周書卷十一 列傳第三 晉蕩公護

晉蕩公護、字は薩保(?–572年)。太祖宇文泰の兄・邵恵公顥の末子。太祖の顧命を受けて幼い諸帝を輔け、趙貴・独孤信を誅し、孝閔帝を廃立、明帝を毒殺、武帝を擁立するなど三代二十年近くにわたり実権を握った権臣。専権を極めたが、母との再会など人情の面も伝わる。最後は武帝と衛王直に誅殺された。

年表(12件)

出自と生い立ち

  • 晉蕩公護、字は薩保。太祖(宇文泰)の兄・邵恵公顥の末子。幼くして端正で志操があり、徳皇帝に特に愛された。十一歳で邵恵公が薨じ、諸父に従い葛栄の軍中にあったが、栄が敗れると晋陽に移った。太祖が関中に入った時、護は年少のため従えず、普泰初年(531年)晋陽から平涼に至った。時に十七歳。太祖の諸子はみな幼く、家務を護に委ねたところ内外が粛然と治まり、太祖は「この子の志操は我に似る」と嘆じた。太祖が夏州に出た際は護に留守を任せ、賀抜岳が害されると太祖は平涼に至り護を都督とし、侯莫陳悦討伐に従わせた。魏帝を迎えた功で水池県伯に封じられ邑五百戸を得た。

太祖の下での軍功

  • 大統初年、通直散騎常侍・征虜将軍に加えられ、策謀に与った功で公に進爵し邑を通算千戸に増した。竇泰を擒え、弘農を復し、沙苑で戦い、河橋で戦って功があり、鎮東将軍・大都督に遷った。大統八年(542年)、車騎大将軍・儀同三司に進み、邙山の役では先鋒として敵に囲まれたが都督侯伏侯竜恩が身を挺して救い危うく免れた。この時趙貴らの軍も退き太祖は班師、護は免官となったがすぐ本位に復した。十二年、驃騎大将軍・開府儀同三司に加えられ中山公に進封、邑四百戸を増した。十五年、河東に出鎮し大将軍に遷り、于謹に従い江陵を征した際は軽騎を率いて先鋒となり昼夜兼行、裨将を遣わして梁の辺城を攻め抜き、候騎を擒え、江陵城下に迫った。城中は不意を突かれ惶窘した。護はさらに騎二千を遣わし長江の渡し場を断ち舟艦を収めて大軍の到着を待ち、囲んでこれを克した。功により子の会を江陵公に封じた。襄陽の蛮帥向天保ら万余落が険を恃んで叛乱していたが、師の帰還に際し護はこれを討平した。

太祖の死と実権掌握

  • 六官の制を始めるにあたり小司空を拝命した。太祖が西巡して牽屯山で病を得ると駅を馳せて護を召した。護が涇州に至ると太祖の病は既に篤く、太祖は「わが姿はこの通りだ、必ず助からぬ。諸子は幼く寇賊も未だ平らかず、天下の事はお前に託す、努めてわが志を成せ」と言った。護は涕泣して命を受け、雲陽に至った時に太祖は崩じた。護はこれを秘して長安に至ってから喪を発した。時に嗣子(覚)は幼弱で強敵が近くにあり人心は不安であったが、護が内外の綱紀を整え撫循したことで衆心は定まった。かつて太祖が「我は胡力を得た」と言った意味が、この時に至って「護」の字に当てたものと解された。ほどなく柱国を拝命し、太祖の山陵が終わると、天命の帰する所として魏帝に禅代を勧め、孝閔帝が即位すると大司馬・晋国公(邑一万戸)となり大冢宰を拝した。

