周書卷三十五 列傳第二十七 崔猷

崔猷、字は宣猷、博陵安平の人。漢の尚書崔寔の十二世孫。魏孝武帝に忠誠を尽くして間道より入関し、太祖のもとで軍議・行政に功があった。潁川・襄城の処遇や皇帝号・建元の建言、陳との和戦論など重要な進言で知られ、その守正は当時称賛された。開皇四年に卒した。諡は明。

年表(15件)
  • 普泰初め征虜將軍・司徒從事中郎に除せられるも家難に遭い間道で入関する
  • 大統初め給事黄門侍郎を兼ね平原縣伯に封ぜられる
  • 大統二年正黄門に除せられ竇泰を擒える戦いに本官のまま従軍する
  • 大統五年司徒左長史に除せられ驃騎將軍を加えられる
  • 大統十四年潁川・襄城の処遇について、行臺の移置を襄城に置くべきと献策する
  • 大統十六年疾により去職するも東征に従う
  • 大統十七年侍中・驃騎大將軍・開府儀同三司に進み宇文氏を賜姓される
  • 魏恭帝
  • 元年梁漢の旧路開通を督し、梁州刺史となる
  • 世宗即位御正中大夫に徴拝され、皇帝号を称し年号を建てるよう請う
  • 武成二年司會中大夫を除せられる
  • 保定元年總管梁利開等十四州・白馬儻城二防諸軍事・梁州刺史を再び授けられる
  • 天和二年陳への南伐に反対する諫言を行うが護は従わず後に水軍が敗れる
  • 建德四年同州司會に出る
  • 建德六年小司徒に徴拝され上開府儀同三司を加えられる
  • 開皇四年卒す。諡は明

出自と生い立ち

  • 崔猷、字は宣猷、博陵安平の人。漢の尚書崔寔の十二世孫。祖父挺は魏の光州刺史・泰昌縣子(贈輔國將軍・幽州刺史、諡は景)。父孝芬は左光祿大夫・儀同三司兼吏部尚書であったが齊神武(高歓)に殺害された。
  • 猷は少壮より学を好み風度閑雅、性は鯁正で軍國の籌略に長じた。

魏孝武帝への忠誠と入関

  • 員外散騎侍郎・領大行臺郎中から出仕し、吏部尚書李神□(底本欠字。原文は実体参照〈&KR1441;〉、字形不明)に薦められて通直散騎侍郎・攝尚書駕部郎中を拝した。普泰初め、征虜將軍・司徒從事中郎に除せられたが、家難に遭い間道を通り関に入った。
  • 魏孝武帝に謁見した際、哀慟して左右を動かし、帝は退出する猷を見送って「忠孝の道はこの一門に萃まる」と評した。本官のまま門下省の事を奏し、大統初め給事黄門侍郎を兼ね平原縣伯(邑800戸)に封ぜられた。

太祖のもとでの功績と諫言

  • 大統二年、正黄門に除せられ中軍將軍を加えられ、竇泰を擒え弘農を復し沙苑を破る戦いに本官のまま従軍して文翰を掌った。五年、司徒左長史に除せられ驃騎將軍を加えられた。
  • 太廟が初めて成った際、四時の祭祀になお俳優・角抵の戯が用いられ、郊廟の祭官に仮兼の者が多いことを疏を上げて諫め、これらは採用された。京兆尹に転じては、婚姻の礼が廃れ婚礼に音楽を用い、里(閭里)の富室の衣服が奢侈で織成文繍を用いる風潮を禁断するよう請い施行された。盧辯らと六官の制を創修した。

潁川・襄城をめぐる献策

  • 大統十四年、侯景が河南を挙げて帰款し、行臺王思政が赴いた。太祖は思政に「崔宣猷は智略明贍で応変の才あり、疑わしき事あらば量るべし」と書を送った。
  • 思政が潁川に行臺治所を移そうとし猷に意見を求めると、猷は「襄城は京洛を控帯する要地であり動静に応接しやすいが、潁川は敵境に隣接し山川の固めもない。潁川を州として郭賢に鎮守させ、行臺は襄城に置くべき」と返書し、太祖もこの策に従わせた。
  • のち思政は重ねて水攻ならば一年、陸攻ならば三年を期限として朝廷に約を請い許された。しかし潁川は結局陥落し、太祖は深く悔いた。

梁漢路の開通と諸州統治

  • 大統十六年、疾により去職したが東征に従い太祖に馬輿を賜り軍議に参じた。十七年、侍中・驃騎大將軍・開府儀同三司・本州大中正に進み宇文氏を賜姓。
  • 魏恭帝元年、太祖が梁漢の旧路を開こうとし、猷に儀同劉道通・陸騰ら5人を督させ、山を鑿ち谷を埋めて500余里の車路を開通させ梁州に至らせた。猷は都督梁利等十二州・白馬儻城二防諸軍事・梁州刺史となった。
  • 太祖崩後、利・沙・興等の諸州が兵を阻んで叛き信・合・開・楚四州も叛いたが、梁州のみ民心に二心なかった。利州刺史崔謙の求めに応じ猷は兵6千を派遣、信州には米4千斛を送り両鎮を全うさせた。固安縣公(邑2千戸)に進み、晉公宇文護に重んじられ猷の第三女を養女として富平公主に封じた。

称帝建元の建言と護との問答

  • 世宗即位に伴い御正中大夫に徴拝された。周禮に依り「天王」と称し年号を建てなかったが、猷は「世に澆淳あり運に治乱あり、帝王はこれに沿革すべきもの。今、天子が王と称すのでは天下に威を示すに足りない」として秦漢に倣い皇帝と称し年号を建てるよう請い、朝議はこれに従った。武成二年、司會中大夫を除せられ御正はそのままとした。
  • 世宗崩御に際し、遺詔で高祖(晉公護)を立てることとなり、護は猷に「魯國公(高祖)は太祖の諸子の中で年長、遺旨を奉じて主に戴くのはどうか」と問うた。猷は「殷道は尊尊、周道は親親。朝廷は既に周禮に遵うのだから、この義に違うべきではない」と答え、護が「畢公(宇文護の子)の幼さが心配」と言うと、猷は「周公が成王を輔けた故事に倣うべき」と応じた。この案は実行されなかったが、当時、猷の守正が称えられた。
  • 保定元年、重ねて總管梁利開等十四州・白馬儻城二防諸軍事・梁州刺史を授けられ、まもなく司會に戻った。

陳との和戦論

  • 天和二年、陳の将華皎が来附し、晉公護は南伐を議したが公卿は正言を憚った。猷は独り「前歳の東征で死傷は過半、瘡痍いまだ癒えず、近ごろ長星の災異は天の戒めであり、徳を修めて天変を禳うべき。陳氏は境を保ち民を息わせ隣好を敦くしており、盟約に違い叛臣を納れて名分なき師を興し土地を貪るのは前代に例なし」と進言したが、護は従わず、のち水軍は敗れ裨將元定らは江南で全滅した。

晩年

  • 建德四年、同州司會に出、六年、小司徒に徴拝され上開府儀同三司を加えられた。隋文帝踐極に際し、猷が前代の旧臣であることから大將軍を授けられ汲郡公に進み(邑通算3千戸)、開皇四年に卒した。諡は明。子の仲方、字は不齊は早くより知られ機神穎悟、文学に優れ、大象末には儀同大將軍・司玉下大夫であった。