周書卷五 帝紀第五 武帝上

高祖武皇帝(諱は邕、字は禰羅突)は太祖の第四子。明帝の毒殺後に即位したが、当初は晋公宇文護が実権を握り、深く才知を隠して耐えた。建徳元年(572年)に護と一族を誅殺してようやく親政を開始し、以後刑政の整備・仏道二教の廃止など諸改革を進め、北斉討伐の準備を整えた。

年表(8件)

出自と生い立ち

  • 高祖武皇帝、諱は邕、字は禰羅突。太祖の第四子。母は叱奴太后。大統九年、同州で生まれ、生まれた時神光が室を照らしたという。幼くして孝敬聡敏で器質があり、太祖はこれを異として「わが志を成す者は必ずこの子だ」と語った。十二歳で輔城郡公に封ぜられ、孝閔帝の即位後は大将軍を拝し同州に出鎮、世宗(明帝)の即位で柱国に遷り蒲州諸軍事・蒲州刺史を授かった。武成元年、入朝して大司空・治御正となり魯国公に進封、宗師を領し世宗に厚く親愛された。朝廷の大事にも多く参議し、性は沈深で遠識があり、問われぬ限り軽々に発言しなかった。世宗は常に「人は言わずとも、言えば必ず的中する」と嘆じたという。

武成二年(560年)

  • 夏四月、世宗が崩じ、遺詔により帝位が高祖に伝えられた。高祖は固辞したが百官の勧進によりこれに従い、壬寅、皇帝の位に即き天下に大赦した。冬十二月、露門・応門を改作した。この年、斉の常山王高演が主殷を廃して自立した(孝昭帝)。

保定元年(561年)

  • 春正月戊申、詔して改元し「武成三年を保定元年と改める」とし、文武百官に各四級を増した。大冢宰晋国公護を都督中外諸軍事とし五府を天官に総べさせた。庚戌、圓丘を祠り、壬子、方丘を祠り、甲寅、南郊で感生帝を祠り、乙卯、太社を祠った。辛酉、突厥が使者を遣わし方物を献じた。
  • 戊辰、詔して太祖文皇帝が周制に依り六官を創始した功業を称え、「今その礼を太祖廟庭に班つべし」とし、己巳、太廟を祠り太祖の定めた六官を頒った。癸酉、吐谷渾・高昌がともに使者を遣わし方物を献じた。甲戌、先の兵役に従事した官で六十歳以上、民は七十歳以上の者に節級に応じ板授の官を与えた。乙亥、籍田を親耕し、丙子、正武殿で大射を行い百官に賞を賜った。
  • 二月己卯、大使を遣わし天下を巡察させ、洮陽に洮州を置いた。甲午、東郊で朝日の礼を行い、乙未、突厥・宕昌がともに使者を遣わし方物を献じた。丙午、輿輦の巡幸を省き百戯を廃した。弘農が九尾の狐が現れたと上言した。三月丙寅、八丁兵制を十二丁兵制に改め、歳ごとに一月の役とした。
  • 夏四月丙子朔、日食があった。庚寅、少傅呉公尉遲綱を大司空とした。丁酉、白蘭が使者を遣わし犀甲・鉄鎧を献じた。五月丙午、孝閔皇帝の子康を紀国公、皇子贇を魯国公に封じた。晋公護が玉斗を得て献じた。戊辰、突厥・亀茲がともに使者を遣わし方物を献じた。六月乙酉、治御正殷不害らを陳への使者として遣わした。
  • 秋七月戊申、詔して「日照りが続き苗が枯れているのは獄訟の裁きが理を失い刑罰が偏っているためではないか」とし、死罪以下一歳刑以上の囚を各一等減じ、百鞭以下は悉く赦した。銭を改鋳し「布泉」と名づけ、五銖銭と並行させた。
  • 己酉、伯父顥を邵国公に追封し晋公の子江陵公会をその後継に、伯父連を莒国公に追封し章武孝公の子永昌公亮をその後継に、第三伯父洛生を莒国公に追封し晋公の子崇業公至をその後継に、武邑公震を宋国公に追封し世宗の子実をその後継に、それぞれ襲封させた。己巳、熒惑が輿鬼に入り積尸を犯した。九月甲辰、南寧州が使者を遣わし滇馬・蜀鎧を献じた。乙巳、客星が翼に現れた。
  • 冬十月甲戍、日食があった。戊寅、熒惑が太微上将を犯した。十一月乙巳、大将軍衛国公直を雍州牧とした。陳が使者を遣わし来聘し、柱国広武公竇熾を鄧国公に進封した。丁巳、岐陽で狩りをした。この月、斉の孝昭帝が薨じ弟の長広王湛が代わって立った(武成帝)。十二月壬午、岐陽から還った。この年、皇族の祖仲を虞国公に追封した。

保定二年(562年)

