周書卷四 帝紀第四 明帝
世宗明皇帝(諱は毓、小名は統万突)は太祖の長子。孝閔帝の廃位後、晋公宇文護に迎えられて即位した。寛仁で学を好み、文学に通じた者を麟趾殿に集め経史を刋校させるなど文治に努めたが、実権はなお護が握り、武成二年(560年)に毒を盛られて崩じた(享年二十七)。弟の魯国公邕(武帝)への譲位を遺言した。
出自と生い立ち
- 世宗明皇帝、諱は毓、小名は統万突。太祖の長子。母は姚夫人。永熙三年、太祖が夏州に赴任していた際、統万城で生まれたことからその名がついた。大統十四年、寧都郡公に封ぜられ、十六年、華州事を代行し、まもなく開府儀同三司・宜州諸軍事・宜州刺史を拝した。魏恭帝三年、大将軍を授かり隴右を鎮めた。
周元年(557年)
- 孝閔帝が即位すると柱国に進み、岐州諸軍事・岐州刺史に転じ、治績は良く民に慕われた。孝閔帝が晋公護に廃されると、護は使者を岐州に遣わし帝(毓)を迎えた。秋九月癸亥、京師に至り旧邸に留まった。甲子、群臣が上表して即位を勧め法駕を備えて迎えたが帝は固辞し、群臣も固く請うたためこの日、天王の位に即き天下に大赦した。乙丑、延寿殿で群臣に朝した。
- 冬十月癸酉、太師趙国公李弼が薨じた。己卯、大将軍昌平公尉遲綱を柱国とした。乙酉、圓丘を祠り、丙戌、方丘を祠り、甲午、太社を祠った。柱国陽平公李遠に死を賜った。この月、梁の相陳霸先が主蕭方智を廃して自立した(陳武帝)。
- 十一月庚子、太廟を祠り、丁未、圓丘を祠り、丁巳、詔して「帝王の道は寛仁を大とする。魏の政では軽犯や一家の犯で数家が連座して遠く配流された者が多いが、これらを放還すべし」とした。
- 十二月庚午、成陵に謁し、癸酉、宮に還った。庚辰、大将軍輔城公邕を柱国とした。戊子、長安の囚を赦した。甲午、詔して「善人の後は代を重ねても宥されるべき、まして魏氏は徳をもって位を譲った、その子女を隠恤しないわけにいかない」とし、元氏の子女で趙貴の事件以来官奴婢に没収された者を悉く放免するとした。
周二年(558年)
- 春正月乙未、大冢宰晋公護を太師とした。辛亥、籍田を親耕。癸丑、王后独孤氏を立てた。丁巳、雍州に十二郡を置き、河東に蒲州、河北に虞州、弘農に陝州、正平に絳州、宜陽に熊州、邵郡に邵州を置いた。
- 二月癸未、詔して「王者が民を治めるのは四海を同じくし遠近の別なく父母として子とするためであり、一物も失うべきではない。賊境の地も本来同じ大化に属するが、時難により東西に阻まれ疆場で互いに抄掠しあってきた。哀傷に堪えないので、元年以来賊に掠奪された者は放免すべし」とした。この冬から雨がなく、この月に至って大雪となった。
- 三月甲午、斉の北予州刺史司馬消難が州を挙げて帰附し、柱国高陽公逹奚武・大将軍楊忠にこれを迎えさせた。雍州刺史を雍州牧、京兆郡守を京兆尹に改め、広業・修城二郡に康州、葭蘆郡に文州を置いた。戊申、長安が白雀を献じた。庚申、詔して「三十六国九十九姓は魏氏が南遷して以来河南の民と称してきたが、いま周室が関中に都した以上、京兆人と改称すべし」とした。
- 夏四月己巳、太師晋公護を雍州牧とした。庚午、熒惑が軒轅に入った。辛未、死罪を一等降し、五歳刑以下は皆赦した。甲戌、王后独孤氏が崩じ、甲申、敬后と諡して葬った。
- 五月乙未、大司空梁国公侯莫陳崇を大宗伯とした。六月癸亥、囐噠(エフタル)が使者を遣わし方物を献じた。己巳、高齢者に板授(名誉官職の授与)を行い、鰥寡孤独を各々救恤した。長安を万年県に分け併せて京城とした。辛未、王后崩により昆明池に幸した記事に続き、長安が白烏を献じた。使者を分遣して州郡を巡り囚徒を調べ風俗を察させ、野に晒された骨を埋葬させた。
