春秋左傳事類始末成邑、叛く(成叛)
孟孺子洩の求めを成の宰・公孫宿が拒んだことに端を発し、孟懿子の弔問を成人が冷遇された遺恨から成が斉に叛く。魯は攻めきれず輸に築城し、子貢の弁説などを経て斉と講和、後には稽首の礼をめぐる軋轢や鄭のための会合を経て顧での盟に至るまでの魯哀公十四年(前481年)から二十一年(前474年)の経緯。
年表(5件)
- 魯哀公十四年(前481年)孟孺子洩と成の宰の対立、孟懿子の弔問で成人が冷遇される
- 魯哀公十五年(前480年)成が斉に叛き魯は攻略できず、子貢の弁説を経て魯と斉が講和する
- 魯哀公十七年(前478年)公が斉侯と蒙で会盟し、孟武伯の稽首に斉人が怒る
- 魯哀公二十年(前475年)斉と廩丘で会し鄭のため晋討伐を謀るが鄭の辞退で軍を返す
- 魯哀公二十一年(前474年)公が斉侯・邾子と顧で盟い、斉人が先の稽首の礼を歌で揶揄する
魯哀公十四年(前481年)
- 以前、孟孺子洩が成の邑で馬を放牧しようとしたところ、成の宰・公孫宿はこれを拒み、「孟氏が成を疎んじているのは、まさにこの馬の放牧を許さないからです」と述べた。秋、孟懿子が没すると、成の人々は弔問に赴いたが城内には入れてもらえず、略式の喪服のまま巷で哭泣し、供応を願い出たが許されず、帰参をためらった。
魯哀公十五年(前480年)
- 成が斉に叛いた。孟武伯は成を伐ったが落とせず、輸の地に城を築いた。
- 秋、斉の陳瓘(子玉)が楚に赴く途中、衛を通過した際、子路(仲由)が面会し「天は陳氏を斧や斤(おの)として用い、すでに公室を切り崩させたのかもしれない。他の者がその後を継ぐかどうかは分からず、陳氏が最後まで享受できるかも分からない。魯とよしみを結び時機を待つのがよいのではないか」と説いた。子玉は「その通りだ、私はすでに(斉侯の)命を受けている。あなたの言葉は弟に伝えよう」と応じた。冬、魯は斉と講和した。
- 子服景伯が斉へ赴き、子貢(子贛)を副使として公孫成に面会させた。子貢は「人はみな仕える相手を持ちながら背く心を秘めているものだ、まして斉人があなたを用いているとはいえ、二心がないとは限らない。あなたは周公の子孫であり、たとえ大きな利得を思い描いても不義の利は得られず、かえって宗国を失うことになる、それでは何の意味があろうか」と説いた。公孫成は「なるほど、もっと早くこの言葉を聞いておくべきだった」と応じた。
- 陳成子(陳恒)は魯の使者を館に迎えて「我が君は私・恒を遣わし、衛君に事えるように魯君に事えたいと申しております」と伝えた。景伯は子貢に会釈して前に出させ、子貢が「それは我が君の願うところです。かつて晋が衛を伐った際、斉は衛のために晋を伐ち、冠氏で戦車五百台を喪わせ、そのために衛は済水以西、禚・媚・杏以南、書社五百の地を得ました。ところが呉が魯に乱を仕掛け、その弱みに乗じて讙と闡を奪いました。我が君はこれを深く憂えております。もし衛君が斉君に事えるのと同様に魯君が事えられるなら、それこそ願うところです」と答えた。陳成子はこれに困惑し、成の公孫宿にその軍勢を率いて嬴に入らせた。
魯哀公十七年(前478年)
- 公は斉侯と蒙で会し盟を結んだ。孟武伯が斉侯を補佐して稽首(最敬礼)すると、公も拝礼した。斉人はこれに怒り、武伯は「天子でなければ我が君が稽首することはない」と述べた。
魯哀公二十年(前475年)
- 春、斉人が来て会合を求めた。夏、廩丘で会し、鄭のために晋討伐を謀ったが、鄭人が諸侯の申し出を辞退したため、秋には軍を引き返した。
魯哀公二十一年(前474年)
- 秋、公は斉侯・邾子と顧で盟を結んだ。斉人は先の稽首の礼を持ち出して咎め、それを歌にして「魯人の怠惰は数年経っても改まらず、我らを高々と歩ませる。ただ儒者の書物ばかりが二国の憂いとなる」と揶揄した。
- この会盟に赴く途中、公はまず陽穀に至った。斉の閭丘息は「君がわざわざ足をお運びになり我が君の軍にお立ち寄りとのこと、家臣たちは早馬でこれを我が君に伝えます。お帰りをお待ちいただく間、随行の者たちの宿がまだ整わぬまま君をお煩わせするのは恐れ多いことです、舟道に宿舎を設けさせていただきたい」と申し出たが、公は「あえて従者を煩わせることはない」と辞退した。