出自と賀抜岳没後の全軍保全
- 寇洛は上谷昌平の人。代々将吏を出す家柄で、父の延寿は和平年間に良家子として武川鎮に移り住み、そこで一家を構えた。
- 洛は物事の判断に明るく小事にこだわらない性格だった。正光末、北辺で反乱が起こると郷里の一族を率いて并州・肆州へ避難し、爾朱栄の征討に従軍した。
- 賀抜岳の西征に加わり、赤水蜀を破って中堅将軍・屯騎校尉・別将に任じられ臨邑県男(食邑200戸)に封じられた。さらに岳に従い渭水で尉遅菩薩を、百里細川で侯伏侯元進を破り、長坑で万俟醜奴を捕らえるなど各戦で功を挙げ、龍驤将軍・都督に進み安郷県子に爵を進めた。累進して征北将軍・衛将軍となり、平涼では右都督となった。
- 侯莫陳悦が岳を殺害してその軍を併呑しようとしたとき、軍中は主将を失って動揺したが、洛は諸将の中で最年長で衆望が厚く、将士をまとめて復讐を誓い、全軍を保って原州へ帰還した。衆は洛を盟主に推したが、洛は自分に器量がないとして固辞し、趙貴らと協議して太祖(宇文泰)を迎え入れることを決めた。
- 魏帝は洛の全軍保全の功により武衛将軍に任じ、太祖が平涼に至ると洛を右大都督とし、侯莫陳悦討伐に従わせてこれを平定、涇州刺史を拝命した。魏孝武帝の西遷に伴い臨邑県伯(食邑500戸)に進爵、驃騎大将軍・儀同三司、さらに公に進爵し食邑を500戸加増された。
- 大統初年、魏文帝は詔して洛の忠誠と功績を賞し、開府・京兆郡公に進爵させ、母の宋氏を襄城郡君に封じた。その後領軍将軍に転じ、3年(537年)に華州刺史として出鎮、侍中を加えられ独孤信とともに洛陽を回復し弘農に鎮を移した。
- 4年(538年)、太祖に従い東魏と河橋で戦い、軍が還ると洛は麾下を率いて東雍州に鎮した。
- 5年(539年)、鎮所で没した。享年53。使持節・侍中・都督雍華豳涇原三秦二岐十州諸軍事・太尉・尚書令・驃騎大将軍・雍州刺史を追贈され、諡は武。子の和が跡を継いだ。
- 世宗2年(558年)、旧勲を記録して洛を太祖廟庭に配享し、和には若口引氏を賜姓し松陽郡公に改封した。和はのちに開府儀同三司・賓部中大夫に至った。洛の弟の紹は上柱国・北平郡公に至った。