周書卷十七 列傳第九 王德

王德(字天恩)は代郡武川の人。賀抜岳の下で万俟醜奴討伐に功を挙げ、岳の死後は寇洛らと太祖擁立に加わった。平涼郡守として治績最上とされ、河州刺史として羌族を綏撫するなど各地で善政を敷いた。涇州刺史在任中に卒去した。

年表(4件)

出自と平涼郡守としての善政

  • 王徳は字を天恩といい、代郡武川の人。若くして騎射に長じ、師訓を経ずとも孝悌をもって称された。魏永安2年(529年)爾朱栄に従い元顥を討ち河内を攻め、応募して先登し功により討夷将軍を除され同官県子に進爵。さらに賀抜岳に従い万俟醜奴を討ち平定して深沢県男(食邑200戸)に別封され龍驤将軍・中散大夫を加えられた。
  • 侯莫陳悦が岳を殺害すると、徳は寇洛らと議を定めて太祖を擁立し、征西将軍・金紫光禄大夫・平涼郡守を加えられた。徳は書に通じてはいなかったが、断決処分にかけては良吏もこれに及ばなかった。涇州所属の5郡の中で徳の治績が常に最上とされた。魏孝武帝の西遷に際し奉迎の功により下博県伯(食邑500戸)に進封され、東雍州事を代行し、在州まもなく百姓に慕われ烏丸氏を賜姓された。
  • 大統元年(535年)衛将軍・右光禄大夫を拝命し公に進爵し食邑1000戸を加増、車騎大将軍・儀同三司・北雍州刺史を加えられた。その後常に太祖の征伐に従い戦功を重ね、斉神武を沙苑で破る戦いにも従い開府・侍中を加え河間郡公に進爵し食邑通算2700戸とされた。
  • それ以前、河渭の間の種羌がしばしば反乱を起こしていたが、徳は威名があり夷民に慕われたため河州刺史を除され、徳の綏撫は要を得て群羌は服従した。13年(547年)大都督・原州霊州顕州三州五原鎮蒲川鎮二鎮諸軍事を授かり、14年(548年)涇州刺史を除され、州で卒去。諡は献。徳は性厚重で廉慎、言行に選ぶところがなく、母は百歳近くまで存命し徳の死後も生きていた。
  • 子の慶は小名を公奴といい性は謹厚で官は開府儀同三司に至った。当初、徳が父を喪った際、家は貧しく葬儀の費用がなく公奴と一女を売って葬事に充てたが、その後兵乱に遭い消息が分からなくなった。徳が平涼にあった際にようやく公奴を見つけ出し、慶と名づけた。

史論

  • 史臣曰く、梁禦らは将帥の材を負い驍鋭の気を蘊み、喪乱に遭遇して干戈を馳騖し艱難険阻をつぶさに嘗めたが功名はまだ立たなかった。深い憂いが聖運を啓き、あらかじめ興王に仕え謀を参じ、締構の初め経綸の始めに力を宣べ、灌嬰・酈商・張良・徐世勣に比肩し得たことは、まさに時に遇ったと言えよう。しかしいずれも中年で世を去り、遠志を伸ばせなかったのは惜しむべきである。若干惠・王徳はもともと果毅で知られたが、孝道に由って行動できたことは難しい。図史がこれを称えたのも当然である。「勇者は必ずしも仁あるとは限らない」とはこの場合当てはまらない。