  • 春正月壬寅、蒲州で河渠を開き、同州で龍首渠を開いて灌漑を広げた。丁未、陳主の弟頊を柱国とし江南に送り還した。閏月己丑、詔して柱国以下帥都督以上の母・妻に太夫人・夫人・郡君・県君の号を各差をもって授けた。癸巳、太白が昴に入った。己亥、柱国大司馬涼国公賀蘭祥が薨じた。洛州民周共が妖言を以て衆を惑わせ将相を仮署したが発覚し伏誅した。
  • 二月壬寅、熒惑が太微上相を犯した。癸丑、久しく雨がなく罪人を宥め、京城三十里内で禁酒とした。梁主蕭詧が薨じた。大将軍蔡国公広を秦州総管とした。三月壬午、熒惑が左執法を犯した。夏四月甲辰、旱のため屠殺を禁じた。丁巳、南陽が三足烏を献じ、湖州が三角獣を伴う二頭の白鹿を見たと上言した。己未、伏流城に和州を置いた。
  • 癸亥、詔して「寇難のためなお九州は一統ならず、功のあった文武官に茅土(封邑)を賜っても租賦が未だ及んでいない。柱国らの勲徳は隆重であるので、別制に准じて邑戸を寄食(他県からの徴収を認める)を聴す」とした。五月庚午、山南の瑞祥が集まったとして天下に大赦し、百官・軍人に各二級を汎与、南陽宛県の三足烏出現地には今年の役と租賦の半分を免じた。壬辰、柱国隋国公楊忠を大司空、呉国公尉遲綱を陝州総管とした。
  • 六月己亥、柱国蜀国公尉遲迥を大司馬、邵国公会を蒲州総管とし、山南の荊州・安州・襄州・江陵を四州総管に分けた。秋七月己巳、開府賀抜緯を霍国公に封じた。乙亥、太白が輿鬼を犯した。九月戊辰朔、日食があった。陳が使者を遣わし来聘した。
  • 冬十月戊戌、詔して「元首の任は海内に臨み教化を宣明することにあり、その身を尊貴に、位を富にするだけのものではない。堯は粗衣粗食でなお汾陽に臨み姑射を望んでは嘆じたという。まして聖人の徳もないのに嗜欲がそれを上回っては、いかにして衆心を厭くさせようか。今は巨寇なお平らかず軍費が嵩んでいる、朕の衣食や宮中の調度を手ずから減削する」とし、諸官司にも倹約に努めるよう命じた。
  • 辛亥、帝は大武殿で大射を行い公卿列将が皆会した。戊午、少陵原で講武し、南寧州を分けて恭州を置いた。十一月丁卯、大将軍衛国公直・大将軍趙国公招をともに柱国とし、招を益州総管とした。壬午、熒惑が歳星を危南で犯した。十二月、益州が赤烏を献じた。

保定三年(563年)

  • 春正月辛未、光遷国を遷州と改めた。乙酉、太保梁国公侯莫陳崇に死を賜った。壬辰、乞銀城に銀州を置いた。二月庚子、新律を初めて頒布した。辛丑、魏大統九年以前に都督以上の官にあった者が身没し子孫がなお官に叙されていない場合、節級に応じ官を授けるとした。渭州が三足烏を献じた。
  • 辛酉、詔して「二儀(天地)が開闢し玄象は明らかに現れ、三才が備わって以来暦数が示されてきた。太祖文皇帝は昊天に敬順し庶政に憂労し六家の暦を序して陰陽を首としたが、私はこれを遵行できず、風雨が時に違い疾病がしばしば起こり、嘉生も実らず万物も長じない有様である。今より大事・大政は軍機の急を除き全て月令に依るべし」とした。三月乙丑朔、日食があった。丙子、宕昌が生きた猛獣二頭を献じたので南山に放った。乙酉、益州が三足烏を献じた。
  • 夏四月乙未、柱国鄭国公逹奚武を太保、大将軍韓果を柱国とした。己亥、帝は正武殿で囚徒を録した(親裁を行った)。癸卯、大雩(雨乞い)を行った。癸丑、背に足の生えた牛が現れた。戊午、太学に幸し太傅燕国公于謹を三老として道を問うた。初めて天下に復讐を禁じ、犯す者は殺人罪に問うとした。壬戌、詔して百官・民庶に封事を上らせ得失を極言させた。五月甲子朔、旱のため正寝を避け朝を受けず、甲戌に雨が降った。
  • 秋七月戊辰、原州に行幸した。庚午、陳が使者を遣わし来聘した。丁丑、津門に幸し百年(百歳の老人)を問い銭帛を賜り、高齢者に板職を授け死罪を一等降した。八月丁未、露寝を改作した。
  • 九月甲子、原州から隴山に登った。熒惑が太微上将を犯した。丙戌、同州に幸した。戊子、詔して柱国楊忠に騎一万を率いさせ突厥とともに斉を伐たせた。己丑、蒲州が異畝同穎(吉祥の穀物)を献じた。初めて世襲の州郡県主を五等爵に改め、州は伯、郡は子、県は男に封じることとした。
  • 冬十月壬辰、熒惑が左執法を犯した。乙巳、開府杞国公亮を梁州総管とした。庚戌、陳が使者を遣わし来聘した。十二月辛卯、同州から還った。太保鄭国公逹奚武に騎三万を率いさせ平陽から出て楊忠に応じさせた。この月、陰部が背にあり尾のような四肢を持つ男児が生まれ、また犬が腰から二身六足に分かれた子を生んだという異事があった。

