春秋左傳事類始末衛の蒯聵・輒、国を争う(衞蒯聵輒爭國)

衛の太子蒯瞶が夫人南子の暗殺に失敗して宋へ亡命したことに端を発し、その子輒(出公)が即位した後も父子が国を争い続け、孔悝の乱で子路が死に、蒯瞶(荘公)が即位するも戎州の已氏に殺され、出公が復位・再亡命の末に越で客死するまでの、魯定公十四年から哀公二十六年に及ぶ衛国の父子争国の顛末。

年表(10件)

魯定公十四年(前496年)

  • 衛侯(霊公)は夫人・南子のために宋の公族(宋朝)を衛に招いた。太子蒯瞶は斉に盂の邑を献上する使いの途中、宋の野を通ったところ、土地の者が「お前の牝豚(南子を指す)はもう鎮まったのに、なぜうちの立派な牡豚(宋朝)を返してよこさないのか」と歌って揶揄した。太子はこれを恥じ、戲陽速に「私について夫人(少君=南子)に拝謁せよ。夫人が私に会おうとして振り返ったら、その時にお前が夫人を殺せ」と命じ、速は承知した。
  • 太子は夫人に拝謁し、太子が三度振り返ったが速は進み出なかった。夫人はその様子を見て泣きながら逃げ「蒯瞶が私を殺そうとしている」と叫んだ。霊公は夫人の手を取って台に上らせた。太子は宋へ亡命し、その一味は皆追放された。太子は「戲陽速が私を陥れた」と人に告げたが、速は「太子こそ私を陥れたのだ。無道にも私に夫人殺害を命じ、断れば私を殺すつもりだったろうし、実行すれば私のせいにしていただろう。承知したふりをして実行せず、我が身を守っただけだ。諺に『民は信によって身を保つ』というが、私は信義によってそうしたのだ」と語った。

魯哀公二年(前494年)

  • かつて衛侯(霊公)が郊外に出遊した際、子南(公子郢)が御者を務めた。霊公は「私には跡継ぎがいない、お前を立てよう」と言ったが、郢は答えなかった。後日また言われたが、郢は「私如きが社稷を汚すには及びません、他をお考えください」と答えた。夏、霊公が没すると、夫人(南子)は「公子郢を太子とせよというのが君命であった」と言った。郢は「私は他の子とは違い、君は私の手の中で亡くなられました。もしそのような命があったなら私が必ず聞いているはずです。それに亡命した太子(蒯瞶)の子である輒がおります」と答え、輒(出公)が立てられた。
  • 六月、晋の趙鞅は衛の太子蒯瞶を戚に送り込んだ。太子は八人に喪服を着せて衛から迎えに来た者を装わせ、門で泣きながら入城させ、そのまま戚に居座らせた。

魯哀公三年(前492年)

  • 斉の国夏と衛の石曼姑は軍を率いて戚を包囲した。父蒯瞶が拠る戚を、子輒の衛が攻める形となった。

魯哀公十二年(前483年)

  • 哀公は橐皐で呉と会見し、呉は衛にも参会を求めた。以前、衛は呉の使者を殺害しており、これを恐れて行人の子羽に相談した。子羽は「呉は無道だ、参会すれば我が君を辱めることになりかねない、行かない方がよい」と言ったが、子木は「無道な国は必ず他国に害を及ぼす。大木が倒れる時は何にでも当たり、狂犬は誰にでも噛みつく、まして大国ならなおさらだ」と反論した。
  • 秋、衛侯は鄖で呉と会見した。呉人は衛侯の宿舎を柵で囲んだ。子服景伯は子貢に「諸侯の会見が終われば覇者は礼を尽くすものだが、呉は衛に礼を尽くさず君の宿舎を囲んで困らせている、大宰(伯嚭)に会ってはどうか」と言い、束帛を携えて赴かせた。大宰嚭は「衛君の来訪が遅かったので抑留しようとしているのだ」と言ったが、子貢は「衛君の来訪の遅れは臣下の間の賛否によるもの。賛成した者はあなた方の味方、反対した者はあなた方の敵だ。衛君を捕らえれば味方を失い敵を厚遇することになり、諸侯にも恐れられて覇業は難しくなろう」と説き、大宰嚭は納得して衛侯を釈放した。
  • 衛侯は帰国後、東夷の言葉を真似て見せた。子之(まだ若かった)は「君はきっと東夷の地で死を免れないだろう、捕らえられてなおその言葉を喜んで真似るとは、あまりに軽々しい」と評した。

