春秋左傳事類始末楚、陳を滅ぼす(楚滅陳)
呉に攻められた陳を救うため出陣した楚の昭王が城父で病没し、王子申・結・啓が相次いで位を辞退した末、子閭らが喪を秘して越姫の子・章(恵王)を立てて撤兵する。昭王は在世中、災異のたびに祭祀で罪を他者や隣国に移すことを拒み、孔子は「大道を知る」と評した。昭王没後、王を継いだ楚は白公の乱の後に陳の麦を奪おうとして開戦し、ついに陳を滅ぼすまでの前510年から前499年までの経緯。
年表(5件)
- 楚昭王
- 六年(前510年)呉に攻められた陳の救援に出た昭王が城父で病没し、子閭らが章(恵王)を立てる
- 九年(前507年)楚が呉に与した陳を伐つ
- 十年(前506年)楚の子期が陳を伐ち、呉の季札の説得で兵を退く
- 十五年(前501年)陳の弔問使が客死し、遺体のまま呉に入ることの可否が争われる
- 十七年(前499年)白公の乱後、楚が陳の麦を奪おうとして開戦し陳を滅ぼす
楚昭王六年(前510年)
- 呉が陳を伐つと、楚は先君以来の盟約を理由に陳の救援を決めた。城父に布陣し、戦うべきか退くべきかを占うといずれも不吉と出た。昭王は「二度敗れて死ぬのも、盟を棄てて逃げるのも同じ死である。ならば讎(かたき)に向かって死のう」と述べて出陣を決めた。
- 王は出征前に病を得、後継を公子申・公子結に打診したがいずれも固辞し、公子啓は五度辞退した末にようやく受けた。開戦を目前に王は城父で没した。
- 子閭は「王が子を差し置いて群臣に位を譲ろうとされても、それを受けるわけにはいかない。君命に従うのも、君の子を立てるのも順である」と述べ、子西・子期と謀って喪を秘したまま兵を退かせ、越の女が産んだ王子・章(後の恵王)を迎え立ててから帰還した。
- この年、赤い雲が三日にわたり太陽を挟むという異象があった。楚子が周の太史に問うと「災いは王の身に及ぶが、禳えの祭りをすれば令尹・司馬に移せる」と答えた。王は「腹心の病を股肱に移して何の益があろうか。私に大過がなければ天は私を夭折させまい、罪あれば罰を受けるだけで、どうして他人に移せようか」と述べ、禳えを行わなかった。
- また以前、昭王が病んだとき、占いで黄河の神の祟りと出て、大夫たちは郊外で河を祭るよう勧めたが、王は「三代の祭祀は望祭の範囲を越えない。江・漢・睢・漳こそ楚の望む祭祀の対象であり、禍福はこれを越えて及ばない。私に徳がなくとも、河の神に罪を得るはずはない」と述べて祭らせなかった。
史論(孔子曰)
- 孔子はこれを評し、「楚昭王は大道を知っている。国を失わなかったのも当然だ」と述べ、『夏書』の言葉(陶唐の政道を失えば滅びに至る、常道はただ自らのふるまい次第である)を引いて王の判断を裏づけた。
楚昭王九年(前507年)
- 夏、楚は陳を伐った。陳が呉に与したためである。
楚昭王十年(前506年)
- 冬、楚の子期が陳を伐つと、呉の延州来季子(季札)が陳を救いに来て子期に「両国の君主が徳を務めず力で争えば、諸侯の民に何の罪があろうか。私は名誉のために兵を退く。あなたも徳を務め民を安んじられよ」と説いた。子期はこれに応じて兵を退いた。
楚昭王十五年(前501年)
- 楚の子西・子期が呉を伐った際、陳侯は公孫貞子を弔問の使者として遣わしたが、貞子は道中の良で没し、遺体のまま呉に入ろうとした。呉は大宰嚭に命じ「時ならぬ長雨のさなか大夫の遺体を運び入れれば、君の憂いをいっそう重ねることになる」と辞退させた。
- 陳の上介・芋尹蓋はこれに反論し、「使者が客死するのも天命であり、礼には喪に遭っても遺体のまま使命を果たす定めがある。遺体を拒めば礼を棄てることになり、それでは諸侯の主たり得まい」と説いた。呉はついに遺体の入国を認めた。
楚昭王十七年(前499年)
- 楚で白公の乱が起こると、陳はこれに乗じて楚に侵入した。乱を鎮めた楚は陳の麦を奪おうとし、楚子は大師子榖と葉公諸梁(子高)に将帥の人選を問うた。
- 子榖は右領の差車と左史の老を推薦したが、子高は「身分の賤しい者では兵に軽んじられ、命令が行き届かないのではないか」と懸念を示した。子榖は、俘虜の身から武王・文王に重用されて功を挙げた観丁父・彭仲爽の先例を挙げ、出身は問題でないと反論した。
- 子高はなお「天命は諂わない。令尹が陳に私怨を抱いているのなら、天はその子に報いを与えるかもしれない。あなたはこの一件から身を退くべきだ。二人の俘虜出身者に功徳が伴わなければ危うい」と説いたが、王は占いを行い、武城尹の吉に師を率いさせ陳の麦を取らせることとした。陳は抵抗したが敗れ、楚は陳を包囲し、秋七月についに陳を滅ぼした。