保定四年(564年)

  • 春正月庚申、楊忠は斉の長城を破り晋陽まで至って還った。二月庚寅朔、日食があった。甲午、熒惑が房右驂を犯した。三月己未、熒惑がまた房右驂を犯した。庚辰、初めて百官に笏を執らせた。夏四月癸卯、柱国鄧公竇熾を大宗伯とした。五月壬戌、世宗の長子賢を畢国公に封じた。丁卯、突厥が使者を遣わし方物を献じた。癸酉、大将軍安武公李穆を柱国とした。丁亥、礼部を司宗、大司礼を礼部、大司楽を楽部と改めた。六月庚寅、御伯を納言と改めた。
  • 秋七月戊午、栗特(ソグド)が使者を遣わし方物を献じた。戊寅、焉耆が使者を遣わし名馬を献じた。八月丁亥朔、日食があった。詔して柱国楊忠に師を率い突厥とともに東伐させ、北河に至って還らせた。戊子、柱国斉公憲を雍州牧、許国公宇文貴を大司徒とした。
  • 九月丁巳、柱国衛国公直を大司空とし、開府李昞を唐国公、若干鳳を徐国公に封じた。陳が使者を遣わし来聘した。この月、皇太后の生母閻氏が斉から至り、天下に大赦した。閏月己亥、大将軍韋孝寛・大将軍長孫倹をともに柱国とした。
  • 冬十月癸亥、大将軍陸通・大将軍宇文盛・蔡国公広をともに柱国とした。甲子、大将軍大冢宰晋国公護に軍を率い斉を伐つよう詔し、帝は太廟の庭で斧鉞を授けた。護は大軍を率い潼関から出、大将軍権景宣は山南諸軍を率い予州から、少師楊□は枳関から出た。丁卯、沙苑に幸し軍を労った。癸酉、宮に還った。
  • 十一月甲午、柱国蜀国公尉遲迥が師を率いて洛陽を囲み、柱国斉国公憲は邙山に営し、晋公護は陝州に次した。十二月、権景宣が斉の予州刺史王士良を攻め州を降させた。壬戌、斉の軍が渡河し朝方洛陽に至ると諸軍は驚き散った。尉遲迥は麾下数十騎で敵を防ぎ退けたが夜に引き返し、柱国庸国公王雄は力戦して戦死し、これにより師は班師した。楊□も枳関で敗死し、権景宣も予州を棄てて還った。

保定五年(565年)

  • 春正月甲申朔、庸国公王雄が王事に死したため朝を廃した。辛卯、白虹が日を貫いた。庚子、荊州・安州・江陵などの総管を襄州総管府に隷属させ、柱国大司空衛国公直を襄州総管とした。甲辰、太白・熒惑・歳星が婁で合した。乙巳、吐谷渾が使者を遣わし方物を献じた。王雄の世子謙を柱国とした。
  • 二月辛酉、詔して陳国公純・柱国許国公宇文貴・神武公竇毅・南安公楊薦らを突厥へ迎娶の使に遣わした。甲子、郢州が緑毛亀を得た。丙寅、柱国安武公李穆を大司空、綏徳公陸通を大司寇とした。壬申、岐州に行幸した。三月戊子、柱国楚国公豆盧寧が薨じた。夏四月、斉の武成帝が太子緯に禅位し自ら大上皇帝と称した。
  • 五月丙戌、皇族の父興を大将軍とし虞国公の封を襲わせた。己亥、詔して左右武伯に各々中大夫一人を置いた。六月庚申、彗星が三台に出て文昌に入り上将を犯し紫宮西垣を経て危に入り一丈余りに漸く長くなった。指すところは室壁で、百余日ののち短くなり長さ二尺五寸となって虚危で滅した。辛未、詔して「江陵の人で六十五歳以上で官奴婢となった者は既に放免を命じたが、公私の奴婢で七十歳以上の者は、所在の官司が贖って庶人とすべし」とした。
  • 秋七月辛巳朔、日食があった。庚寅、秦州に行幸し死罪以下を降した。辛丑、大使を遣わし天下を巡察させた。八月丙子、秦州から還った。九月乙巳、益州が三足烏を献じた。冬十月辛亥、函谷関城を通洛防と改めた。十一月庚辰、岐州が一角獣が現れたと上言した。甲午、吐谷渾が使者を遣わし方物を献じた。丁未、陳が使者を遣わし来聘した。

天和元年(566年)

