申徽
- 申徽、字は世儀。魏郡の人。六世祖の鐘は後趙司徒で冉閔末の乱で子の邃が江左に避難、曽祖爽は宋の雍州刺史、祖の隆道は宋北兗州刺史、父の明仁は郡功曹で早卒。申徽は母に孝養を尽くし、経史を好んだが妄りに交遊しなかった。元顥の入洛時、元邃の主簿として顥敗北の際も主人に従い続け、唯一委さなかった忠義を称えられた。孝武帝の洛陽の兵乱を避け間行して関に入り文帝に見え、賀抜岳に薦められ賓客に迎えられた。文帝が夏州に臨むと記室参軍・府主簿として重用され、大行台郎中として草創期の四方の書檄を任され、孝武帝を迎えた功で愽平県子・本州大中正。大統初、侯に進爵、四年に中書舎人・起居注を修め、河橋の役で近侍が散る中ひとり文帝の側を離れず称賛された。
- 十年、給事黄門侍郎。瓜州刺史東陽王元栄の女婿劉彦が栄の死後、後継者の康を殺して刺史位を奪ったが四方多難で朝廷は罪を問えず刺史に任じたところ、劉彦は召喚に応じず吐谷渾と通じ叛意を見せた。文帝は権略で図るべく申徽を河西大使とし軽騎五十で赴かせた。単使のため疑われず、内応者の勧めで劉彦は館に赴いたところを縛り上げ、罪状を数えて「送京の詔命通り送るのみで済ませる」と宥め、混乱なく事を収めた。都官尚書に遷り、十二年瓜州刺史成慶が城人張保に殺され都督令狐延らが保を逐い刺史を請うたため、申徽の西土での信望から仮節・瓜州刺史とされた。在任五年、倹約を率先し辺人は安んじた。十六年、尚書右僕射兼・侍中・驃騎大将軍・開府儀同三司を加え、廃帝二年公に進爵、宇文氏を賜姓。
- 政務に勤勉で案牘は大小自ら閲し公卿となっても怠らなかった。襄州刺史に出た際、南方帰附の地に賄賂の風習があったが申徽は楊震の像を寝室に掲げて自戒し、離任時には吏民が数十里見送った。自らの徳の至らなさを恥じて詩を清水亭に題したところ、幼老が競って読み写したという。明帝は御正を絲綸を総べる要職として上大夫四員に格上げし申徽もこれに任ぜられ、小司空・少保を経て荊州刺史、小司徒・小宗伯に至った。天和六年致仕を上疏し許され、薨じて泗州刺史・諡章を贈られた。子の康が瀘州刺史・司織下大夫・上開府を嗣ぎ、康の弟の敦は汝南郡守、敦の弟の靜は斉安郡守、靜の弟の処は上開府・同昌県侯で卒した。