周書卷六 帝紀第六 武帝下

武帝は建德四年(575年)以降、北斉討伐を本格化させ、建德五年(576年)の晋州攻防戦・并州攻略を経て翌六年(577年)に鄴を陥し北斉を滅ぼして華北を統一した。宣政元年(578年)、突厥・陳への遠征を準備するさなか病を得て崩じた(享年三十六)。

年表(7件)
  • 建德四年575年自ら六軍を率い北斉討伐に出陣するが、病を発し河陰から撤兵する
  • 建德五年576年自ら東伐を統率し、晋州城を攻め落とす
  • 建德五年576年晋州城下で北斉主の大軍を撃破し、并州を平定する
  • 建德六年577年鄴を攻め陥し北斉を平定、州五十五・郡百六十二・戸三百三十万余を得る
  • 建德六年577年温国公に封じた旧斉主高緯を誅殺する
  • 宣政元年578年自ら北伐を統率しようとするが病を得て雲陽宮に留まる
  • 宣政元年578年京師に帰還した夜、崩御する。時に三十六歳

建德四年(575年)

  • 正月戊辰、辛威を寧州総管、王康を襄州総管とし、初めて営軍器監を置いた。壬申、詔を発し、農時を大切にし刺史・守令が自ら農を勧め、鰥寡孤独で自活できぬ者を賑恤し、未納の租調・兵役の残余を免除するよう命じた。癸酉、同州に行幸。
  • 二月丙戌朔、日食。辛卯、宿衛官の制を改めた。己酉、柱国広徳公李意が罪により免官。
  • 三月丙辰、小司寇淮南公元衛・納言伊婁謙を斉に使者として遣わした。郡県の主簿をそれぞれ一人に減らした。甲戌、趙王招を雍州牧とした。
  • 夏四月、于寔が罪により免官。丁酉、上書する者は皇太子には「啓」を用いるよう定めた。
  • 六月、東南道四総管管内で去年以来新たに帰属した戸に三年間の税役免除を与えた。
  • 秋七月、雲陽宮に行幸。五行大布銭の関の出入りを禁じ、布泉銭は入るのみ許した。陳が使者を送ってきた。丙子、大将軍以上を大徳殿に召し、帝は北斉討伐の決意を述べ、群臣は賛同した。
  • 丁丑、詔して斉の高氏が信義に背き続けたことを非難し、大挙して数道から出兵し河陰・兗豫を攻めることを命じた。柱国陳王純を前一軍総管、栄陽公司馬消難を前二軍総管、鄭国公逹奚震を前三軍総管、越王盛を後一軍総管、周昌公侯莫陳瓊を後二軍総管、趙王招を後三軍総管とし、斉王憲は衆二万を率いて黎陽へ、隋国公楊堅・広寧侯薛廻は舟師三万で渭より河に入り、梁国公侯莫陳芮は一万で太行道を守り、申国公李穆は三万で河陽道を守り、常山公于翼は二万で陳汝より出た。
  • 壬午、帝は自ら六軍六万を率いて河陰へ向かい、八月癸卯斉境に入った。樹木の伐採・苗稼の践踏を禁じ、違反者は軍法で処断した。丁未、河陰大城を攻め落とし子城を攻めたが陥落せず、帝が病を発したため九月辛酉夜に撤兵、水軍は舟を焼いて退いた。斉王憲・于翼・李穆らは各地で勝利し三十余城を降したが、いずれも棄てて守らず、王薬城のみ儀同三司韓正に守らせたが、正はまもなく城ごと斉に降った。
  • 戊寅、東伐より帰還。己卯、畢王賢を荊州総管とした。冬十月戊子、初めて上柱国・上大将軍の官を置き、開府儀同三司を開府儀同大将軍、儀同三司を儀同大将軍と改称し、上開府・上儀同の官を置いた。甲午、同州に行幸。
  • 閏月、斉将尉相貴が大寧に侵入したが延州総管王慶が撃退した。斉王憲・尉遲迥を上柱国、代王逹を益州総管、司馬消難を梁州総管とした。畿内の諸郡に賢良の推挙を命じた。十一月己亥、司内官の制を改めた。十二月辛亥朔、日食。丙子、陳が使者を送ってきた。この年、岐州・寧州で民が飢え、倉を開いて賑給した。

建德五年(576年)