  • 春正月己卯、日食があった。辛巳、露寝が完成し幸して群臣に古詩を賦させ、京邑の耆老も皆会に加わり賞賜に差があった。癸未、天下に大赦し改元、百官に各四級を加えた。己亥、籍田を親耕。丁未、宕昌に宕州を置き、柱国昌寧公長孫倹を陝州総管とした。小載師杜杲を陳への使いに遣わした。
  • 二月戊申、開府中山公訓を蒲州総管とした。戊辰、詔して三公以下に各々知る所の人材を推挙させた。庚午、日鬬(日が争うように見える異象)があり光が微かになり日中に烏が見えたという。三月丙午、南郊を祠った。夏四月己酉、益州が三足烏を献じた。辛亥、雩(雨乞い)を行った。甲子、日が交暈し白虹がこれを貫いた。この月、陳文帝が薨じ子の伯宗が嗣いだ。
  • 五月庚辰、正武殿で群臣を集め自ら礼記を講じた。吐谷渾の龍涸王莫昌が戸を率いて内附し、その地に扶州を置いた。甲午、詔して「道徳は交々失われ礼義がこれに代わって興り、四始(詩経の始まり)を一言に褒め三千の礼を一敬にまとめると言われる。上にあって驕らず満ちても溢れなければ富貴は長く保たれる。朕は庸昧ながら古を志し、甲子乙卯の礼を守る」とし、萇弘・杜蕢の故事(周の礼を重んじる先例)を引きつつ、礼儀の乱れを憂い、今後は忌日には省事し楽を停めて君臣の戒めとするよう命じた。
  • 六月丙午、大将軍抱罕公辛威を柱国とした。秋七月戊寅、武功・郿・斜谷・武都・留谷・津坑の諸城を築き軍人を置いた。壬午、詔して「諸胄子(貴族子弟)の入学は師への束脩のみとし、釈奠(学業成就の祭)を強いない、釈奠は学成の祭として今後の恒式とする」とした。
  • 八月己未、詔して三年の喪に服し土を負って墳を成した者や苫を敷いて痩せ衰えるまで喪に服した者など、志行が称揚に値する者は本部官司から上申させ、薄俗を励ますため弔勉するとした。九月乙亥、信州の蛮冉令賢・向五子王が反したため開府陸騰に討平させた。冬十月乙卯、太白が昼に天を経て見えた。甲子、初めて山雲儛(雅楽の一種)を造り六代の楽を備えた。十一月丙戌、武功などの新城に行幸し、十二月庚申、宮に還った。

天和二年(567年)

  • 春正月癸酉朔、日食があった。己亥、籍田を親耕。三月癸酉、武遊園を道会苑と改め、丁亥、初めて郊丘壇壝の制度を立てた。夏四月乙巳、東南諸州を省き、潁州・帰州・溳州・均州を唐州に、油州を純州に、鴻州を淮州に、洞州を湖州に、雎州を襄州に、憲州を昌州に、それぞれ併合した。大将軍陳国公純を柱国とした。
  • 五月壬申、突厥・吐谷渾・安息がともに使者を遣わし方物を献じた。丁丑、柱国安武公李穆を申国公に進封した。己丑、歳星と熒惑が井で合した。六月辛亥、生母叱奴氏を皇太后と尊んだ。甲子、月が畢に入った。閏月庚午、地震があった。戊寅、陳の湘州刺史華皎が衆を率いて帰附したため、襄州総管衛国公直に柱国綏国公陸通・大将軍田弘・権景宣・元定らを率いさせ援け、これにより南伐に及んだ。
  • 壬辰、大将軍譙国公儉を柱国とした。丁酉、歳星・太白が柳で合した。戊戌、襄州が慶雲が現れたと上言した。秋七月辛丑、梁州が楓樹に鳳凰が集い群鳥が万を数え侍したと上言した。甲辰、露門学を立て生七十二人を置いた。庚戌、太白が軒轅を犯した。壬子、太傅燕国公于謹を雍州牧とした。
  • 九月、衛国公直らが陳の将淳于量・呉明徹と沌口で戦い王師は利を失った。元定は歩騎数千を率いて先に渡り、そのまま江南に没した(帰還できなかった)。冬十月辛卯、日の出入りの時に日中に杯ほどの黒い気があり、甲午にさらに一つ加わり六日を経て消えた。十一月戊戌朔、日食があった。癸丑、太保許国公宇文貴が薨じた。

天和三年(568年)