- 秋七月甲午、柱国寧蜀公尉遲迥に河南で安楽城を築かせた。丙申、順陽が三足烏を献じた。
- 八月甲子、群臣が慶を称える上表を行い、詔して「天は宝を惜しまず地は瑞を表す、鳳が閣に巣くい龍が沼から躍り出るのは、日月や連珠玉燭に劣らぬ瑞である。緯書には王者が至孝なれば元命が出るとあり、舜のように仁が至れば異瑞が来ると説く。文考(文王)の至徳が広く覆い、いま三足烏が降ったのは天下が本に帰し九州が定まる兆しである。この善を廟に宣べず措くべきでない」とし、天下に大赦し文武官を各二階進めた。
- 九月辛卯、大将軍楊忠・王雄を柱国とした。甲辰、少師元羅を韓国公に封じ魏の後を継がせた。丁未、同州の故宅に幸し詩を賦した(「玉燭調秋気、金輿歴旧宮…」の詩句が伝わる)。
- 冬十月辛酉、宮に還った。乙丑、柱国尉遲迥を隴右に鎮めさせた。長安が白兔を献じた。十二月辛酉、突厥が使者を遣わし方物を献じた。癸亥、太廟が完成し、辛巳、功臣の琅琊貞献公賀拔勝ら十三人を太祖廟庭に配享した。壬午、天下に大赦した。
武成元年(559年)
- 春正月己酉、太師晋公護が政を帝に返す上表を行い、帝は初めて政務を親覧するようになったが、軍旅の事はなお護が総べた。都督諸州軍事を総管と改称した。丙辰、大将軍章武孝公導の子亮を永昌公、翼を西陽公に封じた。
- 三月癸巳、六軍を陳し帝自ら甲冑を纏い東方に太白を迎える儀を行った。秦郡公直が蒲州を鎮める中、吐谷渾が辺を寇したため庚戌、大司馬博陵公賀蘭祥に討伐させた。
- 夏四月戊午、武当郡が赤烏を献じた。甲戌、秦州が白馬朱鬛を献じた。
- 五月戊子、詔して暦法改定を命じた。「皇王の跡は一様でなく、因革の道もそれぞれ異なるが、八政を播き三元を紀とすることに変わりはない。開闢から獲麟(孔子の時代)まで二百七十六万歳、暦の推移に誤差が積もり天時の把握が乱れてきた。漢の巴郡の洛下閎が『八百年後に聖人が暦を定めるだろう』と言ったとされるが、火徳(漢)から木徳(周は木徳を継ぐとする説)に運が及ぶ今、朕がこれを譲ってよいものか」とし、有司に六暦を稽え七曜を観測させ、新たな周暦を定めるよう命じた。
- 己亥、正武殿で訴訟を聴いた。辛亥、大宗伯梁国公侯莫陳崇を大司徒、高陽公逹奚武を大宗伯、武陽公豆盧寧を大司寇、柱国輔城公邕を大司空とした。乙卯、詔して「近ごろしばしば旧事を摘発する動きがあるが、意図は悪を疾むにあるとしても、先王の肆眚(大赦)の道は天下に自新の機会を与えるものである。自新後もなお追及するのでは意味がない、そうした事案は追及しないように。ただし庫廐倉廩は天下の共有財であり、これを侵盗した者は、魏朝時代のことは年月久しいため問わないが、周が天下を得て以後の事跡が明らかな者は事実を推し確かめた上で、罪は免じるが徴備(弁償)は法に従わせよ」とした。
- 賀蘭祥が洮陽・洪和二城を攻め拔き、吐谷渾は遁走した。閏月庚申、高昌が使者を遣わし方物を献じた。六月戊子、大雨が続いたため詔して「昔、堯は四嶽に諮り殷は六つの咎を告げたというが、災いを見ては恐懼すべきだ。麦を害し苗を傷め屋を壊し垣を漂わせるこの霖雨は、朕の不徳によるのか刑政の失によるのか分からない。公卿大夫士から牧守・黎庶まで、忌憚なく諫言を上せよ」とし、被災地には巡検の上で対応するよう命じた。
- 庚子、詔して「潁川は我に従い元勲を建てた、父城は王業を起こした地であり忘れてはならない。文考(文王)は天地草昧の中、あの横流を極めて頽運を匡すため英賢の力を頼み、文武同心して大功を隆めた。被堅執鋭・櫛風沐雨の日々を思うと感慨に堪えない。功成り名遂げ建国して符を剖った今、従軍中に死した者で妻子に帰る所なき者を憐れみ、夏州へ従軍以来在世・薨亡を問わず量って銭帛を賜う」とした。この月、陳武帝が薨じ甥の蒨が立った(陳文帝)。