  • 正月癸未、同州に行幸。辛卯、河東の涑川に行幸し関中・河東の諸軍を集めて狩猟。甲午、同州に帰還。丁酉、詔して大使を四方に派遣し訴訟・民謡を調べさせ、冤罪・侵漁を糾すよう命じた。戊申、私鋳銭者を絞刑とし、従犯は遠方に配流と定めた。
  • 二月辛酉、皇太子贇を西土に派遣して吐谷渾を討たせた。三月庚子、月が東井第一星を犯す。壬寅、同州より帰還。文宣皇后の喪、再期の服を終える。
  • 夏四月乙卯、同州に行幸。開府清河公宇文神挙が斉の陸渾など五城を攻略。五月壬辰、同州より帰還。六月戊申朔、日食。辛亥、太廟を祭る。丙辰、利州総管紀王康が罪により賜死。丁巳、雲陽宮に行幸。
  • 秋七月乙未、京師が旱魃。八月戊申、皇太子は吐谷渾を討ち伏俟城まで至って帰還。乙卯、雲陽宮より帰還。乙丑、陳が使者を送ってきた。九月丁丑、正武殿で大醮を行い東伐の成功を祈った。
  • 冬十月、帝は群臣に対し「昨年は疾のため征討を果たせなかったが、敵の政は乱れ民は苦しんでいる。今出兵せねば後悔する。晋州は高歓の起った地で要衝、これを攻めれば敵は必ず救援に来るのでそこを迎え撃てば天下統一への足がかりとなる」と述べた。将の多くは出征に消極的だったが、帝は「時機を逃すな、逆らう者は軍法で処断する」と断じた。
  • 己酉、帝は自ら東伐を統率。越王盛を右一軍総管、杞国公亮を右二軍総管、隋国公楊堅を右三軍総管、譙王儉を左一軍総管、大将軍竇泰を左二軍総管、広化公丘崇を左三軍総管、斉王憲・陳王純を前軍とした。癸亥、帝は晋州に至り、斉王憲に精騎二万で雀鼠谷を、陳王純に歩騎二万で千里径を、逹奚震に一万で統軍川を、韓明に五千で斉子嶺を、尹昇に五千で鍾鼓鎮を、辛韶に五千で蒲津関を守らせ、趙王招には一万で華谷より斉の汾州諸城を攻めさせ、宇文盛には一万で汾水関を守らせた。内史王誼に六軍を監督させ晋州城を攻めさせ、帝は汾曲に駐屯した。斉王憲は洪洞・永安の二城を攻略。この夜、虹が晋州城上に現れ、南から紫微宮に入り長さ十余丈に及んだという異象があった。
  • 庚午、斉の行台左丞侯子欽が投降。壬申、斉の晋州刺史崔景嵩が密かに降を送り、上開府王軌がこれに応じて夜明け前に城壁に登り鼓噪、斉軍は潰走して晋州は陥落、城主特進開府海昌王尉相貴を捕らえ甲士八千人を関中に送った。甲戌、上開府梁士彦を晋州刺史とし精兵一万を留めて守らせた。諸軍が斉の諸城鎮を攻め、次々に降伏した。
  • 十一月己卯、斉主が并州から自ら来援したが、帝は新手の敵を避け諸軍に撤退を命じ、斉王憲を後拒とした。斉主は晋州を包囲し攻撃、斉王憲は涑水に諸軍を屯して声援した。河東で地震。癸巳、東伐より帰還し太廟に献俘。甲午、詔して斉の悪行と今回の親征の意義を述べ、諸軍を再び発することを告げた。丙申、斉の諸城鎮の降人を帰した。丁酉、帝は京師を発し、壬寅河を渡って諸軍と合流。
  • 十二月戊申、晋州に到着。斉軍は晋州城南に喬山から汾水まで塹壕を掘っていた。庚戌、帝は八万の軍を率い東西二十余里に陣を敷き、常に乗る馬で陣を巡り将士の姓名を呼んで慰労した。将士は感激し奮起した。開戦前、有司が馬を換えるよう請うたが、帝は「自分だけ良馬に乗ってどこへ行くのか」と拒んだ。斉主も塹壕の北に布陣し、斉兵が塹壕を埋めて南進したところを帝は諸軍に攻撃を命じ、斉軍は退却。斉主は麾下数十騎とともに并州へ逃げ、斉軍は大潰走し軍資甲仗が数百里にわたり山積した。
  • 辛亥、帝は晋州に至り諸軍を率いて斉主を追撃。諸将は撤兵を進言したが、帝は「敵を放てば禍を生む。疑うなら私一人でも行く」と拒んだ。甲寅、斉主は丞相高阿那肱に高壁を守らせたが、帝軍が進むと那肱は退散。丙辰、介休に至ると斉将韓建業が城を挙げて降伏、上柱国郇国公に封じられた。丁巳、大軍は并州に至り、斉主は従兄安徳王延宗に并州を守らせ自らは軽騎で鄴へ逃れた。この日の詔(この後、文が欠けている)。

