周書卷十四 列𫝊第六 念賢

念賢

  • 念賢、字は葢盧。容姿・気品にすぐれ書史に通じた。少年の頃学舎で読書していると、人相見が学舎の諸生を占おうとしたが賢だけは行かず「男児の生死富貴は天にある、どうして相を見るまでもない」と笑って言った。若くして父の喪に遭い、喪に服して孝行の誉れがあった。
  • のち衛可孤を破った功で別將に除せられ、雲州の高車・鮮卑らを招慰して悉く降し假節・平東將軍を除せられ屯留縣伯に封じられ食邑500戸。建義初年(528年)大都督として井陘を鎮め撫軍將軍・黎陽郡守を加えられた。爾朱榮が洛陽に入ると車騎將軍・右光禄大夫・太僕卿を拝命し尚書右僕射・東行臺を兼ね平恩縣公に進爵し食邑500戸を増され、普泰初年(531年)使持節瀛州諸軍事・驃騎將軍・瀛州刺史に除せられた。
  • 永熙年間(532-534年)第一領民酋長を拝命し散騎常侍を加え南兖州事を行い、驃騎大將軍の号を進められ殿中尚書に入り儀同三司を加えられた。魏の孝武帝が齊神武討伐を図った際、賢は中軍北面大都督となり安定郡公に進爵し食邑1000戸を増され侍中・開府儀同三司を加えられた。
  • 大統初年(535年)太尉を拝命し秦州刺史として出鎮、太傅を加えられ後部鼓吹を給され、3年(537年)太師に転じ都督河涼瓜鄯渭洮沙七州諸軍事・大將軍・河州刺史となった。のち朝廷に戻り録尚書事を兼ねたが、河橋の戦いで賢は力戦せず、これより名声は大いに落ちた。
  • 5年(539年)都督秦渭原涇四州諸軍事・秦州刺史に除せられ、州で薨去し諡は昭定。賢は諸公にとって父の世代にあたり太祖以下皆これを敬った。子の華は温厚な人柄で長者の風があり、官は開府儀同三司・合州刺史に至った。

史論

  • 史臣は論じる。賀拔勝・岳の兄弟は勇略の資質をもって群雄競い合う時代に臨み、いずれも時運に投じて功を立てた。当初は爾朱氏に身を委ね、のちには高氏(齊神武)と誼を結び、太昌年間ののちには帝図を明察してその由来を察したのであり、もとより節を守る士ではなかった。しかし勝が江左(南朝)に翼を垂れていたときも魏室の危亡を憂え、関西に奮い立った際には梁朝の厚遇に感じて長者の風を示し、ついにその栄寵を保ち得たのはこの徳によるものであろう。
  • 岳は2000の弱兵をもって三秦の強敵に抗し、智勇を奮って凶徒を切り従え威を畏れさせ遠方をも義に慕わせたのは一時の盛事であった。しかし功高きゆえに禍を速め備えなく殺されたのは惜しむべきである。陳渉は事を起こしながら成し遂げられなかったが漢がこれによって創業したように、賀拔氏の元功はまたたく間に殞ちたが太祖はこれによって基を開いた。廃するものがなければどうして興るものがあろうか、まことにその通りである。