孝閔帝の廃立

  • 趙貴・独孤信らが護を襲う謀をなしたが、護は貴の入朝に乗じてこれを執え、党与はみな誅に伏した。司会の李植・軍司馬の孫恒らは太祖の朝以来久しく権要にあったが、護の執政を見て容れられないことを恐れ、宮伯の乙弗鳳・張光洛・賀抜提・元進らを腹心として帝に「護は朝貴を誅して以来威権が日に盛んで、謀臣宿将が争って附き大小の政事はみな護が決する、臣が見るに臣節を守らぬだろう、早く図るべし」と説いた。帝はこれを信じ、鳳らはさらに周公の故事を引いて帝を煽り、帝は武士を後園に潜めて護を捕える準備をした。護はこれをうすうす知り、李植を梁州刺史に、孫恒を潼州刺史に出して謀を遏めようとしたが、帝がなお彼らを召そうとするので護は「兄弟の親を裂けば他人など頼めない、太祖の顧命に応え、陛下が親ら万機を覧るまで股肱として尽くしたい、除かれれば奸が逞しくなり社稷も危うくなる」と諫めて涙した。しかし帝の猜疑は解けず、鳳らはますます謀を密にし、群公を宴に召して護を誅そうと日を定めた。張光洛がその謀を護に密告し、護は柱国賀蘭祥・小司馬尉遅綱らを召して鳳の謀を告げた。祥らは護に帝の廃立を勧め、綱は禁兵を総べて鳳らを召し次々と捕え護第に送った。護は宿衛兵を罷し、祥に帝を旧邸に幽閉させ、諸公卿を召して「先王は布衣より起ち三十余年艱難した、寡人(護)も猶子として顧命を受け、略陽公(覚)が正嫡として立ったが、即位以来荒淫無度で骨肉大臣を疎んじ誅夷しようとした、社稷のため今日は略陽に背いても社稷には背かぬ、寧都公(毓)は年徳兼備で四海の望みを集めている、昏を廃し明を立てたい」と諮ると、群臣は「これは公の家事、命に従うのみ」と応じた。かくして鳳らを門外に斬り、李植・孫恒らも誅し、ほどなく閔帝を弑して岐州から世宗(明帝)を迎え立てた。

世宗の毒殺

  • 二年、太師を拝し輅車・冕服を賜り、子の至を崇業郡公に封じた。雍州刺史を牧と改め護をこれに充て金石の楽を賜った。武成元年、護は上表して政を帝に帰したが、帝はこれを許しつつも軍国の大事はなお護に委ねた。帝は聡叡で識量があり、護は深くこれを憚った。膳部下大夫の李安という者が料理を通じて護に寵を得ていたが、護はひそかに安に命じて帝の食に毒を進めさせ、帝はついに病んで崩じた。護は高祖(武帝)を立て、百官は総己して護に聴くこととなった。太祖が丞相となって以来置かれた左右十二軍は相府に総属し、太祖の崩後はみな護の処分を受け、護の書無くしては徴発も行われなかった。護第には禁衛の兵が宮闕以上に盛んに屯され、事は巨細を問わず先に断じてから帝に聞こえた。

