柳敏
- 柳敏、字は白澤。河東解県の人。晋太常柳純の七世孫。父の懿は魏の車騎大将軍・儀同三司・汾州刺史。柳敏は九歳で父を失い母に孝養を尽くし、経史・陰陽卜筮の術に通じた。二十歳前に員外散騎侍郎から起家し河東郡丞、文帝が河東を克復した際にその器を見て「今日の喜びは河東を得たことより卿を得たことにある」と評され、丞相府参軍事・戸曹参軍・記室として四方の賔客の応接や吉凶礼儀を掌り、蘇綽らと新制(朝廷政典)を修撰。禮部郎中・武城県子、母の喪に鬢髪が半白になるほど哀毀し、吏部郎中でも同様に礼を尽くし文帝に感嘆された。
- 尉遅迥の蜀征討に行軍司馬として籌略を委ねられ、益州平定の功で驃騎大将軍・開府儀同三司・侍中、宇文氏を賜姓、尚書、六官制下で礼部中大夫。孝閔践阼で公に進爵、河東郡守を経て禮部に復し郢州刺史では夷夏の士人が惠政に感謝して見送りを企図したが柳敏は別道で帰りこれを避けた。禮部改め司宗となりこれを掌り、方正恭勤で毎日早起きし朝を待った。長年台閣に処し故事に明るく先例に合わぬ礼儀を按據して正した。小宗伯として国史を監修、小司馬・律令の監修を経て大将軍、鄜州刺史に出る予定が病のため赴かず、武帝の斉平定で武徳郡公。建徳以降長患いし武帝・宣帝が親しく見舞った。開皇元年上大将軍・太子太保。その年卒し、五州諸軍事・晋州刺史を贈られた。臨終に喪事を簡約にせよと戒め、子らはこれを守った。
柳昻(柳敏の子)
- 柳昻、字は千里。聡明で識度・器量にすぐれ、武帝時に内史中大夫・開府儀同三司・文城郡公を賜爵。要職にありながら献策を尽くし驕らず時論に重んじられた。武帝崩御後の遺輔政では宣帝に疎まれても本職を離れず、隋文帝が丞相となると深く結び大宗伯とされたが拝日に偏風(半身麻痺)を患い視事できなくなった。隋文帝受禅で疾癒え上開府・潞州刺史。天下太平を見て勧学・行礼を上表し隋文帝に称賛され、以後諸州県に博士が置かれ礼が習われるようになった。惠政を挙げ在州にて卒し、子の調が嗣いだ。