  • 春正月辛丑、南郊を祠った。二月丁卯、武功に幸し、丁亥、宮に還った。三月癸卯、皇后阿史那氏が突厥から至った。甲辰、天下に大赦し、失官失爵の者は皆旧に復すことを聴した。丁未、路寝で百寮と四方の賓客を大いに会し衣馬銭帛を賜った。甲寅、柱国陳国公純を秦州総管、蔡国公広を陝州総管とした。戊午、太傅柱国燕国公于謹が薨じた。己未、太白が井北軒第一星を犯した。
  • 夏四月辛巳、太保鄭国公逹奚武を太傅・大司馬、蜀国公尉遲迥を太保、柱国斉国公憲を大司馬とした。太白が輿鬼に入り積尸を犯した。五月庚戌、太廟を祠り、庚申、醴泉宮に幸した。六月甲戌、彗星が東井北に現れ一月にわたり行き輿鬼に至って滅した。
  • 秋七月壬寅、柱国隋国公楊忠が薨じた。戊午、醴泉宮から還った。己未、客星が房に現れ漸く東行して天市に入り営室を犯し奎に至るまで四十余日にわたり滅した。八月乙丑、韓国公元羅が薨じた。斉が和親を請い使者を遣わし来聘したため、詔して軍司馬陸程・兵部尹公正に報聘させた。癸酉、帝は大徳殿で百僚・沙門・道士らを集め自ら礼記を講じた。
  • 九月庚戌、太白と鎮星が角で合した。冬十月癸亥、太廟を祠った。丙戌、太白が氐に入った。丁亥、帝は自ら六軍を率い城南で講武し、京邑の観者は輿馬で数十里に及び諸蕃の使者も皆同席した。十一月壬辰朔、日食があった。甲辰、岐陽に行幸した。壬子、開府崔彦穆・小賓部元暉を斉への使者に遣わした。甲寅、陳の安成王頊が主伯宗を廃して自立した(宣帝)。十二月丁丑、岐陽から還った。この月、斉の武成帝が薨じた。

天和四年(569年)

  • 春正月辛卯朔、斉武成帝の薨去のため朝を廃した。司会河陽公李綸らを斉への会葬に遣わし弔賻した。二月癸亥、柱国昌寧公長孫倹を夏州総管とした。戊辰、帝は大徳殿で百僚・道士・沙門らを集め釈老の義を討論した。歳星が逆行し太微上将を掩った。庚午、斗のように大きな流星が左攝提から天津に流れ滅し、後に雷のような音があった。
  • 夏四月乙巳、斉が使者を遣わし来聘した。五月己丑、帝が制した象経が完成し百僚を集め講説した。魏の広平公の子元謙を韓国公に封じ魏の後を継がせた。庚戌、醴泉宮に幸した。丁巳、柱国呉国公尉遲綱が薨じた。六月、原州および涇州東城を築いた。秋七月辛亥、醴泉宮から還った。丁巳、突厥が使者を遣わし馬を献じた。
  • 八月庚辰、盗賊が孔城防主を殺しその地は斉に入った。九月辛卯、柱国斉国公憲に宜陽で崇徳などの城を築かせた。冬十一月辛亥、柱国昌寧公長孫倹が薨じた。十一月壬午、隴州を廃した。

天和五年(570年)

  • 春二月己巳、邵恵公顥の孫胄が斉から帰り、邵国公会を譚国公に改め、胄を邵国公に封じた。三月辛卯、柱国韋孝寛を鄖国公に進封した。甲辰、初めて宿衛官で関外に住む者に家累を伴い入官させることを命じ、望まぬ者は宿衛を解くこととした。夏四月甲寅、柱国宇文盛を大宗伯とし、醴泉宮に幸して帥督都官を省察した。丙寅、大使を遣わし天下を巡らせ、陳国公純を陝州総管とした。
  • 六月壬辰、開府梁睿を蔣国公に封じた。庚子、皇女が生まれたことにより罪人を宥め逋租懸調(未納の租税)を免じた。七月、塩州が白兔を献じた。乙卯、醴泉宮から還った。辛巳、柱国譙国公儉を益州総管とした。九月己卯、太白と歳星が亢で合した。冬十月辛巳朔、日食があった。丙戌、太白と鎮星が氐で合した。丁酉、太傅鄭国公逹奚武が薨じた。十一月乙丑、章武孝公導を豳国公に追封し蔡国を豳国に併せた。丁卯、柱国豳国公広が薨じた。十二月癸巳、大将軍鄭恪に師を率い越嶲を平らげさせ西寧州を置いた。この冬、斉の将斛律明月が辺を寇し、汾北で華谷から龍門まで城を築いた。

天和六年(571年)