専権の極まりと母子再会

  • 保定元年(561年)、護を都督中外諸軍事とし五府を天官に総べさせた。護の意を迎える者が「周公の徳は魯に廟を立てられた、護の功も周公に比すべき」と言ったため、同州晋国第に徳皇帝の別廟を立て護に祭らせた。三年、詔して大冢宰晋国公の徳を称え、今後は詔誥・百司文書で公の名を称してはならぬとし殊礼を彰したが、護は表を上げて固辞した。太祖の代から突厥と和親し高氏を挟撃する策を立てており、この年柱国楊忠を突厥とともに東伐に遣わし斉の長城を破って并州まで至り還った。護の母閻姫と皇族の第四姑(叔母)ら親族は斉に没して幽閉されていたが、護が宰相となって以来間使を遣わして消息を尋ねてもわからなかった。この年に至りようやく帰朝を許され、かつ和好を請うた。四年、皇姑がまず斉から至ったが、斉主は護が権を握るのを見て母を留め後図に備え、閻氏に代作させた書を護に送らせた。
  • 閻氏の書は、三十余年隔絶した母子の情、幼くして別れた昔語り、鮮于修礼の乱で一族が離散した経緯、その後の再会と別離、老いた身での孤独と護への切なる思いを長々と綴ったものであった。護は書を読み悲しみに堪えず、返書で自らの不孝を詫び、母を思う心情を切々と述べた。
  • 未だ返書が送られぬうちに斉朝は仁姑(叔母)をまず帰し、世母(護の母)は暑を避けるとして来秋を約したが、期に至っても果たされず、朝廷は「信無くば立たず」として斉に移書し、道理を尽くして帰還を求め、あわせて護が忠孝の節を全うすることへの期待と、東征の準備が既に整っていることを述べて斉を牽制した。移書が送られる前に母は至り、挙朝が慶悦し天下に大赦した。護と母は多年の隔絶の後に再会し、供養は極めて盛んで、四時伏臘には高祖が諸親戚を率いて家人の礼を行い、上寿の栄は古今未聞であった。
  • この年、突厥がまた期に応じて出兵したため、護は斉が国親(母)を送り届けたばかりで即座には征討したくなかったが、信を失えば蕃夷に辺患が生じることを恐れ、やむなく東征を請うた。九月、詔して護を派し、二十四軍及び左右廂散隷・秦隴巴蜀の兵・諸蕃国の衆二十万人を徴し、十月、帝は廟庭で護に斧鉞を授けた。護は潼関に至り、柱国尉遅迥に精兵十万を先鋒として洛陽を囲ませ、大将軍権景宣に予州へ、少師楊□に軹関へ出させ、護自身は連営して漸進し弘農に屯した。柱国斉公憲・鄭国公達奚武らは邙山に営した。護は元来戦略に乏しく、この行も本意ではなかったため久しく戦果がなかった。護は河陽の路を断って斉の救援を遮り洛陽を孤立させようとしたが、連日の陰霧に乗じて斉の騎兵が突如洛陽囲みの軍を急襲し軍は潰乱、尉遅迥は数十騎で辛くも敵を防ぎ、斉公憲が邙山の諸将を督して拒いだためかろうじて全軍で退いた。権景宣は予州を克したがのち囲みが解けて退き、楊□は軹関で戦没した。護は無功のまま班師し、諸将とともに稽首して罪を請うたが、帝はこれを咎めなかった。
  • 天和二年(567年)、護の母が薨じ、ほどなく詔して視事に復させた。四年、護は北辺の城鎮を巡歴し霊州に至って還った。五年、詔して護の功徳を称え軒懸の楽・六佾の舞を賜った。護は性はおおむね寛和であったが大体に暗く、久しく権軸にあることを恃み、委任した者の多くが不適任で、諸子も貪残、僚属も放縦で護の威勢を恃み政を蠹し民を害したが、上下相蒙って護は疑わなかった。

