春秋左傳事類始末魯、邾を伐ち、呉・斉、魯を伐つ(魯伐邾吳齊伐魯)

魯の季康子が小国・邾を攻めて君主を捕らえたことを機に、呉が邾のために魯を伐ち、微虎の夜襲などを経て講和する。続いて斉との縁組みのもつれから斉が呉に魯討伐を要請し、悼公の弑逆で立ち消えになるが、後に斉が魯を攻めて艾陵で大敗を喫し、最終的に黄池で呉・晋が席次を争う会盟に至るまでの前488年から前482年の経緯。子服景伯の弁論により魯は身分を落とさずに済む。

年表(7件)

魯哀公七年(前488年)

  • 夏、公は鄫で呉と会した。季康子が邾を伐とうとし、大夫を饗して謀ると、子服景伯は「小国が大国に事えるのは信、大国が小国を保つのは仁による。大国に背けば不信、小国を伐てば不仁であり、民は城によって、城は徳によって保たれる。この二徳を失えば危うい」と諫めた。孟孫が「では諸君はどう思うか」と問うと、景伯は「禹が塗山で諸侯を集めたとき玉帛を執る国は万を数えたが、今残るのはわずか数十国のみ。大国が小国を慈しまず、小国が大国に事えなければ必ず危うくなる。魯の徳は邾に勝るわけでもないのに武力で圧するのは不可だ」と述べたが、聞き入れられず退出した。
  • 秋、魯は邾を伐ち范門まで進んだが、なお邾の宮中には鐘の音が聞こえるほど余裕があった。大夫の諫めも聞かれなかった。邾の茅成子は呉に救援を求めたが、呉は「魯の拍子木の音が邾まで聞こえるほど近いのに、呉は二千里も離れ三月かけねば着けない、間に合わない。それに邾の国内にも余力があるはずだ」と拒んだ。茅成子は茅の地を挙げて叛き、魯軍は邾に入って公宮を占拠し、昼のうちに掠奪し、邾子益を捕らえて亳社に献じ、負瑕に幽閉した。
  • 邾の茅夷鴻は束帛と乗韋を携え自ら呉に救援を求め、「魯は晋と疎遠になり呉の勢威を恃んで、君との盟を背き我が小国を圧している。邾自身のためではなく、君の威信が立たなければ小国全体の憂いとなる。もし夏の鄫衍の盟を秋には早くも破るなら、四方の諸侯はどうして君に事えようか。魯の兵賦は八百乗で君の副となり、邾の兵賦は六百乗で君の私兵となる。私兵を副に奉じる形をどうお考えか」と訴え、呉子はこれに従った。

魯哀公八年(前487年)

