周書卷三 帝紀第三 孝閔帝
孝閔皇帝(諱は覚、字は陁羅尼)は太祖の第三子。大統八年(542年)生まれ。太祖の死後、周王朝を開いて即位したが実権は従兄の晋公宇文護が握り、帝が護の誅殺を図ったことが露見して逆に廃位・幽閉され、まもなく弑された(在位一年に満たず、享年十六)。
出自と生い立ち
- 孝閔皇帝、諱は覚、字は陁羅尼。太祖の第三子。母は元皇后。大統八年、同州の官舎で生まれた。九歳で略陽郡公に封ぜられた。当時、人相見の名手史元華が帝を見て退き親しい者に「この公子には至貴の相があるが、惜しむらくは寿がその相に見合わない」と語ったという。
魏恭帝三年(556年)
- 三月、安定公(太祖)の世子に命ぜられ、四月に大将軍を拝した。十月乙□、太祖が崩じ、翌丙子に嗣いで太師・大冢宰となった。十二月丁□、魏帝は詔して岐陽の地を帝に封じ周公とし、庚子には帝への禅位を告げる詔を発した。詔では、天命は常に一所に留まらず徳ある者に帰すとして堯舜禹の故事を引き、魏の命運が尽きたことを踏まえ周に禅譲する旨を述べた。大宗伯趙貴を遣わし冊書を持たせ、帝の父文公の勲徳と帝自身の徳望が天地に応じたことを称え、禅位を受けるよう促した。帝は固辞したが、魏帝が朝を離れ大司馬府に遜位したことで、この日をもって事実上の代替わりとなった。
周元年(557年)
- 春正月辛丑、天王の位に即き、柴燎して天に告げ路門で百官に朝した。父文公を文王、母を文后と追尊し、天下に大赦、魏帝を宋公に封じた。この日、槐里で赤雀四羽が献じられたという瑞祥があり、百官は正朔を改めるべきとの議を奏し、暦法を夏の暦(夏正)に合わせ、周は木徳をもって水徳(魏)を承けるとし、服色を黒とすることが定められた。
- 大司徒趙郡公李弼を太師・大宗伯に、南陽公趙貴を太傅・大冢宰・大司馬に、河内公独孤信を太保・大宗伯に、柱国中山公護を大司馬に任じ、大将軍寧都公毓・高陽公逹奚武・武陽公豆盧寧を柱国に、小司寇陽平公李遠・小司馬博陵公賀蘭祥・小宗伯魏安公尉遲迥らも柱国とした。
- 壬寅、圓丘を祠り、詔して「我が周は神農より出て、始祖献侯が遼海に国を啓いた」ことを述べ、太祖を明堂に配して上帝を祠り太祖廟とした。癸卯、方丘を祠り、甲辰、太社を祠り、初めて市門の税を除いた。乙巳、太廟を祠り、丁未、乾安殿で百官を会し賞を頒った。
- 戊申、詔して天下巡撫と民瘼調査を命じ、修身潔已で佐世の才ある者が上に知られず埋もれていないか、冤枉を受けた者、孝義貞節の者、鰥寡孤窮の者、民の衣食の豊約、賦役の繁省、災厲や水旱の状況を具さに奏聞させ、八十歳以上の高齢者には礼餼(禄米などの礼遇)を加えるよう命じた。
- 辛亥、南郊を祠り、壬子、王后元氏を立てた。乙卯、詔して「天地草昧の中に建邦したが、いま諸国を大いに啓いて周の藩屏とすべし」とし、太師李弼を趙国公、太傅趙貴を楚国公、太保独孤信を衛国公、大司寇于謹を燕国公、大司空侯莫陳崇を梁国公、大司馬中山公護を晋国公に封じ、食邑各万戸とした。辛酉、太廟を祠り、癸□、籍田を親耕し、丙寅、剣南の陵井に陵州武康郡を、遂寧郡に遂州を置いた。
- 二月癸酉、東郊で朝日の礼を行い、乙□、永昌郡公広を天水郡公に改封し、戊寅、太社を祠った。丁□、楚国公趙貴の謀反が発覚し伏誅した。詔では「私(帝)が不明のため睦みを欠き、楚公貴を不悦にさせてしまい、万俟幾通・叱奴興・王龍仁・長孫僧衍らと密かに官を仮署し社稷を危うくしようとしたが、事は未遂に終わり開府宇文盛らの告発で発覚した」とし、「善は後世に及ぼし悪は其の身に止める」との古義に基づき、貴・興・龍仁の罪はそれぞれ一家・一房に留め他は問わないとした。太保独孤信も罪ありとして免ぜられた。