魯哀公十五年(前480年)孔悝の乱

  • 衛の孔圉は太子蒯瞶の姉を娶り悝(孔悝)が生まれた。孔氏の家臣・渾良夫は成長すると容姿に優れ、孔文子(孔圉)の没後、その未亡人(伯姫)と密通した。太子は戚におり、伯姫は良夫を遣わした。太子は「もし私を衛に入れて国を得させてくれれば、冕を着し車に乗る身分を与え、三度死罪に当たる罪を犯しても許そう」と持ちかけ、盟約を結んで伯姫に取り成しを頼んだ。
  • 閏月、良夫は太子とともに婚礼を装って衛に入り、孔伯姫が先導し、太子と武装した五人が従って孔悝を厠に追い詰めて無理やり盟わせ、脅して台に上らせた。
  • 欒寧は乱を聞くと季子(子路)に知らせを送り、自らは酒食をすませてから衛侯輒を奉じて魯へ亡命した。子路が駆けつける途中、逃げようとする子羔に会い、子羔は「危難に飛び込むことはない」と止めたが、子路は「禄を食んでいる以上、危難を避けるわけにはいかない」と言って中へ入った。門を守る公孫敢に「入るな」と止められたが、子路は「あなたは利を求めて危難から逃げているが、私はそうではない」と言って押し入った。
  • 子路は「太子はどうして孔悝を必要とするのか、彼を殺しても代わりが立つだけだ」「太子は勇気がない、台の半分でも焼けば孔叔を解放するだろう」と言った。太子はこれを恐れ、石乞・盂黶に子路を討たせた。二人は戈で子路の冠の紐を切ったが、子路は「君子は死んでも冠を脱がぬもの」と言って紐を結び直し、討たれて死んだ。
  • 孔子はこの乱を聞き「柴(子羔)は帰るだろうが、由(子路)は死ぬだろう」と言った。
  • 孔悝は太子蒯瞶(荘公)を擁立した。荘公は旧臣を疎み排除しようと図り、まず司徒の瞞成に辛酸をなめさせる言葉をかけた。瞞成は褚師比に告げ共に荘公を討とうとしたが、実行には至らなかった。

魯哀公十六年(前479年)

  • 春、瞞成・褚師比は宋へ亡命した。衛侯(荘公)は鄢武子を周に遣わし、蒯瞶が兄弟のよしみで晋に匿われ、跡を継いで封を守れたことを告げさせた。周王は単平公に、世継ぎの成功を喜び禄位を回復させると答えさせた。
  • 六月、衛侯は平陽で孔悝をもてなし手厚く報いた後、夜半に送り出したが、伯姫はそのまま宋へ亡命した。衛侯は夢占いをさせ、寵臣と占い師が結託して「西南の隅にいる大臣を除かねば害がある」と告げたため、大叔遺を追放した。
  • 衛侯は渾良夫に「先君の跡を継いだが実権を得られずにいる」と相談し、良夫は「疾も亡命した輒も皆あなたの一族だ、才ある者を選べばよい」と答えたが、この言葉が伝わり太子は公を脅して盟わせ良夫を殺すよう求めた。公は「彼とは三度の死罪を免じる盟いをした」と言ったが、太子は「三度の後に罪があれば殺してよいことにしよう」と述べ、公はこれを承知した。

魯哀公十七年(前478年)