建徳五年 余談・詔(続)

  • 詔の続きに、斉丞相高阿那肱・偽定南王韓建業らの敗走を述べ、天下統一の大義と、投降すれば列侯の礼を与え、逆らえば刑に処すとの内容が続く。この後、高延宗ら斉の将帥の降伏が相次ぎ、賀抜伏恩を郜国公に封じるなど恩賞を与えた。
  • 戊午、高延宗は僭称して即位し年号を徳昌と改めた。己未、軍は并州に至る。庚申、延宗が四万の兵を率い出城して抗戦、帝は諸軍を率いて合戦し斉軍を退け、千余騎で東門から乗じて入城したが、夜に延宗が反撃し城内は混乱、帝軍は大敗し死傷者夥しく、危うく城を脱出。翌朝諸軍を率いて反撃し延宗を大破・捕縛し、并州を平定した。
  • 壬戌、詔して天下統一と偽斉平定の大義を宣言し、大赦天下を行い、旧斉の民・臣も新旧の区別なく赦す旨を述べた。
  • 丙寅、斉宮中の金銀宝器・珠翠麗服および宮女二千人を将士に班賜した。柱国趙王招・陳王純・越王盛・杞国公亮・梁国公侯莫陳芮・庸国公王謙・北平公寇紹・鄭国公逹奚震らを上柱国とし、斉王憲の子安城郡公質を河間王に、大将軍広化公丘崇を潞国公に、神水公姫願を原国公に、広業公尉遲運を盧国公に封じるなど、功のあった者に各々恩賞を与えた。癸酉、帝は六軍を率いて鄴へ向かい、陳王純を并州総管とした。

建徳六年(577年)

