周書卷三十二 列傳第二十四 盧柔

盧柔

  • 盧柔、字は子剛。幼くして孤児となり叔母に育てられ、実子同様に温清(孝養)を尽くした。聡敏好学で二十歳前に属文に通じたが吃音で持論できず、酒に任せて奇行が多く世に譏られたが、司徒臨淮王元彧はその才を見込んで娘を娶わせた。魏孝武帝と斉神武の隙が生じ賀抜勝が荊州に出鎮すると、功業を求め従い、大行台郎中として軍中の機務を掌り、勝が太保となると掾・冠軍将軍。孝武帝の召喚に賀抜勝が応じるべきか問われ、盧柔は「上策は席巻して都に赴き決勝すること、中策は三荊の地を保ち観望すること、下策は梁に款を通じ身を保つのみで功名を失う」と献じたが、勝は柔を若輩と侮り取り合わなかった。
  • 孝武帝西遷後、東魏の侯景が穣を襲い勝は敗れて梁に南奔、柔も従った。勝がたびたび梁朝に帰国を上表し、梁武帝はその文辞を称賛し柔の作と知って舎人を遣わし慰問し縑錦を贈った。のち勝と共に帰還する途中、斉神武が侯景に軽騎で邀撃させたため船を棄て山道を進み、秋の長雨で従者の多くが凍餒死する中、柔も豊陽で道に迷い倒木の下で凍雨に濡れ死にかけた。大統二年長安に至り容城県男・食邑二百戸に封ぜられた。太祖はその才を重んじ行台郎中・平東将軍とし従事中郎、蘇綽と共に機密を掌った。沙苑の勝利後、汝潁一帯からの帰附の書翰が日に百通に及ぶのを柔が随機に応答し全て事宜に適ったとされ、子に進爵・食邑三百戸を増された。中書舎人、司農少卿、著作郎として起居注を撰し、黄門侍郎。文帝はその貧しさを知り自らの衣を脱いで与えたという。魏廃帝元年車騎大将軍・儀同三司・散騎常侍・中書監、孝閔践阼で小内史、内史大夫・開府に進み在位のまま卒した。詩頌・碑銘・檄表・啓など数十篇が世に伝わった。子の愷が嗣ぎ、経史に通じ吏部内史・上士・礼部下大夫を歴任、陳への聘使副使、大象初東京吏部下大夫。