  • 春正月己酉朔、露門が未完成のため朝を廃した。詔して柱国斉国公憲に師を率いて斛律明月を防がせた。丁卯、大将軍張掖公王傑・譚国公会・厙門公田弘・魏国公李暉らをともに柱国とした。二月己丑、夜、蒼雲が広さ三尺ほどで戌から辰にかけて天を経た。三月己酉、斉国公憲は龍門から渡河し、斛律明月は華谷に退き保った。憲はその新築の五城を攻め拔いた。
  • 夏四月戊寅朔、日食があった。己卯、熒惑が輿鬼を犯した。辛卯、信州の蛮の渠冉祖喜・冉龍驤が兵を挙げて反したため、大将軍趙誾に討平させた。甲午、柱国燕国公于寔を涼州総管、大将軍杞国公亮を秦州総管とした。庚子、大将軍滎陽公司馬消難を柱国とし、陳国公純・厙門公田弘に師を率いさせ斉の宜陽など九城を取らせた。大将軍武安公侯莫陳瓊・太安公閻慶・神武公竇毅・南陽公叱羅協・平高公侯伏侯龍恩をともに柱国とし、開府斛斯徴を岐国公、右宮伯長孫覧を薛国公に封じた。
  • 五月癸卯、納言鄭詡を陳への使いに遣わした。丙寅、大将軍唐国公李昞・中山公訓・杞国公亮・上庸公陸騰・安義公宇文丘・北平公寇紹・許国公宇文善・犍為公高琳・鄭国公逹奚震・隴東公楊纂・常山公于翼をともに柱国とした。六月乙未、大将軍太原公王柬を柱国とした。この月、斉の将叚孝先が汾州を攻め陥した。
  • 秋七月乙丑、大将軍越国公盛を柱国とした。八月癸未、鎮星・歳星・太白が氐で合した。九月庚申、月が婁に入り既(皆既)に蝕し光が復さなかった。癸酉、掖庭・四夷楽・後宮の羅綺工人五百余人を省いた。冬十月壬午、翼国公通が薨じた。乙未、右武伯谷会琨・御正蔡斌を斉への使いに遣わした。壬寅、帝は自ら六軍を率い城南で講武した。十一月壬子、大将軍梁国公侯莫陳芮・大将軍李意をともに柱国とした。丙辰、斉が使者を遣わし来聘した。丁巳、散関に行幸した。十二月己丑、宮に還った。この冬、牛の疫病が大流行し死者は十のうち六七に及んだ。

建徳元年(572年)

  • 春正月戊午、帝は玄都観に幸し親ら法座に登って講説し、公卿・道俗が議論を交わした。事が終わると宮に還り、死罪・流罪を一等降し五歳刑以下は悉く宥した。二月癸酉、大将軍昌城公孫深を突厥への使いに遣わし、司賓李際・小賓部賀遂礼を斉への使いに遣わした。乙酉、柱国安義公宇文丘が薨じた。三月癸卯朔、日食があった。斉が使者を遣わし来聘した。
  • 丙辰、大冢宰晋国公護と護の子柱国譚国公会、会の弟大将軍莒国公至・崇業公静、ならびに柱国侯伏侯龍恩と龍恩の弟大将軍万寿・大将軍劉勇らを誅し、天下に大赦して改元、中外府を廃した。癸亥、太傅蜀国公尉遲迥を太師、柱国鄧国公竇熾を太傅、大司空申国公李穆を太保、斉国公憲を大冢宰、衛国公直を大司徒、趙国公招を大司空、柱国枹罕公辛威を大司寇、綏徳公陸通を大司馬とした。
  • 詔して「民が労苦すれば天に星の異変が起こり、事を時ならず行えば国に石が語る異変が起こるという。政は静を欲し静は民を寧んずるにあり、治は安を欲し安は役を息めるにある。頃年、興造は度を過ぎ徴発が止まなかった。今より正調の外に妄りに徴発しないようにする」とした。
  • 夏四月甲戌、代国公逹・滕国公□をともに柱国とした。荊州・安州・江陵などの総管を襄州総管の隷属から外した。己卯、柱国張掖公王傑を涇州総管、魏国公李暉を梁州総管とした。詔して公卿以下に各々知る所の人材を推挙させ、工部代公逹・小礼部辛彦之を斉への使いに遣わした。丙戌、詔して百官・軍民に封事を上らせ得失を極言させた。丁亥、詔して四方の非常の貢献(臨時の献上物)を断った。庚寅、略陽公(孝閔帝)を孝閔皇帝と追尊した。癸巳、魯国公贇を皇太子に立て、天下に大赦し百官に各封級を加えた。
  • 五月、衛国公直の長子賓を莒国公に封じ莒荘公洛生の後を継がせた。壬戌、帝は大旱のため百官を庭に集め「盛農の時季に日照りが続くのは尋常でない、朕の徳が薄いか刑賞が偏っているか、あるいは公卿大臣に人を得ていないのか、忌憚なく直言せよ」と詔し、公卿は各々咎を引いて自責した。その夜、雨が降った。六月庚子、宿衛官員の配置を改めた。
  • 秋七月辛丑、陳が使者を遣わし来聘した。丙午、辰星と太白が東井で合した。己酉、月が心中星を犯した。九月庚子朔、日食があった。庚申、扶風で地を掘り玉杯を得て献じた。冬十月庚午、詔して江陵で捕虜となり官口となった者を悉く免じて民とした。辛未、小匠師楊勰・斉馭・唐則を陳への使いに遣わした。柱国大司馬綏徳公陸通が薨じた。
  • 十一月丙午、帝は自ら六軍を率い城南で講武した。庚戌、羌橋に行幸し京城以東の諸軍都督以上に賜物を頒った。乙卯、宮に還った。壬戌、大司空趙国公招を大司馬とした。乙未、月が心中星を犯した。十二月壬申、斜谷に行幸し京城以西の諸軍都督以上に賜物を頒った。丙戌、宮に還った。己丑、帝は正武殿で自ら囚徒を録し夜に至って終えた。庚寅、道会苑に幸し上善殿の壮麗さを見て、これを焼いた。