誅殺

  • 高祖はその驕慢を憎み、密かに衛王直と共にこれを図った。七年(572年)三月十八日、護が同州から還ると、帝は文安殿で護を見た後、含仁殿に引いて皇太后に朝せしめた。かねて帝は宮中で護に会う際は常に家人の礼を行い、護が太后に謁すると太后は必ず坐を賜り帝は立って侍していた。この日、護が入ろうとすると帝は「太后は近年頗る飲酒を好み朝謁を怠ることがある、しばしば諫めても納れられぬ、兄が朝拝したついでに諫めてほしい」と懐中の酒誥を護に授けた。護が入り帝の戒めの通り太后に読み示していると、読み終わらぬうちに帝は玉珽で護を後ろから撃ち、護は地に倒れた。宦者何泉が御刀で斬りつけたが泉は恐懼して傷つけられず、あらかじめ戸内に隠れていた衛王直が出てこれを斬った。帝が護を図ろうとした謀には王軌・宇文神挙・宇文孝伯が与っていたが、この日彼らは外にあり、他に知る者はなかった。護を殺した後、宮伯長孫覧らを召してこれを告げ、護の子の柱国譚国公会・大将軍莒国公至・崇業公静・正平公乾嘉及び乾基・乾光・乾蔚・乾祖・乾威らと、柱国侯伏侯竜恩・竜恩の弟大将軍万寿・大将軍劉勇・中外府司録尹公正・袁傑・膳部下大夫李安らを殿中で殺した。斉王憲が帝に「李安は皂隷の出で庖厨を典るのみ、時政に関与しておらぬから戮するに足りぬ」と言うと、高祖は「そなたは知らぬだろうが、世宗の崩は安の所為である」と答えた。十九日、詔して「君親には将(心の中に叛意を持つこと)無かれ、将あれば必ず誅す」として護の罪状を数え上げ、天和七年を改めて建徳元年(572年)とし大赦天下した。護の世子訓は蒲州刺史であったが、その夜柱国越国公盛を遣わして同州へ迎えさせ、同州で死を賜った。護の長史代郡叱羅協・司録弘農馮遷及び親任の者はみな除名された。護の子昌城公深は突厥への使いに出ていたが、開府宇文徳を遣わし璽書を齎して殺させた。建徳三年、詔して護及び諸子の旧封・諡を復し、護を蕩と諡して改葬した。

