周書卷三十八 列傳第三十 李昶

李昶(頓丘臨黄の人、小名は那)。祖父李彪は魏の名臣。幼くして文才があり太祖に才を認められ、西魏・北周で御史中尉・内史等を歴任し詔冊の文筆を専ら任された。50歳で卒す。

年表(5件)
  • 六官建立内史下大夫を拝し侯爵に進む
  • 武成元年中外府司録を除せられる
  • 保定初め驃騎大將軍・開府儀同三司に進む
  • 保定二年御正中大夫に転じる
  • 五年昌州刺史に出るが病を得て入朝を願い、道中で50歳で卒す

出自と幼少期

  • 李昶、頓丘臨黄の人。小名は那。祖父彪は名声高く魏朝で御史中尉となった。父遊も才行があり当世に称された。遊の兄志が南荊州刺史となった際、遊は随従してその州に赴いたが、爾朱の乱に遭い志と共に江左に奔った。
  • 昶の性は峻急で交遊を雑えず、幼くして文を能くし洛下に聞こえた。洛陽に明堂が創置された頃、昶は10数歳で明堂賦を作り、内容はまだ十分でなくとも才制は見るべきものがあり、見る者は皆「家風あり」と評した。太祖に初めて謁見した際、太祖は深くその才を認め厚く資給し太学に入らせた。太祖は学生に会うたび昶に才行を問い、昶の神情清悟・応対明辨を常に称歎した。

西魏での重用

  • 綏德公陸通が僚寀を厳選する際、昶を司馬にと請い太祖は許した。昶は若年ながら陸通に特に接待され公私の事は皆昶の決に任された。二千石郎中を兼ね典儀注を掌り、都官郎中・相州大中正・丞相府東閤祭酒・中軍將軍・銀青光祿大夫に累遷した。郎官にあっても太祖は昶に書記を委ねようと丞相府記室參軍・著作郎・修國史とし、大行臺郎中・中書侍郎に転じ、まもなく黄門侍郎に転じ臨黄縣伯(邑500戸)に封ぜられた。
  • 太祖はかつて昶に「卿の祖父は昔中朝で御史中尉であった、卿の操尚は貞固で家風を墜とすはずがない、ただ私は中尉が弾劾の官で愛憎が生じやすいことを憂い、すぐには授けなかった」と語り、この職が久しく空いており卿に代えるものがないとして御史中尉に奏拝した。歳余りで使持節・車騎大將軍・儀同三司を加えられ宇文氏を賜姓。六官建立で内史下大夫を拝し侯爵に進み邑500戸を増し、内史中大夫に遷った。世宗初め御伯中大夫を拝し、武成元年、中外府司録を除せられ、保定初め驃騎大將軍・開府儀同三司に進み、二年、御正中大夫に転じた。

晩年

  • 近侍清要の職に国華を選ぶ際、昶及び安昌公元則・中都公陸逞・臨淄公唐瑾らが共に納言とされ、まもなく公爵に進み邑を通算1300戸とした。五年、昌州刺史に出たが在州で病を得て入朝を願い、詔で許されたが京師に至る前、道中で50歳で卒した。相瀛二州刺史を贈られた。
  • 昶は太祖の世より既に枢要にあり、兵馬の処分は専ら委ねられ、詔冊の文筆も皆昶の作であった。晉公護が執政となってからも委任は変わらなかった。昶は常に「文章の事は後世に流すに足りぬ、経邦致治こそ古人に及ぶべきもの」と語り、作った文筆に草稿を残さず、ただ政事に心を留めるのみであった。また父が江南にあり自身は関右に寓したことから、若年から終生酒を飲まず楽を聴かず、時論はこれを称えた。子の丹が嗣いだ。

檀翥(附伝)

  • 当時、高平の檀翥、字は鳳翔という者があり、読書を好み文を能くし瑟を鼓すことに巧みで、早くより琅邪王元誦に知られ、19歳で魏孝明帝の挽郎となった。のち司州牧城陽王元徽が翥を従事としたが本意ではなく、まもなく病を称して三輔に客遊した。毛遯が行臺として北雍州を鎮した際、翥を行臺郎中として上表し、爾朱天光が東で齊神武を拒む際は翥もこれに従い洛陽に赴き西兗州録事參軍を除せられ司空田曹參軍を歴任し鎮遠將軍を加えられ殿中侍御史を兼ねた。臺中の表奏は皆翥の作であった。
  • まもなく毛鴻賓を副けて潼關を鎮し前將軍・大中大夫を加えられた。魏孝武帝西遷で高唐縣子を賜爵し中書舍人兼修國史を加え鎮軍將軍を加えられたが、のち談論が軽躁であったとして黄門侍郎徐招に弾劾され廷尉獄で死んだ。