春秋左傳事類始末宋、曹を伐つ(宋伐曹)
曹の伯陽が寵臣・公孫彊の進言で覇者を志し晋に背いたことから宋の攻撃を招き、翌年ついに曹が滅ぼされ伯陽と公孫彊が殺されるまでの前488年から前487年の顛末。曹の祖・叔振鐸が夢で公孫彊の出現を予言していたという逸話を交えて語られる。
年表(2件)
- 魯哀公七年(前488年)曹伯が公孫彊の進言で晋に背き宋に無礼を働き、宋が曹を攻める
- 魯哀公八年(前487年)宋がついに曹を滅ぼし、曹伯と公孫彊を捕らえて殺す
魯哀公七年(前488年)
- 宋が曹を包囲した。かつて曹の人々は「多くの君子が社宮に立ち、曹を滅ぼす相談をしている」という夢を見たことがあった。曹の祖・叔振鐸の霊が「公孫彊が現れるまで待て」と請うたので、それに従った。夢からさめて探したが、その時点では曹に公孫彊という人物はいなかった。振鐸は自分の子に「私が死んだ後、公孫彊という者が政をとると聞いたら、必ずこれを除け」と戒めていた。
- 曹伯陽が即位すると狩猟や弋(いぐるみ猟)を好み、曹の田舎者・公孫彊も弋を好んで白雁を獲って献上し、あわせて弋についての持論を語って伯陽を喜ばせた。そこで政事についても意見を求められると大いに気に入られ、寵愛を受けて司城に任じられ政を執らせられた。かつて夢を見た者の子はこれを知り国を去った。
- 公孫彊は曹伯に覇者たらんとする説を進言し、曹伯はこれに従って晋に背き宋に無礼を働いた。宋は曹を伐ったが晋は救援せず、宋は曹の郊外に五つの邑を築いた(この件は哀公七年の出来事とする注記がある)。
魯哀公八年(前487年)
- 春、宋公が兵を退こうとしたところ、曹の人々がこれを罵ったため公は怒って軍を引き返させ、ついに曹を滅ぼした。曹伯と司城の公孫彊を捕らえて連れ帰り、これを殺した。