附伝:叱羅協

  • 叱羅協、本名は高祖の諱と同じであったため後に改めた。少にして寒微で州の小吏となり、恭謹をもって知られ恒州刺史楊鈞に従事に抜擢された。魏末に六鎮が騒擾すると冀州に客し、冀州が葛栄に囲まれた際は刺史に統軍として守禦を委ねられたが、城が陥ちて栄に没した。栄が敗れると汾州刺史爾朱兆に仕え録事参軍に補せられ、兆が天柱大将軍となると司馬に転じた。兆が斉神武(高歓)と戦って利あらず上党に還ると、協は建州に留まり軍糧を督した。のち協を洛陽に使わし諸叔と斉神武討伐を謀ったが、兆らの軍は敗れて并州に還り、協に肆州刺史を治めさせた。兆が死ぬと竇泰に仕え泰に厚遇され、泰が御史中尉となると治書侍御史に、泰が潼関に向かうと監軍となった。泰が死ぬと協も獲えられたが、太祖は協が久しく関にあったことから大丞相府東閤祭酒・撫軍将軍・銀青光禄大夫を授け、録事参軍・主簿に転じ、通直散騎常侍を加え大行台郎中を摂し累遷して相府属・従事中郎となった。協は二京に歴仕して故事に詳しく、深く自ら励んだので太祖はこれを頗る委任したが、家属が東(東魏)にあるため望郷の念を疑っており、河橋の戦で利あらず退いた際も協が軍に随って還ったので、太祖は協の不貳を知り冠軍県男に封じ邑二百戸を賜った。ほどなく車騎将軍・左光禄大夫を加え、九年、直閤将軍・恒州大中正に除せられ都督を加え伯に進爵、邑八百戸を増した。ほどなく大都督・儀同三司に遷った。
  • 太祖が漢中を経略しようとした際、協に南岐州刺史を行わせ東益州の軍事を節度させ、魏廃帝元年(552年)、正式に南岐州刺史を授けた。時に東益州刺史楊辟邪が州に拠って反すると、二年、協は所部の兵を率いて討ち、涪水に軍を進めた際に氐賊千人が道を断ち橋を破ったが、協は儀同仇買らを遣わして前撃させ賊は道を開いた。協はさらに漸進したが氐賊千人がこれを邀えたため、協は兵四百人を率いて硤道を守り賊と短兵接戦、賊は退き辟邪は城を棄てて走り、協は追ってこれを斬り、群氐はみな伏した。功により開府を授けられ、なお大将軍尉遅迥の長史として蜀を伐つ軍に従った。剣閣に入ると迥は協に潼州の事を行わせたが、五城郡の氐酋趙雄傑らが新潼始三州の民を煽動して二万余人を集め、州南三里の槐林山に柵を置いて拒守し、梓潼郡民鄧朏・王令公らも郷邑の民万余人を誘って州東十里の涪水北岸に柵を置いて呼応した。城中は糧少なく軍人も食に乏しかったが、協は内外を撫安して異心をなさしめず、儀同伊婁訓・大都督司馬裔らに歩騎千余人を率いて夜に涪水を渡り雄傑を撃たせ一戦で破った。令公も雄傑の敗を見て柵を棄てて本郡に還ったが、鄧朏らと再び万余人を率い郡東南の水を隔てて柵を置き駅路を断った。協は儀同楊長楽と司馬裔らに討たせ、さらに大都督裴孟嘗に百姓を率いて声勢を為させたが、孟嘗が梓潼に至った時水が漲って渡れず、王令公・鄧朏は孟嘗の騎が少ないのを見て三千余人で数重に囲んだ。孟嘗は衆寡敵せず各々馬を棄て短兵で接戦、辰から午まで戦って陣中で令公と朏らを斬った。賊徒は主将を失い散走したが、その党はなお旧柵に拠り、孟嘗はようやく水を渡って長楽と合し柵を攻めること三日、賊はついに降を請うた。この後もしばしば反叛があったが協はその都度討平した。魏恭帝三年(556年)、太祖は協を朝に召して蜀中の事を論じ、宇文の姓を賜り邑を通算千五百戸に増した。
  • 晋公護が孫恒・李植らを誅した後、腹心を司会の柳慶・司憲の令狐整らに求めたが、慶・整はいずれも辞して堪えずとし、ともに協を薦めた(事は柳慶・令狐整伝にある)。護はついに協を召して朝に入らせ、引いて同宿しこれに深く託した。協は喜んで身命を以て効すると誓い、護は大いに悦んで軍司馬に授け兵事を委ね、ほどなく治御正に転じさらに護府の長史を授け公に進爵、邑千戸を増して常に護の側に仕え時事を陳説し多く用いられた。世宗はその材識の庸浅なことを知りしばしば退けたが、護の親任する者であるため容認していた。世宗の崩後、協は司会中大夫・中外府長史を授けられたが、形貌は痩小で挙措も偏狭、志を得てより驕り高ぶり、朝士が来て事を請うと「そなたには分かるまい、教えてやろう」と言い、しばしば事実に反することを口にしたので当時の人はみな笑った。保定二年、蜀平定の功を追論して一子を県侯に別封し、蜀中の食邑千戸の租賦の半分を得た。晋公護は協が己に忠を尽くすのを喜び提奨し、しばしば上考を得て粟帛を賞され、少保に遷りさらに少傅に転じ大将軍に進位、南陽郡公に爵し、あわせて宮室造営の副監を兼ね完成の功で洛邑県公の爵を賜って一子に回授した。協は護の重い委任を受けたことで帝室との婚姻を望み、旧姓の叱羅氏への復姓を求め、護がこれを奏請して高祖はこれを許した。さらに柱国に進位したが、護は協の老齢を理由に致仕を許そうとしたところ、協は栄を貪って告退を肯んじなかった。護が誅されると協は除名された。建徳三年、高祖は協が旧齢であることから儀同三司を授け南陽郡公に爵し、旧事を論じさせた。この年、七十六歳で卒し、子の金が嗣いだ。