  • 正月乙亥、斉主は太子恒に位を譲り年号を承光と改め、自ら太上皇と号した。壬辰、帝は鄴に至る。斉は城外に塹壕・柵を設けて守ったが、癸巳、諸軍で包囲・攻撃し大破し鄴を平定した。斉主はあらかじめ母・妻子を青州に送っていたが、城陥落後は自ら数十騎で青州へ逃走。大将軍尉遲勤に二千騎で追わせた。この戦いで斉昌王莫多婁敬顕を捕らえ、帝は「並走鄴の際に妾を携え母を棄てたのは不孝、外は偽主に尽くしながら内では朕に通じたのは不忠、投降後も両端を持したのは不信」と三つの死罪を挙げて斬った。
  • 甲午、帝は鄴城に入る。斉の任城王高湝は冀州にあり、斉主が河に至って侍中斛律孝卿に伝国璽を送らせ位を湝に禅譲させようとしたが、孝卿は届く前に捕らえられ鄴に送られた。詔して昨年の大赦がまだ及んでいない地にもこれを適用し、斉の開府洛州刺史独孤永業を応国公に封じた。丙申、越王盛を相州総管とした。己亥、詔して晋州の陣から鄴平定までに戦死した者の子には父の本官を授けると定めた。尉遲勤は斉主と太子恒を青州で捕らえた。
  • 庚子、詔して斉末の乱刑により冤罪で殺された右丞相咸陽王故斛律明月・侍中特進開府故崔季舒ら七人を追贈・改葬し、子孫を蔭叙し家財田宅を返還するよう命じた。
  • 辛丑、詔して斉の奢侈な宮殿造営(東山南園・三台など)を非難し、それらを取り壊して木瓦を民に賜い、山園の田は本主に返すことを命じた。
  • 二月丙午、諸軍の功勲を論定し斉の太極殿で酒宴を開き将士に恩賞を与えた。丁未、斉主帝に謁し、帝は賓主の礼で応対した。冀州で兵を擁して抗していた高湝は、斉王憲・隋公楊堅の軍により討平された。斉の定州刺史范陽王高紹義は突厥に逃亡。斉の諸行台・州鎮は悉く降り、関東が平定された。合わせて州五十五・郡一百六十二・県三百八十五、戸三百三十万二千五百二十八、口二千万六百八十六(数値は原文のまま)を得た。河陽・幽・青・南兗・豫・徐・北朔・定に総管府を置き、相・并の二総管にはそれぞれ宮と六府の官を置いた。
  • 癸丑、詔して斉末の圧政による民の苦しみを憐れみ、寛政と賑恤を命じた。武平三年以来、河南諸州で斉に奴婢とされた民は官私を問わず放免し、淮南に住む者はそのまま留めるか淮北への帰還も許し、身寄りのない病者・老人・餓者は刺史・守令が衣食を給するよう命じた。乙卯、帝は鄴より京師へ帰還。丙辰、楊堅を定州総管とした。
  • 三月壬午、詔して山東諸州に明経・幹治の人材各二人の推挙を命じた。夏四月乙巳、東伐より帰還し、斉主を先頭に王公らを次いで列し、大駕は六軍を布いて凱楽を奏し太廟に献俘した。京邑の民は歓呼した。戊申、斉主を温国公に封じた。庚戌、露寝で群臣・諸蕃客を大会した。
  • 乙卯、蒲・陝・涇・寧四州の総管を廃した。己巳、太廟を祭り、詔して東夏平定後も民の疾苦が上に伝わらぬことを憂い、使者を派遣して風俗を観察し治道を宣揚するよう命じた。
  • 五月丁丑、譙王儉を大冢宰とした。庚辰、杞国公亮を大司徒、鄭国公逹奚震を大宗伯、梁国公侯莫陳芮を大司馬、独孤永業を大司寇、鄖国公韋孝寛を大司空とした。辛巳、正武殿で大醮を行い戦功に報いた。己丑、方丘を祭り、詔して質素倹約を旨とし宮殿造営の華美を戒めた。
  • 癸巳、雲陽宮に行幸。戊戌、詔して京師・鄴の宮殿の華美な建物を撤去し、木材・器物を貧民に分与するよう命じた。庚子、陳が使者を送ってきた。この月、青城門が原因不明のまま崩れた。
  • 六月丁未、雲陽宮より帰還。辛亥、正武殿で囚人を録した。癸亥、河州の鶏鳴防に旭州、甘松防に芳州、広川防に弘州を置いた。甲子、帝は東巡。丁卯、詔して同姓の婚姻を禁じ、母の同姓の女を妾とすることも今後は禁じ、既に定めたが未成のものは改めさせた。
  • 秋七月己卯、斉王憲の第四子広都公負を莒国公に封じ、莒荘公洛生の後を継がせた。癸未、応州が芝草を献上。丙戌、洛州に行幸。己丑、詔して山東諸州に才ある者を上県六人・中県五人・下県四人ずつ推挙させ行在所に至らせた。戊戌、庸公王謙を益州総管とした。
  • 八月壬寅、権衡度量を議定し天下に頒布、新式に依らぬものは廃止させた。詔して刑罰の連座制を改め、雑戸を悉く放って民とし、雑役の身分制を永久に廃した。甲子、鄭州が九尾狐(骨のみで肉が失われていた)を献上したが、帝は「瑞祥は徳の現れによるもので、今その時ではない」として焼かせた。
  • 九月壬申、竇熾・李穆を上柱国とした。戊寅、初めて民庶の衣服を綢・綿綢・絲布・円綾・紗・絹・綃・葛布など九種のみに限定した(朝祭の服は除く)。甲申、絳州が白雀を献上。壬辰、東土諸州で経学に通じた儒生を州郡に推挙させた。癸卯、王軌を郯国公に封じた。吐谷渾が使者を送り方物を献上。
  • 冬十月戊申、鄴宮に行幸。戊午、徳皇帝を冀州に改葬し、帝は縗服で哭した。この月、温国公高緯(旧斉主)を誅殺した。
  • 十一月庚午、百済が使者を送り方物を献上。壬申、皇子充を道王、兌を蔡王に封じた。癸酉、陳将呉明徹が呂梁に侵攻し、徐州総管梁士彦は戦いに敗れ徐州に退いたため、上大将軍郯国公王軌に討伐を命じた。この月、稽胡が反乱し斉王憲に討平させた。
  • 詔して永熙三年七月以来去年十月以前に東土の民が抄掠され奴婢とされた者、および江陵平定後に奴婢とされた良人を放免し、旧主人と同居を望む者は部曲・客女として留めることも認めた。
  • 詔して後宮の女官の数を大幅に削減し、妃二人・世婦三人・御妻三人のみとした。己亥晦、日食。初めて刑書要制を施行し、杖を持たぬ強盗一匹以上、杖を持つ強盗五匹以上、監臨主掌の自盗二十匹以上、小盗・詐偽で官物三十匹以上、正長が五戸以上を隠匿または十丁以上を隠匿、田三頃以上を隠匿した者を死刑とするなど刑罰を定めた(規定にない事案は律による)。
  • 十二月戊午、吐谷渾が使者を送り方物を献上。己未、東寿陽の土人が反乱し并州城を襲ったが、刺史東平公宇文神挙が破った。庚申、并州宮に行幸し、并州の軍人四万戸を関中に移した。丙寅、滕王逌を河陽総管とした。丁卯、楊堅を南兗州総管、李穆を并州総管とした。戊辰、并州宮及び六府を廃した。この月、北営州刺史高宝寧が州に拠って反乱を起こした。