建徳二年(573年)

  • 春正月辛丑、南郊を祠った。乙巳、柱国厙門公田弘を大司空、大将軍徐国公若干鳳を柱国とした。庚戌、帥都督の官を復置した。乙卯、太廟を祠った。閏月己巳、陳が使者を遣わし来聘した。二月辛亥、白虹が日を貫いた。甲寅、詔して皇太子贇に西土を巡撫させた。壬戌、司会侯莫陳凱・太子宮尹鄭訳を斉への使いに遣わした。熒惑が輿鬼に入り積尸を犯した。雍州内の八郡を省き京兆・馮翊・扶風・咸陽などの郡に併合した。
  • 三月己卯、皇太子が岐州で白鹿二頭を得て献じたところ、詔して「徳にあり瑞にあらず」と答えた。癸巳、六府の諸司の中大夫以下の官を省き、四司ごとに以下大夫を官長とし上士を貳とした。夏四月己亥、太廟を祠った。丙辰、東宮の官員を増改した。五月丁卯、熒惑が右執法を犯した。丁丑、柱国周昌公侯莫陳瓊を大宗伯、滎陽公司馬消難を大司寇、上庸公陸騰を大司空とした。六月庚子、六府の員外諸官を省き丞とした。甲辰、月が心中星を犯した。壬子、皇孫衍が生まれたため文武官に普く一階を加え、諸軍将帥を大選した。丙辰、帝は露寝で諸軍将を集め戎事を勉めさせた。庚申、諸軍の旌旗を猛獣鷙鳥の像で画くよう詔した。
  • 秋七月己巳、太廟を祠った。この春末から雨がなく、この月壬申、大徳殿に百寮を集め帝は自ら罪を責め政治の得失を問い、戊子に雨が降った。八月丙午、三夫人を三妃と改め、関内で蝗の大発生があった。九月乙丑、陳が使者を遣わし来聘した。癸酉、太白が右執法を犯した。戊寅、柱国鄭国公逹奚震を金州総管とした。詔して「政は財を節するにあり礼は寧ろ倹たるべきだが、近頃婚嫁が競って奢靡に流れ牢羞(婚礼の饗応費)が資財を尽くしている、有司は宣勒し礼制を遵わせよ」とした。壬午、皇太子妃楊氏を納れた。
  • 冬十月癸卯、斉が使者を遣わし来聘した。甲辰、六代の楽が完成し、帝は崇信殿で百官を集め観た。十一月辛巳、帝は自ら大軍を率い城東で講武した。癸未、諸軍都督以上五十人を道会苑に集め大射を行い、帝自ら射宮に臨み軍容を大いに備えた。十二月癸巳、群臣・沙門・道士らを集め帝は高座に登り三教(儒仏道)の先後を弁釈し、儒教を先、道教を次、仏教を後とした。大将軍楽川公赫連逹を柱国とした。詔して「尊年尚歯(高齢者を尊ぶ)は歴代の弘規、旧に序い労に酬いることは哲王の明範である。軍民の中に多い老齢者を優崇し、老職(名誉官職)を授けよ」とした。戊午、正武殿で訴訟を聴き、朝から夜まで灯火を継いで続けた。

建徳三年(574年)

