周書卷十七 列傳第九 怡峯

怡峯(字景阜)は遼西の人。もとの姓は黙台であったが避難のため改姓した。賀抜岳の万俟醜奴討伐に従軍し、岳の死後は趙貴らと太祖を擁立した。沙苑の戦いや洛陽回復など各地を転戦して功を重ねたが、東魏の潁川包囲への救援に向かう途上、南陽で病を得て卒去した。享年50。

年表(2件)
  • 大統2年536年太祖に従い竇泰を小関で破る
  • 15年549年東魏の潁川包囲の救援に赴く途上、南陽で病を得て卒去する。享年50

出自と各地の征戦

  • 怡峯は字を景阜といい、遼西の人。もとの姓は黙台であったが避難のため改姓した。高祖の寛は燕の遼西郡守で魏道武帝の時代に一族を率いて帰朝し羽真を拝命し長虵公に叙爵。曽祖父の文は冀州刺史であった。
  • 峯は若くして征役に従い驍勇で知られた。永安中に仮龍驤将軍・都将として賀抜岳の万俟醜奴討伐に従い功により給事中・明威将軍を授かり、征虜将軍・都督に転じ蒲陰県男に叙爵。岳が殺害されると峯は趙貴らと同謀して太祖を擁立し伯に進爵した。原州刺史の史帰がなお侯莫陳悦のために守っていたため、太祖は峯と侯莫陳崇にこれを討たせ捕らえた。
  • 斉神武と魏孝武帝が対立した際、帝はしばしば太祖に勅して精鋭を選び京邑に入衛させ、太祖は峯と都督の趙貴らに軽騎を率いて洛陽に赴かせた。潼関に至ると魏孝武帝の西遷に遭遇し、峯はそのまま太祖に従い廻洛城を拔き潼関を復し安東将軍・華州刺史を拝命、まもなく大都督に転じ曹泥討伐の功により華陽県公(食邑1000戸)に進爵。
  • 大統2年(536年)太祖に従い竇泰を小関で破り還ると散騎常侍・車騎大将軍・儀同三司を拝命、さらに弘農回復・沙苑の戦いに従い楽陵郡公に進爵。元季海・独孤信とともに洛陽を回復した際、峯は奇兵を率いて成皋に至り郛を陥れ戸口を収めて還った。東魏が行台の任祥に歩騎1万余を率いさせ潁川を攻めた際、峯は軽騎500でこれを邀撃し、これにより威名はさらに盛んになり開府儀同三司を加授された。
  • 東魏が洛陽を包囲した際、峯は元季海とともに金墉城を守り、太祖が至って包囲が解けると東魏と河橋で戦った。峯は左軍を率いたが戦況不利で李遠とともに先に退き、太祖はこれにより班師した。詔してその罪を宥し、東西北三夏州諸軍事・夏州刺史を拝命。のち于謹とともに劉平伏を討ち、玉璧の包囲を解き柏谷塢を平定し、いずれも功があった。涼州刺史の宇文仲和が反すると峯は于謹とともにこれを討った。
  • 15年(549年)東魏が潁川を包囲すると峯は趙貴とともに救援に赴いたが南陽に至って病を得て卒去。享年50。峯は沈毅で膽略があり士卒の心を得て、当時驍将と称された。太祖は長く嗟悼し、華州刺史を追贈し諡は襄。子の昻が跡を継ぎ開府儀同三司に至った。朝廷は峯の功を追録し昻を鄭国公に封じた。昻の弟の光は峯の勲により若くして安平県侯に叙爵、員外散騎常侍として起家し司土中大夫・左武伯に累進、汾州・涇州・豳州の刺史として出鎮し開府儀同三司を加え龍河県公に進爵した。光の弟の春は若くして名を知られ吏部下大夫・儀同三司を歴任した。