  • 衛侯は籍圃に虎幄を築き、評判の良い者を招いて食事の席を設けた。太子の求めで渾良夫を招いたが、良夫が席で裘も剣も外さずに食事をしたため、太子は三つの罪を数え上げて彼を殺させた。
  • 晋の趙鞅は衛に、君か太子が来れば志父(趙鞅)の責めを免れさせると告げたが、衛侯は断った。夏、趙鞅は衛を包囲したが、斉の救援が来ると「衛を討つことは占ったが斉と戦うことは占っていない」と言って兵を退いた。
  • 秋、衛侯は夢で渾良夫と名乗る者が無実を天に訴える幻を見た。占いの卦辞は「大国に滅ぼされる、亡びるなら門を閉ざせ」というものであった。
  • 冬十月、晋は再び衛を攻めたが、簡子は「混乱に乗じて国を滅ぼす者に後はない」と兵を止めた。衛人は荘公を追放して晋と講和し、晋は襄公の孫・般師を立てた。十一月、荘公は鄄から復帰し、般師は退いた。
  • 以前、荘公は城上から戎人の集落(戎州)を見つけ、姫姓の国に戎人がいるのはおかしいと滅ぼそうとし、また石圃を追放しようとした。実行前に難が起き、石圃は職人らを使って公を攻めた。公は城を越えようとして落ち股を折り、戎州の已氏の家に逃げ込んだ。以前、公が已氏の妻の美髪を剃らせ夫人のかもじにしたことがあった因縁から、公が璧を示して助命を乞うても已氏は許さず公を殺し璧を奪った。衛人は公孫般師を立て直したが、十二月に斉が衛を攻め、衛は和を求めて公子起を立て般師を連れ去った。

魯哀公十八年(前477年)

  • 夏、衛の石圃は君主・起を追放し、起は斉へ亡命した。衛侯輒(出公)が斉から復帰し、石圃を追放して石魋と大叔遺を復位させた。

魯哀公二十五年(前470年)

  • 五月、衛侯(出公)は宋へ亡命した。籍圃で開いた酒宴で褚師聲子が靴下のまま席に上がり公を怒らせたことをきっかけに、公はかねて司寇亥の権限を奪うなど強引な統治を重ねていた不満が噴出した。
  • 以前、衛人は夏丁氏を滅ぼしその財産を彭封の彌子に与え、彌子は夏戊の娘を献じて夫人とし、弟の期を司徒としたが、夫人の寵が衰えると期は罪を得た。公は職人を働かせ続け拳彌を近づけ信任したため、褚師比・公孫彌牟・公文要・司寇亥・司徒期らが三匠と拳彌に乗じて武装蜂起し公を攻めた。鄄の子士が守ろうとしたが彌に「衆怒は犯せない、隙を待て」と止められ、公は出国した。
  • 逃避先を巡り、彌の勧めで晋・鄄・魯を避け、越の力を借りるため城鉏へ向かった。彌はその後財宝を持ち去った。公は祝史の揮を頼って衛を侵そうとしたが、衛人はこれを憂い揮を追放し、揮はやがて出公の寵を得て越へ援軍を求めに行った。

魯哀公二十六年(前469年)

  • 五月、叔孫舒が軍を率い越・宋の軍と会し、衛侯(出公)の帰国を図った。公文懿子は「君は頑固で暴虐だ、しばらく待てば民を害し人心が離れよう」と諌めた。連合軍は外州を侵したが衛が迎え撃って大勝した。文子は越の皐如に「衛を滅ぼす気か、それとも君を送るだけか」と尋ねさせ「送るだけ」との答えを得ると、民衆に「蛮夷の力で国を攻める君を迎え入れるべきか」と問い、民衆は拒んだ。厚く賂を贈って守りを固め、出公を入城させずに済ませた。軍は退き、悼公が立てられ、南氏がこれを補佐し、城鉏の地を越に与えた。
  • 出公は「期(司徒期)がこの事態を招いた」として恨みの報復を促したが、期が越で公の贈り物を奪われた一件で公が怒り、期の甥で太子であった者を殺したため、出公はついに越で客死した。
  • 出公は城鉏から弓を子貢に贈り「私は衛に戻れるだろうか」と尋ねた。子貢は表向き「わかりません」と答えたが、使者にひそかに「昔、成公や献公の亡命時には近親の卿が盟を結んで迎え入れる働きをした。しかし今の君には内に親しい血縁の助けも外に支える卿の働きもない、どうして帰国できようか」と語り、「詩に『競う者無きはただ人のみ、四方これに順う』とある、人材を得てこそ国は立つのだ」と評した。