  • 春正月壬戌、露門で群臣に朝し、柱国斉国公憲・衛国公直・趙国公招・譙国公儉・陳国公純・越国公盛・代国公逹・滕国公逌をともに王に進爵した。己巳、太廟を祠った。庚午、突厥が使者を遣わし馬を献じた。癸酉、詔して「今後、男は十五歳、女は十三歳以上、鰥寡も含め軍民の別なく時に嫁娶させ、財幣に拘り婚儀を遅らせぬよう倹約に努めよ」とした。
  • 乙亥、籍田を親耕。丙子、初めて短衣を服し二十四軍の督将以下を饗し軍旅の法を試み、酒を縦にして歓を尽くした。詔して「近年の不作で民が多く困窮している」ため、公私・道俗を問わず粟麦を貯蓄する者は口数に准じて留める分を許し、それ以外は悉く売り出させた。
  • 二月壬辰朔、日食があった。丁酉、紀国公康・畢国公賢・酆国公貞・宋国公実・漢国公贊・秦国公贄・曹国公允をともに王に進爵した。丙午、六府に各々賢良清正の人を推挙させた。癸丑、柱国許国公宇文善が罪あって免ぜられた。乙卯、雲陽宮に行幸した。
  • 丙辰、詔して「民の生は静を性とするが、物に感じて嗜欲が起こる。雲や鳥の世が異なり文質の時が異なっても、限りを堤防で示し禁令で示すことに変わりはない。近ごろ人に犯があれば衆とともにこれを棄て、羣官も過ちあれば自首を聴し軽重をことごとく陳べさせている。これは風が草を靡かせるように化に従わせる道であり、徳を導き礼を斉えることに近づけようとするものだが、上がその道を失えば凌夷の弊を本に返す由がない。宜しく蕩滌を加え民とともに新たに始めるべし」とし、天下に大赦した。
  • 庚申、皇太后が不予となり、三月辛酉、雲陽宮から還った。癸酉、皇太后叱奴氏が崩じた。帝は倚廬に居り朝夕一溢の米のみを共にし、群臣が累旬にわたり上表してようやくこれを止めさせた。皇太子贇に庶政を総べさせる詔を発した。
  • 夏四月乙卯、斉が使者を遣わし弔贈し会葬した。丁巳、星孛(彗星)が東北の紫宮垣に現れ長さ七尺五寸に及んだ。五月庚申、文宣皇后を永固陵に葬り、帝は袒跣(喪服を脱ぎ跣で)で陵所に至った。
  • 辛酉、詔して「斉衰の喪の制は経籍の彜訓だが近代に沿革してこの礼は失われた。私は遺令を奉じ既に葬儀を終えたが、几筵を攀慕する情はなお忍びがたい。三年の喪は天子にまで及ぶ古今変わらぬ道であり王者の常行だが、時に整わぬこともあり全制はできない。軍国の務めは重いのでしばらく聴朝(政務)は守り、縗麻の節・苫廬の礼は前典に遵う」とした。百寮以下も遺令に依るべしとし、公卿は表を上げて権制(喪を軽くすること)を固く請うたが帝は許さず、ついに三年の喪の制を申べ五服の内もこれに依らせた。初めて太子諫議員四人、文学十人、皇弟皇子の友員各二人、学士六人を置いた。
  • 丁卯、荊州が白烏を献じた。戊辰、故晋国公護と諸子の封を追復させ改葬の上で諡を加える詔を発した。丙子、初めて仏道二教を断ち経像を悉く毀し、沙門・道士を還俗させ、あわせて礼典に載らぬ淫祠を悉く除かせた。
  • 六月丁未、諸軍将を集め戦陣の法を教えた。壬子、五行大布銭を新たに鋳造し一を十に当て布泉銭と並行させた。戊午、詔して「至道は弘深で混成無際、形あるものと無いものを包み理は幽玄を極めるが、岐路がひとたび分かれれば源流はいよいよ遠ざかる。淳が離れ朴が散じ形気が乖き、三墨八儒(諸子百家)や九流七略の説が相騰る有様は久しい。会帰なくして争い駆ければ息むことがない。今、通道観を立て聖哲の微言・先賢の典訓・金科玉篆・秘蹟玄文をあまねく闡明し一以て貫き、培塿(低い丘)を弄ぶ者に嵩岱の崇高を、磧礫を守る者に渤澥の泓澄を知らしめるべきである」とした。
  • 秋七月庚申、雲陽宮に行幸した。乙酉、衛王直が京師で兵を挙げて反し肅章門への突入を図ったが、司武尉遲運らが拒み守り、直は敗れて百余騎を率い逃げた。京師は連雨三旬の後この日晴れた。戊子、雲陽宮から還った。八月辛卯、直を荊州で捕らえ庶人に落とした。乙未、詔して建徳元年八月以前の罪で推糾を受けぬまま後に発覚し官爵を失った者は皆旧に復すことを聴した。丙申、雲陽宮に行幸した。九月庚申、同州に幸した。戊辰、柱国大宗伯周昌公侯莫陳瓊を秦州総管とした。
  • 冬十月丙申、御正楊尚希・礼部盧愷を陳への使いに遣わした。戊戌、雍州が蒼烏を献じた。庚子、詔して蒲州で飢饉に苦しむ民を郿城以西および荊州管内へ移し食を求めさせた。甲寅、蒲州に行幸した。乙卯、蒲州の見囚(在監の囚人)で大辟以下の者を曲赦した。丙辰、同州に行幸した。始州民の王鞅が衆を擁して反したが大将軍鄭恪が討平した。十一月戊午、柱国大司空上庸公陸騰を涇州総管とした。于闐が使者を遣わし名馬を献じた。己巳、城東で大閲を行った。甲戌、同州から還った。
  • 十二月戊子、衛官と軍人以上を大いに会し銭帛を各差をもって賜った。辛卯、月が太白を掩った。詔して荊・襄・安・延・夏の五州総管の管内で従軍を率いて志願する者に官を授けることとし、貧下戸には課役を三年免除した。丙申、諸軍の軍士を悉く侍官と改称した。丁酉、利州が騶虞(瑞獣)が現れたと上言した。癸卯、諸軍を臨臯澤に集め講武した。この間、涼州では地震が続き城郭が壊れ地が裂けて涌泉が出た。