周書卷三十五 列傳第二十七 崔謙

崔謙、字は士遜、博陵安平の人。賀拔勝の荊州鎮に仕えその南州での名声を支えたが、勝の敗北で共に梁へ奔り、のち先に帰国して魏文帝に厚遇された。西魏に仕えて沙苑・洛陽解囲などに功を挙げ、荊州總管として陳・齊に接する要地を治め、毎年の考績で天下第一とされた良牧。天和四年、任地で卒した。

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出自と生い立ち

  • 崔謙、字は士遜、博陵安平の人。祖父辯は魏の平遠將軍・武邑郡守。父楷は散騎常侍・光祿大夫・殷州刺史で、贈官は侍中・都督冀定相三州諸軍事・驃騎大將軍・儀同三司・冀州刺史。
  • 幼くして聡敏、神彩は際立ち、成長するにつれ沈毅で識量があった。經史を渉猟したが章句にはとらわれず、経国緯民の事を好んで常に心を寄せた。

魏末の従軍と賀拔勝の幕下

  • 孝昌中、著作佐郎として出仕し、太宰元天穆に従って邢杲を討ち功を挙げ、輔國將軍・太中大夫、平東將軍・尚書殿中郎に昇った。
  • 賀拔勝が荊州に鎮した際、行臺左丞として仕えた。勝は方岳の重任にあったが夷夏の綏撫や軍務の要は皆謙に委ね、謙もその智能を尽くして輔佐し、勝の南州での名声は謙の力によるところが大きかった。

魏孝武帝西遷時の建言と梁への亡命

  • 魏孝武帝が齊神武(高歓)の圧迫に備え賀拔勝に洛陽への進軍を詔したが、軍が廣州に至った時には帝は既に西遷しており、勝は逡巡して鎮地に戻ろうとした。
  • 謙は勝に対し、周室・漢室の故事を引き「忠臣が戈を執り義士が功を立てる時」であるとし、閩関に赴き皇帝に謁見した上で宇文行臺と協力すべきと説いたが、勝は用いず、士気は動揺し、州民鄧誕が侯景の軍を引き入れて勝は敗れ、麾下数百騎を率いて南の梁に奔った。謙も勝に従い梁に赴いた。
  • 梁で援軍派遣を乞うたが梁武帝は出兵しなかったものの、勝らの志節を嘉し帰国を許した。謙が先に帰国し隣好を通じることとなった。魏文帝は謙に会って大いに悦び、忠貞の報いであると称えた。

帰国後の功績と荊州総管としての治績

  • 太祖はかねて謙の名を聞き厚く礼遇し、征西將軍・金紫光祿大夫に任じ千乘縣男に封じた。勝の帰国後は太師長史となった。
  • 大統三年、太祖に従い竇泰を擒え沙苑で戦功を挙げ子爵に進み、車騎大將軍・右光祿大夫・尚書右丞となった。四年、太祖の洛陽解囲と河橋の戦いに従い、定州大中正・瀛州刺史を加えられた。十五年、車騎大將軍・儀同三司に昇り、隨郡で柳仲禮を破り魏興で李遷哲を討平し功を挙げ、驃騎大將軍・開府儀同三司・直州刺史となり宇文氏を賜姓。
  • 魏恭帝初め、利州刺史に転じた。蜀人賈晃・遷が反乱を起こし州城を包囲した際、謙は千余人を率いて防戦し梁州の援兵到着とともに晃・遷を擒え、首謀者のみを誅し余は赦した。旬日で州は安定した。
  • 世宗初め、作唐縣公に進んだ。保定二年、安州總管(隨應等十一州、甑山・上明・魯山三鎮諸軍事)・安州刺史となり、四年、大將軍を加え武康郡公に進んだ。天和元年、江陵總管を授けられ、三年、荊州總管(荊浙等十四州、南陽平陽等八防諸軍事)・荊州刺史に転じた。南は陳境、東は齊寇に接する要地であったが、謙は外敵を防ぎ軍民を撫し風化大いに行われ、良牧と称され毎年の考績は天下第一。四年、任地で卒し、境内の人々は痛惜して祠堂を建て四時に祭った。

崔曠(謙の子、附伝)

  • 子の曠が嗣いだ。至孝で、父の喪では滅性するほどであり、弟訦とは特に友愛が篤かった。年齢・名位が共に高くなっても資産を私しなかった。曠と訦の子弘度らは謙の遺訓を奉じたという。
  • 曠は少壮より温雅仁愛で、中外府記室から出仕し、大象末には開府儀同大將軍・浙州刺史に至った。

崔訦(謙の弟、附伝)――魏末の戦功と流離

  • 訦、本名は士約。少壮より鯁直で節槩があり、膂力人に過ぎ騎射に巧みであった。領軍府録事から諮議參軍に転じ、賀拔勝の荊州出鎮に従って假節・冠軍將軍・防城都督となった。勝に従って梁に奔り、のち梁より帰国し衞將軍・都督となり、安昌縣子(邑300戸)に封ぜられた。
  • 太祖の弘農回復・沙苑の戦いに従って功を挙げ侯爵に進み(邑800戸増)、京兆郡守を経て帥都督・撫軍將軍・通直散騎常侍・大都督・車騎大將軍・儀同三司・都官尚書・定州大中正を歴任し、安固縣侯に改封(邑300戸増)、宇文氏を賜姓され訦の名を賜った。

崔訦(謙の弟、附伝)――涼州刺史としての治績と晩年

  • 驃騎大將軍・開府儀同三司に進み侍中を加えられ、萬年縣公(邑通算2400戸)に進んだ。隴州刺史から涼甘瓜三州諸軍事・涼州刺史の總管に転じた。政は剛毅で百姓に畏れられた。
  • 齊王憲の東征に行軍長史として従い、軍還後は使持節・崇德安義等十三防・熊和忠等三州諸軍事・崇德防主となり、大將軍を加えられ安平縣公に改封された。建德四年、64歳で卒し、鄜延丹綏長五州刺史を贈られ、諡は壯。子の弘度は父に似た猛毅の風があり、大象末には上柱國・武郷郡公となった。