宣政元年(578年)

  • 正月癸酉、吐谷渾の偽趙王他婁屯が投降。壬午、鄴宮に行幸。相州広平郡を分けて洺州、清河郡を分けて貝州、黎陽郡を分けて黎州、汲郡を分けて衛州を置き、定州常山郡を分けて恒州、并州上党郡を分けて潞州を置いた。辛卯、懐州に行幸。癸巳、洛州に行幸し懐州に宮を置くよう詔した。
  • 二月甲辰、大冢宰譙王儉が薨去。丁巳、東巡より帰還。乙丑、越王盛を大冢宰、陳王純を雍州牧とした。
  • 三月戊辰、蒲州に宮を置き、同州及び長春二宮を廃した。壬申、突厥が使者を送り方物を献上。甲戌、初めて常冠を制した(皂紗を用い簪を加え纓導を施さない、折角巾に似た形)。上大将軍郯国公王軌が呂梁で陳軍を破り、呉明徹らを捕らえ三万余人を捕斬した。丁亥、江南武陵・南平など諸郡で奴婢とされた民は、江陵放免の例に依り放免するよう詔した。壬辰、改元。
  • 夏四月壬子、初めて父母の喪に服す者は服喪を全うできると定めた。庚申、突厥が幽州に侵入し吏民を殺掠、討伐が議された。
  • 五月己丑、帝は自ら北伐を統率、柱国原公姫願・東平公宇文神挙らに五道より軍を進めさせ、関中の公私の驢馬をすべて軍用に徴発した。癸巳、帝は病を得て雲陽宮に留まった。丙申、諸軍事を停止するよう詔した。
  • 六月丁酉、帝の病が重くなり京師に帰還、その夜、乗輿にて崩御。時に三十六歳。
  • 遺詔して、太祖が乱世を平定し王業を開いたことを述べ、自らは十九年の治世で百姓を安楽にし刑罰を無用にすることができなかったと自省し、王公将帥とともに東夏を平定したが民の労苦はまだ癒えていないとし、天下統一の志半ばで病に倒れたことを嘆いた。太子を輔導するよう王公以下に託し、葬儀は倹約に努め喪期を短くするよう命じ、士庶は三日、子のない妃嬪は家に帰らせるとした。諡は武皇帝、廟号は高祖。
  • 己未、孝陵に葬られた。帝は沈毅で智謀があり、当初は晋公宇文護が権力を専らにしていたため深く才知を隠し、護を誅殺した後は自ら政務を執り厳格に法を執行、号令は懇切ながら罪ある者への処罰は厳しく、群臣は畏服した。明察だが恩恵に薄く、行いはことごとく古人を超えようとし、粗末な布の衣服・被を用い、宮殿の華美な装飾を撤去して土の階段に改め、彫刻・錦繍を禁じた。後宮の妃嬪は十余人にとどめ、下に接する態度は謙虚で、天下統一への軍事訓練に励み、山谷を歩く苦行にも耐えた。平斉の役で裸足の兵士を見て自らの靴を脱いで与えるなど、将士への配慮を欠かさなかった。果断な性質で士卒の死力を得、弱をもって強を制し斉を破った。その後は突厥を平らげ江南を定め天下統一を成し遂げようとする志を抱いていた。

史論

  • 史臣は、東西分裂以来両国が争い続けたが、高祖(武帝)は当初親政できなかったものの、深謀遠慮によって内難を除いた後は苦心して励精し、士卒に先んじて労役に服し質素な生活を送り、富国強兵に努め、機を捉えて五年で大功を成し遂げ祖宗の宿願を果たし東夏の危機を救った盛事であったと称える。もし天寿が全うされ経営の志を成し遂げていれば、その武功と遠謀は前代の王に並ぶものであったろうと惜しんだ。