  • 呉は邾のために魯を伐とうとし、叔孫輒に問うと「魯は名声のみで実がなく、伐てば志を得られる」と答えた。輒はこれを公山不狃に告げると、不狃は「礼に反する。君子は国を去っても敵国には赴かぬもの。まだ臣でない身に伐たれて命に赴くなら死ぬのが道理、隠れるほかない。人は憎むもののために故郷を害することはしない。小さな遺恨で宗国を覆すのは難しかろう。私に率いさせるなら固辞する」と反対した。呉王は子張に命じようとしたが子張は病んだ。王が子洩に問うと「魯は与党を持たずとも斃れそうになれば必ず助ける者が現れる。諸侯はいずれ魯を救い、志は得られまい。晋・斉・楚が助ければ四国を敵に回すことになる。魯は斉・晋にとって脣であり、脣が亡べば歯が寒くなる道理だ。それでも救わぬわけにはいくまい」と答えた。
  • 三月、呉は魯を伐った。子洩は険しい旧道を通り武城経由で進軍した。以前武城の民が呉の地で耕作していた縁で、鄫の漚菅(麻を水に浸す)者を捕らえていたことから、その捕虜が道案内をして武城を攻略し、東陽を落として五梧に進み、翌日蚕室に駐屯した。公賔庚・公甲叔子らが夷で戦い、叔子と析朱鉏を捕らえて呉王に献じると、王は「これは同車の者、望みは持てまい」と述べた。翌日庚宗に駐屯し、泗水のほとりに至った。
  • 微虎は夜襲を企て、私属七百人を幕の庭で三度踊らせて精鋭三百人を選び、有若もこれに加わった。ある者が季孫に「呉を害するに足りず、国士を多く死なせるだけだ」と諫め中止させたが、呉子はこれを聞いて一夜に三度陣を移した。結局呉は講和を求め、盟を結んだ。
  • 斉の悼公が魯に来ていたとき、季康子は妹を嫁がせたが、悼公は即位後に迎えを送らなかった。季魴侯が妹と通じ、妹がその情を告げたため嫁がせずにいたところ、斉侯は怒って呉に師を求め魯討伐を要請した。魯は邾子を釈放して斉の怒りを解こうとした。邾子はその後も無道であったため、呉の大宰子餘がこれを討ち、楼台に幽閉して棘で囲い、大夫たちに太子革を奉じて政をとらせた。秋、魯は斉と講和し、斉の閭丘明が来て盟に臨み、季姫を迎えて帰った。

魯哀公九年(前486年)

  • 春、斉侯は公孟綽を遣わし呉への出兵要請を取り消させた。呉子は「先には命を聞いたのに今また改めるのか。しかし進んで君の命に従おう」と応じた。秋、呉は邗溝を開いて長江と淮水を通した。冬、呉子は魯に使者を送り斉討伐の出兵を促した。

魯哀公十年(前485年)

  • 春、邾の隠公が魯に亡命した後、斉の甥にあたるため斉へ移った。魯・呉子・邾子・郯子は斉の南部国境を伐った。斉では悼公が弑され、その報せが軍に届くと、呉子は軍門の外で三日間哭した。徐承は水軍を率い海路から斉に入ろうとしたが斉軍に敗れ、呉軍は撤退した。

魯哀公十一年(前484年)

  • 春、斉の国書・高無㔻が魯を伐ち清まで進んだ。孟孺子泄が右師を、冉求が左師を率いて斉軍と郊で戦い、魯軍は城に入った。右師は敗走し斉軍がこれを追った。孟之側は殿(しんがり)を務め、矢を抜いて馬に策打ちながら「馬が進まないだけだ」と功を誇らぬふうに述べた。林不狃の部下が「逃げますか」と問うと、不狃は「誰が私に劣ると言うのか」、「では踏みとどまりますか」と問われ「それは恥だ」と答え、ゆっくり歩みながら戦死した。魯軍は甲首八十級を獲り、斉軍は陣立てすらできず夜のうちに逃げ去った。哀公は寵愛する童子・汪錡と同車して戦い、共に戦死し、成人と同じ礼で殯(もがり)を行った。

史論(孔子曰)

  • 孔子は汪錡について「干戈を執って社稷を衛った者は、夭折の礼で扱うべきでない」と評した。また冉有が斉軍相手に矛を振るって軍中に入ったことについても「義にかなう行い」と評した。

  • 夏、郊での戦いの後、哀公は呉子と会して斉を伐った。中軍は呉王自ら、上軍は胥門巣、下軍は王子姑曹、右軍は展如が率いた。斉側は国書が中軍、高無㔻が上軍、宗楼が下軍を率いた。陳僖子(陳乞)は弟の書に「お前が死ねば私は必ず志を遂げる」と言い、宗子陽と閭丘明は互いに激励し合った。桑掩胥は国子(国書)の御を、公孫夏を御する者もあり、公孫夏は「あの二人は必ず死ぬだろう」と述べ、戦を前に部下に葬送の歌を歌わせた。陳子行(陳書)は部下に含玉(死者の口に含ませる玉)を用意させ、公孫揮は部下に「呉兵は髪が短いので、それを目印に討ち取れ」と指示した。東郭書は弦多を通じて琴を送り「もう二度と会えまい」と伝え、陳書は「この戦、進軍の鼓の音だけを聞き、退却の鉦の音は聞くまい」と覚悟を語った。