- 甲午、大司空梁国公侯莫陳崇を太保、大司馬晋国公護を大冢宰、柱国博陵公賀蘭祥を大司馬、高陽公逹奚武を大司寇、大将軍化政公宇文貴を柱国とした。己□、秦州・涇州が木連理を献じ、歳星が少微を六十日にわたり守った。
- 三月庚子、文武百官を会し賞を頒った。己酉、柱国衛国公独孤信に死を賜った。壬子、詔して浙州の不作に苦しむ民の未納租を免除し、使者を遣わし巡検し困窮者を賑給させた。癸亥、六府の官員を三分の一削減した。
- 夏四月己巳、少師平原公侯莫陳順を柱国とした。壬申、死罪以下を各一等降した。壬午、成陵に謁し、乙酉、宮に還り、丁□、太廟を祠った。
- 五月癸卯、歳星が太微上将を犯し太白が軒轅を犯した。己酉、槐里で白い燕が献じられた。帝は昆明池で漁を観たいと望んだが、博士姜須が諫めたため取りやめた。
- 秋七月壬寅、帝は右寝で訴訟を聴き、多くを哀れみ寛宥した。甲辰、月が心後星を掩い、辛□、太廟を祠り、熒惑が東井北端第二星を犯した。
- 八月戊辰、太社を祠り、辛未、詔して「即位して間もなく政教がなお民に行き渡らず、農民が多く刑網にかかっている。今秋の律で大戮を行うべき時季だが、これは朕の責である」とし、流罪以下を各一等降す肆眚(大赦に準じる寛宥)を行った。甲午、詔して二十四軍に賢良で民を治めうる者を各軍九人推挙させ、推挙された者が後に不称任であれば挙げた官司も罪を問うとした。
- 九月庚申、詔して「君臨天下は一人の力によらず上下の同心によって成る」とし、爵封に浴していない文武の官・軍人に各々二階を授け、太守を郡守と改称した。
- 帝は性剛果で、晋公護が政を執るのを深く忌んだ。司会李植・軍司馬孫恒は先朝の佐命として左右に侍り、同様に護を疾んでいたため宮伯乙弗鳳・賀拔提らと密かに図り、帝に護を誅すよう請うた。帝はこれに同意し、宮伯張光洛も同謀に引き入れたが、光洛は密かに護に知らせた。護は植を梁州刺史、恒を潼州刺史に出したため、鳳らは不安を覚え、さらに帝が群公を召し護を誅そうとしていると奏上し、光洛が再びこれを護に告げた。当時、小司馬尉遲綱が宿衛兵を統べていたため、護は綱を召して廃立を謀り、綱に殿中に入らせ鳳らを議事と偽って呼び出させ、次々と捕縛して護の邸に送り誅した。綱はそのまま禁兵を解散させた。帝はようやく事態を悟ったが左右におらず、内殿に独り宮人に武器を持たせ自守した。護はさらに大司馬賀蘭祥を遣わし帝に遜位を迫り、旧邸に幽閉させ、月余りで弑して崩じた。時に年十六。李植・孫恒らも害された。
- 武帝が護を誅した後、詔して「略陽公(孝閔帝)は至徳純粋、天姿秀傑であったが、魏の祚が終わり天命が改まろうとする時、謳歌が集まり歴数が帰したにもかかわらず、禍が肘腋(身近)に生じ釁が蕭牆(内部)に起こり、幽辱されて弑された。冤は生民に結び毒は宇県に流れた。いま河海は澄み氛沴(凶気)は消え去ったので、追尊の礼を崇め徽号を加えるべし」として、太師蜀国公尉遲迥を南郊に遣わし諡を孝閔皇帝、陵を静陵とした。
史論
- 史臣曰く。孝閔帝は既に安んじた業を承け、楽推(衆望による推戴)の運に応じ、天に柴燎し物に正しく即位し、近くにも遠くにも異論はなかった。魏の文帝の代替わり(黄初)や晋の武帝の禅譲(太始)でさえこれに及ばなかったであろう。しかし政は寗氏(晋の権臣寗喜の故事、ここでは晋公護を指す)に由り、帝は芒刺の疑い(絶えざる不安)を懐き、祭祀は主を寡人としながらも子の礼を再び請うことすらできなかった。これによって禍を速めたのも、宜なるかなというべきである。