附伝:馮遷

  • 馮遷、字は羽化。父の漳州従事は、遷が顕達したことにより儀同三司・陝州刺史を追贈された。遷は少にして修謹で幹能あり、州に従事として辟せられ、魏の神亀年間(518-520年)、刺史楊鈞に中兵参軍事に引かれ、定襄令に転じ、ほどなく并州水曹参軍となり、歴任した職はみな勤恪をもって称された。魏孝武帝の西遷に際し官を棄てて直閤将軍馮霊豫と共に関に入り、魏孝武帝に従い潼関を復し回洛を定め給事中を除せられた。太祖に従い竇泰を擒え弘農を復し沙苑で戦ってみな功があり、都督・龍驤将軍・羽林監を授けられ独顕県伯に封じられ邑六百戸を得た。洛陽の戦では遷は先登して陣を陥れ重い傷を負い辛くも死を免れ、功により輔国将軍・軍師都督を加えられ侯に進爵した。しばらくして広漢郡守として出、時に蜀の地は平定されたばかりで人情は動揺していたが、遷は簡恕の政を存し夷俗も頗るこれに安んじた。魏恭帝二年(555年)、車騎将軍・大都督・通直散騎常侍を加えられ樊城に鎮し、ほどなく漢東郡守を拝した。孝閔帝が即位すると入って晋公護府の掾となり車騎大将軍・儀同三司を加えられ臨高県公に進爵、ほどなく護府司録に遷り驃騎大将軍・開府儀同三司を授けられた。遷は性質朴直で小心畏慎、枢要にあっても勢位を人に加えず、時事に明練で断決に長け、文簿を校閲するたびに孜孜として倦まず朝から晩まで休むことがなかったため護に甚だ委任された。のち朝の旧齢であることから錦を衣て郷里に栄えさせようと陝州刺史を授け隆山郡公に進爵、邑を併せて前と通算二千戸とした。遷は元来寒微で当時の人に重んじられなかったが、一朝本州を刺挙するにあたり謙恭をもって鄉邑に接し人に怨む者はなかった。再び入って司録となり工部中大夫に転じ、軍司馬・遷小司空を歴任した。天和以後、遷は老齢のため委任を稍々減じられ、護が誅されるとやはり除名された。建徳末年、七十八歳で家で卒した。子の恕は儀同三司・伏夷鎮将・平寇県伯に至った。護に信任された者にはほかに朔方の辺平がおり、大将軍・軍司馬・護府司馬に至ったが、護の敗に際しやはり除名された。

史論

  • 史臣曰く。孔子は「共に道を適くべきも、共に権るべからず」と言った。道とは礼に率うことをいい、権とは経に反することをいう。礼に率って正理によれば世を佐ける功を成しやすいが、経に反して非常に繋がれば時を匡す業を定めがたい。故にその人を得れば治まる(伊尹が太甲を放ち、周旦が孺子を相けた例)が、その人を得なければ乱れる(新の王莽が漢の鼎を遷し、晋の司馬氏が魏の族を傾けた例)。先王は上下の序を明らかにし聖人は君臣の分を重んじ、質を委ねること股肱の如く爵を受けること休戚を均しくする。まして親しく顧託を受け宰衡の位に居れば、利剣・沸鼎に臨んでもその慮を懾わせるに足りず、帝図に拠り海内に君臨してもその心を回らせるに足りない。かかる人物は功が山嶽と高きを争い名が天地と久しきを斉しくするものである。周の受命の初め、宇文護はまさに艱難に与った者であり、太祖の崩後、諸子は幼く群公は等夷の志を懐き天下に去就の心があったが、ついに魏を変じて周となし危うきを転じて安きに致したのは護の力であった。もし護が礼譲を加え忠貞を継ぎ、桐宮に悔過の期を得て未央に天年を終えたなら、前史に載る名臣にも比すべきであったろう。しかし護は学術に疎く群小に昵近し、威福は己より出て征伐も自ら発し、人臣にして君無きの心があり、人主として堪えざる事をなした。忠孝の大節に背いて疑わず、廃立の逆を行って悔いず、ついに身首は横分され妻子は戮を受けた。当然のことであろう。