梁士彦
- 梁士彦、字は相如。安定烏氏の人。任侠を好み兵書を読み、周武帝の東夏平定に際し扶風郡守から九曲鎮将に抜擢、上開府・建威県公。斉に恐れられた。熊州刺史から武帝の晋州攻略に従い大将軍・晋州刺史。斉後主自ら晋州を攻囲し楼堞が尽きる激戦の中、士彦は「死は今日にあり、我先に立つ」と鼓舞し、妻と兵の子女に城壁を三日で修復させ、武帝の大軍到着で囲みは解けた。武帝に会うや帝の鬚を捋って泣き、帝も涙した。武帝が班師を考えた際、士彦が馬を止めて諫め帝は従い、「晋州は平斉の基盤、よく守れ」と手を握って託した。斉平定後、郕国公・上柱国・雍州総管。宣帝即位で徐州総管、烏丸軌と共に呂梁で陳将呉明徹・裴忌を擒え淮南を略定。
- 隋文帝作相期、亳州総管から尉遅迥反乱で行軍総管、韋孝寛の下で家僮梁黙らを前鋒に破竹の勢いで迥を平定。相州刺史となったが忌まれ京師に召還され、閑居して怨みを抱き、宇文忻・劉昉らと共に上が廟に享する隙に乱を起こす謀を練った。甥の裴通の密告で発覚したが帝は事を伏せて晋州刺史に任じ動静を試したところ、士彦は「天の与えだ」と喜んだ。摩兒(薛摩兒)を長史に求め帝はこれを許した。後日朝謁の折、士彦・忻・昉らは列間で詰問されなお伏さなかったが、薛摩兒が始末を証言したことで露見。次子・剛は泣いて諫めていたが、三子の叔諧が「猛獣は斑を成さねば」と口を滑らせたため士彦を「お前が私を殺した」と嘆かせ、ついに誅殺された。享年七十二。長子の操、字は孟徳、上開府・義郷県公、早卒。剛、字は永固、大将軍・通政県公・涇州刺史で父を諌めたため死を免れ瓜州に流された。叔諧は連座で誅された。士彦の蒼頭・梁黙は驍武で知られ、士彦の従軍に常に陣を共にし周では開府、隋開皇末は楊素の突厥征討・楊諒平定に従い柱国、大業五年煬帝の吐谷渾征討で戦死し光禄大夫を追贈された。