周書卷十七 列傳第九 劉亮

劉亮(本名道徳)は中山の人。賀抜岳の西征に従い功を重ね、岳の死後は太祖擁立に加わり、豳州に拠った孫定児を奇襲して斬り諸州の反乱を鎮めた。太祖に「私の孔明」と称され「亮」の名と侯莫陳氏の姓を賜った。東雍州刺史在任中に卒去した。享年40。

年表(2件)
  • 大統元年535年潼関回復の功により車騎大将軍・儀同三司に進み饒陽県伯に改封される
  • 10年544年東雍州刺史として出鎮する

出自と孫定児の討伐

  • 劉亮は中山の人。本名は道徳。祖父の祐連は魏の蔚州刺史、父の持真は鎮遠将軍・領民酋長であった。魏大統中、亮の勲功により車騎大将軍・儀同三司・恒州刺史を追贈された。
  • 亮は若くして倜儻で縦横の計略があり容貌魁傑で見る者はこれを憚った。普泰初年、都督として賀抜岳の西征に従い岐州の包囲を解き、侯伏侯元進・万俟道洛・万俟醜奴・宿勒明達らの諸賊を撃った際、亮は常に先鋒として陣を陥れ功により大都督を拝命し広興県子(食邑500戸)に封じられた。
  • 侯莫陳悦が岳を殺害すると、亮は諸将とともに太祖を迎える謀に加わり、悦の平定後、悦の党の豳州刺史の孫定児がなお州に拠って下らず、涇州・秦州・霊州など諸州が悉く定児に呼応し衆は数万に及び定児を主に推して義師に抗した。太祖は亮にこれを襲わせた。定児は義兵がまだ遠いとして備えていなかったため、亮は20騎を率いて先に近城の高嶺に纛を立て、そのまま城中に馳せ込んだ。定児がちょうど酒宴を開いていたところに亮が突然至り、衆は皆驚き何をすべきか分からなかった。亮は兵を指揮して定児を斬りその首を掲げて賊党に号令し、さらに城外の纛を遠く指差して2騎に「大軍を追って外へ出よ」と命じると、賊党は恐れおののき一斉に降伏した。これにより諸州の群賊は皆帰順した。
  • 太祖が12軍を置き諸将を選んでこれを統率させた際、亮は1軍を領し、征討のたびに常に怡峯とともに騎将となった。魏孝武帝の西遷に際し迎駕の功により使持節・右光禄大夫・左大都督・南秦州刺史を除された。
  • 大統元年(535年)潼関回復の功により車騎大将軍・儀同三司に進位し饒陽県伯(食邑500戸)に改封、まもなく侍中を加えられた。竇泰捕縛・弘農回復・沙苑の役に亮は力戦して功があり、開府儀同三司・大都督に遷り長広郡公(食邑通算2000戸)に進爵。母の喪により職を去り、喪に服して憔悴した。太祖はその至情を嘆じ常に惜しみ、まもなく本官に復させた。
  • 亮は勇敢をもって知られ当時の名将であり、しばしば謀を陳べて機宜に合った。太祖は「卿は文武兼資、まさに私の孔明だ」と語り、亮という名と侯莫陳氏の姓を賜った。10年(544年)東雍州刺史として出鎮、政は清浄で百姓に安んじられた。在職3年で州で卒去。享年40。柩が京師に還ると太祖自ら臨んで泣き「股肱を喪った、腹心を何に寄せようか」と人に語り、鴻臚卿に喪事を監護させ太尉を追贈し諡は襄、太祖廟庭に配享された。
  • 子の昶は太祖の娘の西河長公主を娶り、大象中に柱国・秦州霊州総管に至り、亮の功により彭国公(食邑5000戸)に封じられた。昶の弟の靖は天水郡守、靖の弟の恭は開府儀同三司・饒陽県伯、恭の弟の幹は上儀同三司・褒中侯であった。