  • 甲戌の日、艾陵で戦い斉軍は大敗した。魯軍は国書・公孫夏・閭丘明・陳書・東郭書を捕らえ、革車八百乗・甲首三千級を得て哀公に献じた。哀公は大史固に命じ、国子(国書)の首級を新しい箱に納めて黒と薄紅の帛で覆い組紐を添え、その上に「天がもし正しからぬ者を見分けぬなら、どうして小国に力を尽くさせようか」との言葉を置かせた。

魯哀公十二年(前483年)

  • 公は橐皐で呉と会した。呉子は大宰嚭を遣わし旧盟の再確認(尋盟)を求めたが、子貢が「盟は信を確かなものにする手段であり、心・玉帛・言葉・明神によって結ばれる。もし本当に誠意があるなら盟は改める必要がなく、改めるくらいならいくら盟っても意味がない。今さら『必ず尋ねよう』と言うこと自体、盟が既に頼りにならない証だ」と答え、結局尋盟は行われなかった。呉はさらに衛にも会盟を求め、衛侯は鄖で呉に会った。

魯哀公十三年(前482年)

  • 夏、公は単平公・晋定公・呉の夫差と黄池で会した。秋七月辛丑、盟を結ぶにあたり呉と晋が席次を争った。呉は「周室においては我が長である」、晋は「姫姓の中では我が伯(長)である」と主張した。趙鞅は司馬寅を呼び「日も暮れて大事が成らぬのは我らの罪だ、鼓を立て陣列を整え、死を賭してでも長幼を明らかにしよう」と言った。寅は「まず様子を見ましょう」と偵察し、戻って「高位の者に生気がなく、呉王には憂いの色があります。太子が亡くなったのではないでしょうか。それに夷(呉)は徳が軽く長くは持ちこたえられないでしょう、しばらく待ちましょう」と進言した。結局晋が先に立った。
  • 呉は哀公を晋侯に会わせようとしたが、子服景伯が使者に「王が諸侯を集めれば伯が侯牧を率いて王に見え、伯が諸侯を集めれば侯が子男を率いて伯に見えるもの。身分によって朝聘の玉帛は異なり、魯はこれまで呉に厚く晋に薄い貢を納めてきた。もし今回哀公が晋君に会えば晋が伯となり、魯の貢は改めねばならなくなる。魯の兵賦は呉に八百乗だが、子男の身分となれば邾の半分にまで下がり、邾と同様に晋に事えることになる。あなた方は伯として諸侯を召しながら侯として扱いを終えるのでは、何の利があろうか」と反論し、呉はいったん思いとどまった。
  • しかし後に悔い、景伯を囚えようとした。景伯は「かまわない、魯にはすでに後継が立っている。遅速はお命じのままに」と述べ、囚われたまま帰路についた。戸牖に至り大宰(嚭)に「魯は十月上辛の日に上帝を祀り、先王・季辛の祭祀を絶やせない。もし会に赴けなければ祝宗は呉のせいだと言うだろう。魯の身分低い使者を捕らえたところで何の益があろうか」と告げると、大宰嚭が王に言上し、景伯は解放された。
  • 呉の申叔儀は公孫有山氏に食糧を乞い、「佩玉の飾り紐、繋ぐあてもない。うまい酒一杯を、貧しい者と分かち合いたい」と歌で訴えた。有山氏は「精米はないが粗末な米ならある。首山に登り『庚癸』と呼べば応えよう」と答えた。
  • 呉王は宋を伐とうとしたが、大宰嚭が「勝っても占領し続けられない」と諫めたため思いとどまり、軍を帰した。