- 秋八月己亥、天王の称を皇帝と改め、文王を追尊して帝とし、天下に大赦し改元した。壬子、大将軍安城公憲を益州総管とした。癸丑、御正を四人増し位を上大夫とした。九月乙卯、大将軍天水公広を梁州総管とした。辛未、輔城公邕を魯国公、安城公憲を斉国公、秦郡公直を衛国公、正平公招を趙国公に進封し、皇弟の儉を譙国公、純を陳国公、盛を越国公、逹を代国公、通を冀国公、逌を滕国公に封じ、天水公広を蔡国公に進封し、高陽公逹奚武を鄭国公、武陽公豆盧寧を楚国公、博陵公賀蘭祥を涼国公、寧蜀公尉遲迥を蜀国公、化政公宇文貴を許国公、陳留公楊忠を隋国公、昌平公尉遲綱を吳国公、武威公王雄を庸国公とし、食邑各万戸とした。
- 冬十月甲午、柱国吳国公尉遲綱を涇州総管とした。この月、斉の文宣帝が薨じ子の殷が嗣ぎ、柱国蜀国公尉遲迥を秦州総管とした。
武成二年(560年)
- 春正月癸丑朔、紫極殿で群臣を大いに会し、初めて百戯(雑技)を用いた。三月辛酉、重陽閣が完成し群公列将卿大夫と突厥使者を芳林園に会し銭帛を賜った。
- 夏四月、帝は食して毒に遇い庚子、危篤に陥った。詔して「人生は天地の間にあり五常の気を稟けるが、天地も窮まりあり五常も推移する、生あれば死あるは物理の必然。修短(寿命の長短)の間に何を恨むことがあろうか。朕は不徳ながら典墳(古典)を好み聖賢の余論を披覧し、常にこれで自ら悟ってきた。今は命というほかない」と述べた上で、諸公卿大夫士・軍中の督将らに、太祖を輔けて我が周家を成した勲を積んできたことを称え、「朕が纘承した大業に上り万乗の上に処したことは太祖にも朕にも背かぬこと、朕は先帝のもとで手足を伸ばせる、恨みはない。ただ在位四年にして政化が理に循わず九州が一統ならぬことが心残りだ」と述べた。
- さらに「大位は空しく社稷に主なく、朕の子は幼く国を担えない。魯国公邕は朕の弟で寛仁大度、周家を弘めうるのはこの者しかいない。人は始終を貴ぶ、太祖に事え朕を輔けたことは始めあり、世道の艱難を念い邕を輔けて天下を主たらしめれば終わりありと言えよう。哀死事生は人臣の大節、この言を万代に伝えよ」と続けた。
- 帝はまた自らの倹素な生活(大布の被、大帛の衣、器用に彫刻なし)を述べ、喪事も倹約に従い金玉の飾りを用いず瓦のみとし、七日の小歛の後は文武百官に権りに衰麻を辟けさせ素服とし、葬地は不毛の地を選び封も樹も設けず、厚葬は生を傷めると誡めた聖人の教えに従うよう命じ、四方の州鎮の使者にも三日の哭の後は素服に復させ、召しがない限り輙く奔喪させないよう定めた。喪が明ければ内外ことごとく服を除いて吉に従い、三年の間婚娶や飲食を禁じないとした。この詔は帝自らの口授であった。
- 辛丑、延寿殿で崩じた。時に年二十七。諡は明皇帝、廟号は世宗。五月辛未、昭陵に葬られた。
- 帝は寛明仁厚で九族を敦睦し人君の器量があった。幼くして学を好み群書を博覧し文を能くし、辞彩は温麗であった。即位すると公卿以下の文学に通じた者八十余人を麟趾殿に集めて経史を刋校させ、また諸書を博く採り伏羲・神農以来魏末に至るまでを敘して世譜五百巻を編ませた。著した文章は十巻に及んだという。
史論
- 史臣曰く。世宗は寛仁で遠謀があり叡哲博聞、代邸(皇子の位)の尊にありながら実に文昭(太祖)の長子であった。豹の姿がすでに変じても龍徳がなお潜んでいたが、百辟が心を傾け万方が意を注ぐようになると、宣(護に廃された孝閔帝)を退け迎え黜けて(廃して)大宗を継ぎ、功臣を礼遇し九族を敦睦し、恭倹に由って文儒を崇尚した。まさに人君の徳を有する者であった。
- しかし当初は権臣(晋公護)が専制し政は私門から出ており、ついには鴆毒に遭って享年短く終わった。惜しむべきことである。