝し、安西将軍・洛州刺史を贈られた。祖千雄は略陽郡守、父英は代郡守で兖州刺史を贈られた。
  • 瑱は幼くして聡敏で早熟の器量があり、閭里は皆これを敬異した。篤志好学、騎射も善くした。魏孝昌三年(527年)、太尉府法曹参軍として出仕し、明威将軍・雍州治中、仮鎮遠将軍・防城州将を経て諫議大夫・冠軍将軍・太中大夫に累遷。太祖が丞相となると前将軍・太中大夫を加えられ、長安県男・食邑三百戸に封ぜられた。行台左丞に転じ撫軍将軍・銀青光禄大夫を加えられ、使持節都督南郢州諸軍事・南郢州刺史に遷り、また行台左丞に復した。瑱は明察幹局があり再び左轄(尚書左丞)に就いたことを時論は栄とした。弘農再征・沙苑の戦いに従い衛大将軍・左光禄大夫を加えられ、河橋の戦いにも従い子爵に進み食邑二百戸を増された。
  • 大統八年(542年)、斉神武(高歓)が汾絳を侵すと瑱は太祖に従いこれを禦いだ。軍が還ると瑱は本官のまま蒲津関を鎮め中潬城主を兼ね、まもなく蒲州総管府長史に除され、ほどなく鴻臚卿に召された。望族として郷兵を領し帥都督を加えられ、大都督・通直散騎常侍・行京兆郡事に遷り、車騎大将軍・儀同三司・散騎常侍に進んだ。魏恭帝二年(555年)宇文氏の姓を賜り、三年瓜州諸軍事・瓜州刺史となった。瓜州は西域の蕃夷と往来し、前後の刺史の多くが賄賂を受け胡寇を防げなかったが、瑱は清儉で武略もあり贈遺を一切受けず、胡人はその威を畏れて寇をなさず、公私安静で夷夏はこれに懐いた。孝閔帝踐阼で平斉県伯に進み食邑五百戸を増された。任満ちて帰京する際、吏民は恋慕し老幼が十数日追送してようやく出境できたという。世宗はこれを嘉し侍中・驃騎大将軍・開府儀同三司を授けた。武成三年(561年)卒、時に年六十一。岐・宜二州刺史を贈られ諡は惠。天和二年(567年)追封され公に進み食邑通算三千戸となり、子の峻に襲がせた。峻は後に車騎大将軍・儀同三司に至った。峻の弟師は中外府記室から起家し兵部・小府下大夫を歴任、建徳末に蒲州総管府中郎・行河東郡事となった。